飯盛城登城記②|歴史の常識を覆す石垣があった
四条畷駅のロータリーに立った瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。気持ちいい。思わず深呼吸する。
駅から少し歩いていくと、こんもりとした緑の山塊がどっしりと居座っている。
標高314メートルの飯盛山。あの山の中腹から山頂にかけて、東西約400メートル、南北約700メートルという西日本最大級の巨大山城「飯盛城」が眠っている。
駅前から東へ真っ直ぐ伸びる参道を歩き始める。昔ながらの商店、静かな住宅、のんびりした休日の空気。ごく普通の街並みだ。しかしこの足元の土地は、古くから交通の要衝であり、血生臭い歴史の舞台でもあった。何食わぬ顔で日常に溶け込んでいるが、歴史の地層はちゃんとそこにある。そういうギャップが、たまらなく好きだ。
緩やかな坂を15分ほど歩くと、鎮守の森に抱かれるように立派な鳥居が現れた。飯盛城の主要な登山口でもある「四條畷神社」だ。

明治創建のこの神社が祀るのは、南北朝時代の若き武将・楠木正行(まさつら)。天才軍師・楠木正成の嫡男であり、歴史好きの間では「小楠公(しょうなんこう)」の愛称で親しまれる人物だ。
日本史屈指の「義に生きた悲劇のヒーロー」である正行だが、いくつか逸話がある。
彼は吉野の如意輪寺に出陣の挨拶に向かった際、御堂の扉に鏃(やじり)を使って「かへらじと かねておもへば 梓弓 なきかずに入る 名をぞとどむる(生きて帰ることはない覚悟なので、死者の数に私の名を留めておく)」という辞世の句を刻み込んだという。
その一方で、かつて川で溺れていた敵の敗残兵たちを助け出し、着物や薬を与えて故郷へ帰してやったという、戦国時代なら考えられないような人道的なエピソードの持ち主でもある。
強くて、優しくて、潔い。完璧か。そりゃ神社も建つ。
その正行が足利方の大軍と激突し、20代半ばという若さで命を散らしたのが1348年、まさにこの地で起きた「四條畷の戦い」だった。

そしてその悲劇の舞台から約200年後、今度は三好長慶が「天下人の首都」としてこの山を選ぶことになる。南北朝の悲劇と戦国の覇権ドラマが、同じ一つの山に重なっている。これだから歴史歩きはやめられない、とまらない。かっぱえびせんか。
本殿で今日一日の安全を祈願して、神社の脇から登山道へ踏み入れた途端、空気の質がガラリと変わった。いよいよ登城開始だ。
序盤から、容赦がない。
木漏れ日の中を登り始めて数分、じんわりどころかしっかり汗が出てきた。とはいえこの地形の険しさこそが山城最大の防御力だと思えば、なんとなく体験型の歴史学習をしている気分になれる。

登り始めて40分ほど、ふと顔を上げたとき、山道の様相が一変した。
人工的に尾根を断ち切った「堀切(ほりきり)」、斜面を削り平らにした広大な「曲輪(くるわ)」の跡。
要塞の骨格が次々と顔を出し始め、そして、木々の間に、それは静かに姿を現した。
石垣だ。

苔むして、半ば土に埋もれながら、それは確かな存在感でそこにあった。自然の石をそのまま積み上げた「野面積み(のづらづみ)」特有の、無骨で荒々しい石の壁。「本格的な石垣を城に導入したのは信長の安土城が最初」という歴史の常識を根底からひっくり返したのが、近年の発掘で明らかになったこの飯盛城の広範な石垣群の遺構なのだ。
江戸時代の定規で引いたような整然とした石垣とは違う。戦国前期、権力の意思で荒々しく積み上げられた生々しい要塞の骨格。四百数十年前、名もなき石工たちがこの重い石を山へ運び上げ、一つひとつ積んでいったのだと思うと、息の苦しさも、虫除けスプレー無しで来た後悔も、一瞬どこかへ消えた。
ただその場に立ち尽くして、石垣を見つめていた。
③へ続く
