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果てなき夢に生きて

何事にも恐れは在る
それは生きているから。
生きていればこそ
常に死への恐れは在る。

生老病死も恐れ。
現象への恐れ。
現象に心身が苦悩する恐れ。
現状に、
或いは未來の現象に心身が苦痛に歪むことへの苦悩の恐れ。
生まれればこそ
生きていればこそ
生老病死は存在せしめる。

生老病死から派生して
あらゆる恐れは命を宿す。
失敗への恐れ。
拒絶への恐れ。
貧困への恐れ。

自身の恐れが
他者への恐れとなる。

恐れを乗り越えられない自身を見下していれば
恐れの中に在る他者に自身を映して見下すことになる。

自身が恐れの克服しながら生きるならば
他者にその自身を映し出す。

恐れの克服を労い敬意を示す。
自身が恐れの克服に歓べばこそ
他者の生も歓べる。
他者の人生に敬意が溢れる。

修行・苦行は
恐れの炙り出しをする行。
その行をおさめるは
苦悩の克服への歓び。
自身に自信が沸き出でる。

生老病死への恐れとは
自身を信頼することの恐れ。
自身を信頼できぬ時、
他者も信頼できぬもの。

山岳信仰には女人禁制が多く在ります。
これは
自己統合を學ぶ為に
修行として
男性が対の片翼である女性を封じる意味があったと僕は思っています。
修行はネガティヴ(不幸)を炙り出してそこに焦点を徹底的に集めますから。

役行者が山伏の始まりであれば、彼がこの修行を始めた可能性は高い。

入山への女人禁制には色々な意味合いが在るのでしょうが、ここでは修行としての女人禁制の話をしております。
男性が女性を断つことによる不幸を味わいながら、男性としての自身や男女の陰陽、心身の苦悩などを學びます。

断食という修行も食べ物を断ちます。
生きる幸せを断つことで
生きるとは何かを問える。
それは自身を問うことです。
今の言い方でしたら
【自分と向き合う】

断食を続ければ
いずれ死にます。
断食とは死と向き合うことで
生としての自身と向き合っているのです。

究極的な恐れとは死に在りますから
その死の恐れを炙り出している修行となります。

これは
女人禁制も同じなのです。
男性が女性と出逢わなければ
新たな命は生まれません。

命としての自身(男性)を思えば
女性と出逢うこととは生なのです。

つまり
男性が女性と出逢わないこととは
死なのです。

死の苦悩を炙り出す為に女人禁制はあったと僕は思います。

子供の頃には公園や道路でも廊下でも全力で走っていました。
特に理由もなく、ただ樂しくて。

いつの頃からか僕は全力疾走することをやめていました。

走る。
ただ全力で走ることに
電車に乗り遅れるからという理由が必要になりました。
競技だからという大義名分が必要になりました。
そしてそこに
子供の頃のような全力で走ることそのものへの純粋な樂しさや歓びは僕にはありません。


銭湯やまぐわいの時、裸になることに僕は恥ずかしさを感じます。
それは陰部を露出するからです。
その証拠に下着さえ履いていれば半裸になっても恥ずかしさは殆ど感じません。

では何故、陰部を曝け出すのが恥ずかしいのか?
もっと言えば、恐れを抱くのか?

そのことへの僕自身の解答は
陰部とは
➖子供の自分自身➖だからです。

子供の自分は
子供の純粋な樂しさや歓びを体現します。
それがまぐわいの時の陰部の反応です。

大人の自分が
子供の自分に羞恥心を抱くのです。

それは純粋に樂しみ、歓んでいることに対しての羞恥心。
言い換えれば
子供っぽい自分を見られることへの抵抗です。


僕は常識の枠にハマって
街中を全力で走って樂しむのは子供
風船をプレゼントされて歓ぶのは子供
のように思い込んだのです。

大人とは
街中を全力で走って樂しむなんてしないもの
大人とは
風船をプレゼントされても歓ばないもの
と、どんどんその枠の壁を厚く堅牢なものにしていきました。

その堅牢な壁の中に僕は魂を封印したのです。

➖子供の僕を封印した➖
➖魂の僕を閉じ込めた➖

ここで僕が思うことは

➖童心が魂の正体➖

ということになります。

だからこそ
赤ちゃんの魂は純粋なのです。
そして
インナーチャイルドは魂だと僕は主張するのです。

生きていく中で
僕たちはマインドを使うように刷り込まれます。

『それが大人になること』
つまり
そのことが人間として正しいのだと思い込みます。

マインド優位になった人ほど
樂しむことも歓ぶことも
マインドを使ってコントロールしようとします。

つまりそれが
➖童心の封印➖です。

アダルトチルドレンの苦しみとは
童心を封印して生きることの生きづらさです。
僕がまさにそうです。

童心とは魂そのもの。
魂を封印して生きると
生きることに樂しみも歓びも見出せなくなるのです。

周囲の目が氣になる時、
それは大人のマインドが
封印した童心が見つからないかとビクビクしている時です。
さらに言えば
封印された童心が
その堅牢で厚い壁ゆえに
殆ど存在感が無くなれば、
それは魂が無いのと同じ。
魂の無い状態で人の中に入る時、
人は自分でその場に立てません。

自分が無いからビクビクします。
マインドだけは活発ですから
魂無しで周囲の反応だけを氣にして
さらにビクビクは増していくのです。
自分という正解を持たずに
他者という正解に晒されている氣持ちになって、不安と緊張で生きた心地がしないのです。


まぐわいが可能になるのは第二次性徴期以降です。
この時、軀は大人になります。
マインド付与で刷り込んだ理想としていた大人になるのです。
この時に
自分の魂である童心が無ければ
まぐわいの樂しみや歓びを否定します。
大人とはむやみに樂しまぬもの、歓ばぬものと刷り込んでいますから。

軀は大人になって
本能的にも性欲は高まっていくばかり。
童心は樂しみたい。
童心は歓びたい。
まぐわいたい。
しかし
時が経つごとにさらなる大人へと成長していなければならない、とマインドは命令します。
この葛藤がアダルトチルドレンの恋愛への苦しさです。僕の場合はそうでした。
僕に限っては
ついに女性全てを遮断したのです。
そうすれば、見つけられることは無いですから。

➖子供な僕の至らなさ➖を。

子供は生命力に溢れています。
その子供の生命力を大人になっても保つのが性器です。

性器という
➖子宝➖の象徴は
子宝としての自身を象徴し
子宝としての他者を象徴し
新たな命の誕生を象徴します。

そしてそれは魂の本質になります。

刷り込んだマインドは
むやみに歓ばない
やたらと樂しまない
イメージとしての大人像を魂の理想とします。

既存の常識に抱く日本人の最大の恐れは
理想とする大人像からの逸脱です。

性への否定や抵抗は
現代の日本人の病と言っても良いものです。


男性が女性と出逢わない苦しみとは
死の苦しみなのです。
それは僕自身が検証済みです。

女人禁制というかつての修行を
今生で続けてみましたから🤗
その下地として
アダルトチルドレンになるまでの
マインド付与を行って戴いたのです。

かつてから修行が好きだったようです。
厳しい修行でそれは苦行と言うべきものだったと思います。

今生では山に籠もらず
人里に籠もりました。

人と向き合う苦行を通して
なおのこと、男女の団欒を愛びました。
そこに自己統合としての男女も在りました。
そしてこの世の成り立ちも。


思春期以降、
僕は女性を遮断したのです。
かつての苦行の続きです。
この苦行開始までにアダルトチルドレンになる為のマインド付与はできていました。
その頃から
僕は自分の性器を直視できなくなっておりました。
そして朝の生理現象もこの時から在りませんでした。

僕という男性にとって
女性の遮断とは
男性としての自分の遮断でした。

そして
ますます童心を失っていき
笑うことも失くなっていきました。


遮断が失くなっている先日、
アダルト動画を観ていて
男性器女性器を見た折、
思わず僕は笑いました。

その笑いというものに
確かにおかしみとか面白さも見出しておりましたが、子供が歓んではしゃいでいるように見えて、微笑ましく笑ったのです。

無邪気に遊ぶ子供達を見て微笑む感覺でした。



男性と女性
男性性と女性性

マインドとスピリット
常識と眞理

山中と人中
苦行と日常

これら二本の両翼は
僕の➖愛➖を運び動かしました。

あらゆる陰陽は
愛と三巴の関係に在るのです。


どれが欠けても
人(ジン)は仁(ジン)に留まり
神(シン)という眞(シン)には至りません。

神(シン)というのも
世界的なマインドによって
理想像が眞(シン)から遠のいています。

常識の中に在るのが人です。
その常識が我(ガ)となります。
世界的な常識とは
個人的な常識の集合無意識です。
つまり
全ての人に我(ガ)は在るということ。
それを否定も非難もしません。
それを求めて人(ジン)になっているところは大きいですから。
人(ジン)が陰陽の統合を果たすと仁(ジン)になります。
ですから仁とは
人偏に数字の【ニ】(陰陽を表す)なのです。

他者としての男女が統合すれば愛が生まれます。
それが神(シン)です。
統合とは我(ガ)の浄化ですから
結婚すると我(ガ)のぶつかり合いが起きて
否応なしに我(ガ)と向き合うことになって夫婦共に我(ガ)を浄化していくのです。
その過程に愛の愛び(まなび)が在り、愛は育っていくのですね。

そしてその人(ジン)と仁(ジン)から我(ガ)が浄化された愛というのが眞(シン)の愛。
つまりそれは
眞心です。
その眞心こそが神(シン)となります。
ですから
愛とは神なのです。
そして
神というのは僕たちの先祖です。
と同時に
魂として一つですから
僕たち自身ということになります。

聖長過程にいる僕らは
まだまだ➖子宝➖ということになり、
聖長の為の過去で在り、今で在り、未來で在るのですね。




長くなりましたね🌲


休み休みいきましょうか☺️


最後まで御読み戴き
ありがとうございました😊✨



またねっ👋🍀



ルフィは子供の頃の思い出を大切にしています。

シャンクスからもらった麦わら帽子だって
少年時代の思い出なんです。

少年ルフィと
青年ルフィが共に生きている。

過去と今の自己統合が出來ている。
だから
愛として今と未來に賭けられる。

後悔がないんです。

いえ、

後悔を乗り越えて愛に生きているのです。

闇も光も愛として冒険しているのです。


祭統 白宇
SHIR㊉W

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