宇宙と祈りの間で 02|宇宙の始まりは「点」だったのかという問い
宇宙の始まりという話になると、
つい「最初はひとつの点でした」みたいなイメージで受け取ってしまう。
たぶんそのほうが、わかりやすい。
小さくて、ひとつで、そこから全部が始まった。
そう聞くと、頭の中には図も浮かぶし、
なんとなく理解した気にもなれる。
けれど講演を聞いていると、
どうもそんなに簡単な話ではなさそうだ、という感触だけが、じわじわ残った。
「点」と呼んでしまった瞬間に、
何かをわかった気になりすぎるのかもしれない。
もちろん、専門的にはもっとちゃんとした説明がある・・・。のだと思う。
でも私の手元に残ったのは、
宇宙の始まりを、こちらが思っているほど気軽に「点」で片づけてしまっていいのだろうか、
という引っかかり・・・
点、というと、つい紙の上の印みたいに思ってしまう。
小さくて、固まっていて、見えていて、
そこにぽつんとあるもの。
でも宇宙の始まりの話で言われるそれは、
そんなふうに、こちらが安心して眺められるものではないのだろう。
そもそも「始まり」という言葉からして、
もうこちらの時間感覚に引っ張られている。
私たちは何かの始まりを、
朝みたいに、
一日目みたいに、
何もなかったところに最初の一歩が置かれる感じで考えがちだ。
けれど宇宙の始まりは、
そういう日常の「はじまり」と同じ顔をしていないのだと思う。
講演を聞きながら、
始まりのことを考えているはずなのに、
むしろ「始まりって何だろう」という、もっと手前のところで立ち止まる感じがあった。
始まりは、ほんとうにひとつの点なのか。
点だとして、それはどこにあるのか。
どこに、という言い方自体がもうずれているのか。
前とか後とか、外とか中とか、
そういう言葉が使える話なのか。
考えようとすると、すぐ足場がなくなる。
でも、その足場のなさが、かえって印象に残った。
わかった、ではなく。
わからないまま、でも確かに何かを見た感じ。
宇宙の始まりを「点」と呼ぶことには、
説明としての便利さがある。
けれど、便利な言葉ほど、
ほんとうは大きすぎるものを、小さく持てる形にしてしまうことがある。
今回ひっかかったのは、たぶんそこだ。
宇宙の始まりという、とてつもなく大きな話を、
人がようやく触れられる大きさまで縮めて、
「点」という言葉で受け取っている。
それは理解の入口としては必要なのかもしれないけれど、
入口をそのまま答えにしてしまうと、
たぶん何かがこぼれる。
宇宙は今も膨張している、という話が、
世界はまだ途中にあるという感じを残したのだとしたら、
宇宙の始まりは「点」だったのか、という問いは、
その「始まり」さえ、こちらが思うほど単純ではないのだと教えてくる。
それは少し、怖い感じでもある。
世界には始まりがあったらしい。
でも、その始まりは、
こちらが簡単に絵に描いて納得できるようなものではない。
そう思うと、
宇宙の話を聞いているはずなのに、
人が何かを理解するときの限界みたいなものまで見えてくる。
見えるようにしたい。
わかる形にしたい。
名前をつけたい。
図にしたい。
でも、どうしてもそこからはみ出してしまうものがある。
宇宙の始まりは、たぶんそういうものの代表なのだろう。
だからこの話は、
「最初は点でした」で終わるより、
むしろ「点と呼んでしまっていいのか」という問いのまま持っていたい気がする。
そのほうが、わからなさをごまかさずに済む。
そのほうが、宇宙の大きさに対して、少しだけ誠実な気もする。
講演のあと、2025年のメモを見返していて、
この話が思いのほか残っていたのも、
たぶん答えが気持ちよく閉じなかったからだと思う。
きれいに閉じない問いは、あとからまた開く。
通りすぎたつもりでも、
時間差でこちらを呼び止めてくる。
宇宙の始まりは「点」だったのか。
まだうまくは言えない。
でも、簡単に「そうです」と言ってしまわないところから、
このシリーズの次の扉が開いていく気がしている。
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