短編小説221「針管は白金色にギラリと光る」前編
遡ること数十年。大明林小学校3年1組の教室で、針管(はりすが)は帰りの会に予防接種の案内プリントが配られた。とあるワクチンを学校で受けられるという。担任の「ちゃんと親御さんに見せるように。」の声しか耳にはいっていなかった。プリントを「これを親に渡すのね」とパッと見てランドセルに入れた。
帰ってから母に渡すと、「注射ねぇ。あんた大丈夫なの?」と心配された。針管は「え、注射なの?」と聞き直した。普段プリントなど全く読まないが、この時は三回読み直した。変な汗が出てくる。「んー、どうしよう」とプリントを置いて、ぼりぼり頭をかいた。本当にどうするか思い浮かばない。
というのも、針管は注射が大の苦手だった。それを隠すために、わざわざ病院で打ってもらっていたほどだ。しかも、両親の手を握らないと怖くてたまらなかった。現在でも誰か手を握ってもらえないかと思うほどだ。
母は「明日、電話して病院で打っていいか聞いてみようか?」と提案してくれた。おそらく、病院の方がお金はかかるが、体調不良でもないのに「怖いから」という理由で学校を休むのは情けない、というのが両親の本音だろう。とはいえ、「注射している最中に暴れられるのも迷惑がかかる」という別の心配もあったらしい。
その日の夕方六時半。家の固定電話が鳴った。友人の白金(しらかね)からだった。「もしもし、どうしたの?こんな時間に。」
針管が聞くと、白金は事情を話し始めた。どうやらクラスメイトの知道(しりみち)が、「針管くんは注射が怖いらしいよ。カッコ悪いよね」と、どこから漏れたのか言いふらしているらしい。まぁ見当は付くが…。
だが、腹を立てた白金が「針管君は注射なんて怖くないし、嘘つかないでよ!」と勢いで反論してしまったという。「もちろん怖くないよね?」と確認するための電話だったのだ。電話口で針管は焦った。「こ、怖い?まさか。なんなら一番はじめに打ってもらってもいいよ。」と不意に口に出してしまった。
ごまかしているとは露ほども思っていない白金は、「そうだよね、針管君がそんなはずないもんね。じゃあ、また明日!」と嬉しそうに電話を切った。「白金…。」と何か言いたかったが時すでに遅し。「ツー、ツー。」とビジートーンが鳴っていた。
後ろで聞いていた母が「あぁもう、どうすんの?」と呆れていた。横で父は「白金君が言ってくれたんだし、男の子だろ。」と発破をかける。父が「怖いものは怖い」とお化けを怖がっているのを知っている。自分も注射が怖いのだ。言い返したいが、「わかったよ。」と一言。結局、母も心配したが、学校で打つことになった。
翌日から、知道は「注射怖いんでしょ、知っているんだから。」とからかってきた。実は以前、たまたま病院で「注射って痛くない?怖いよ。」と母にすがる姿を知道に目撃されていたのだ。これは本当にたまたまだったが、同じ地域に住んでいる定めでもある。「なんでよりによって知道なんだよ」と絶望した。まぁバレた時点で誰でも同じなのだが…。
だが、白金をはじめ友達が多く、クラス委員もしている針管に対し、周囲は「頭が良い」、「足が速い」、「正義の味方」などと良い噂ばかりが一人歩きしていた。何度か「そんな事はないよ。」と否定したが「またまた。」、「本当のことでしょ。」と流されてしまった。確かにその時、クラスでテストは一番だったし、過去のリレーでアンカーを務め逆転した事実はあった。
だからなのか今回、「針管君が注射を怖がるわけない」と誰も知道の言葉を信じなかった。「少ない真実より、大きな噂を信じる」というある意味、注射より怖い集団心理である。
知道に嘘つき呼ばわりさせないためにも、針管は必死だった。注射とは関係ないはずの算数や体育、道徳の授業でさえ、誰よりも早く挙手をして「怖がっていない、余裕のある自分」を演じ続けた。
そして予防接種の当日。クラス三十人を半分の十五人ずつに分け、二つの部屋を使うことになった。通常なら、出席番号一番の青葉(あおは)と、十六番の名城目(なきめ)がそれぞれの部屋で最初に打つはずだった。一番に打つことなどできないはずの針管にとって、これは計算外の事態を引き起こした。
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