短編小説46「六面鏡」
自分であり自分ではないものであった。正確には板や壁であり、それは無機質で何も意思を持たない。だが、私がそれ自体に意味を見出さずにはいられない状態だったことは紛れもない事実だろう。
異空間が見えて、虚像である事に気付く。この繰り返し。常に感じる視線とプレッシャー。機能し続ける己を律する第三の目。自分じゃない自分。おかしくなりそうな時、落ち着いた時、どんな時にも常に自分はいる。孤独と紛らわせる存在の共存。劇薬中の劇薬だろう。
当時、籠内 禰堵子が書いた日記の抜粋である。禰堵子は今、見返しても奇妙であり、もう一度戻りたい気持ちもある。それ以前の自分を振り返るといじめを受け、卑屈で物の見方が歪んでいた。褒め言葉や励ましも嘘だと認識していたし、何か貶めるための手段だと思い込みが強かった。友人は離れ、最後の友人の真悠もいなくなり、清々していたところに1人の高校生が現れた。
その頃、「付き添いバイト」という仕事があり、禰堵子も数回参加していた。このバイトで雇い主から最低賃金だが報酬が出る。このバイトの決まり事は年齢と性別の申告、期間設定である。3番目の期間設定は、最短一週間から一ヶ月の間で付き添い可能か申告するというものだ。ただし、深夜を除き、依頼の連絡を受け取れる状態にしておき、行けるか行けないかを即座に返信する、というルールがある。
このバイトは付き添いを依頼する方が雇い主で、付き添う側は従事者という立場が確立されている。バイトの運営側はあくまで仲介役という立場で、双方のトラブルについて責任を負わない仕組みになっている。禰堵子が二度とこのバイトをしないと決めたのは、欲をかいて「とある所」に入る事になったからだ。
その日、早朝連絡が入り即座に「行ける」と返信すると、場所指定が返信され、指定された場所に行くとそこは駅前だった。そこに現れたのは女子高校生だった。初対面でありながら、何か既視感を感じるものがあった。だが、いきなり交渉を持ちかけられた。「ねぇ、あなたが禰堵子さん? お金、欲しいでしょ。そうなら契約しない?」と、あまりにも単刀直入に聞いてきた。
禰堵子は「いきなり何?失礼すぎない。」と言い返した。同性で親しみを覚える事はあっても、こんな短時間で嫌悪感を抱いたのは初めてだった。「まぁ聞いてよ。このバイト、私が雇い主で禰堵子さんが雇用されている状態なの、だから私がして欲しいことに付き合う形で成り立っているの。」と指を指し、上から人を見下す感じで話した。高校生は「でも選択はあなたにも出来る。一時間ただ過ごすか、さらに明日もう1件仕事するかだけど。」、「どうするか分かりやすく書くわね。」と紙を取り出した。
『「1226円」or今日の最低賃金+「1226×1.25=1533、1533×7=10731」』と2つ選択肢を書いた。
前者の場合、渡す現金の用意があった。後者は禰堵子にも分かるよう最低賃金、深夜割増率、拘束時間がどれを指すかも書いた。夜勤の場合、25%増になるので拘束時間が長ければ報酬は高くなる。禰堵子はこの高校生の無礼な態度よりも報酬に目が行っていた。というのも、3月で大学を卒業し、アパートを解約して引っ越しする予定だったため、お金は必要だったのだ。
禰堵子は「後者でお願い。」というと付き添いバイトの仲介会社に電話をかけ、依頼の追加をした。「あぁもしもし、明日、10時から日にちまたいで5時まで、籠内さんという方を一人でお願いします。」と言うと電話を切った。
禰堵子は高校生と何を話すでもなく、時間をすごした。終わりに1226円を渡すと足早に去って行った。やかましく鳴り響く舗装工事の機械音と石油の匂いより、今の現金が7倍、しかも25%増しになるとウキウキしていた。
翌日、指定場所に行くと暗い街灯の下にある占いをしているお店だった。中に入って「真美の客」と伝えた。メッセージに場所のリンクと店の人にそう伝えるように書いてあったのだ。
奥へ進むと暗い廊下を進み、突き当たりのドアに入った。白衣を着た主人が「荷物は全部預けてください。」と言った。どうして占いのお店なのか、真美は私に何故名乗らなかったのか、荷物を預ける意味など疑問が深まるばかりだが、報酬をもらえると思えば特に気にする事もなかった。
荷物を預けた部屋の隣に部屋があった。主人は「今から明日の5時まで服を着ないで過ごしてもらいます。出ることは基本できません。部屋の中は机と椅子、ペンとノート、給水器があります。奥にトイレ、赤い緊急ボタンも万一の時は押してください。」と一通り説明した。「頭がおかしいのか、私が聞き間違えたのか」と思ったのだ。だが、この男を見ると禰堵子の緊張と不安は消え去った。
それは今思い出すと巧妙な心理効果を狙ったものであった。白衣を着ているだけで、知的に見えるハロー効果、店に入るところから奥の部屋まで、ホテルマンのように案内をし、単純接触効果が働いている。外から奥まで遠く、暗い事で接触回数も多くなっている。加えて、どのように店を出るか分からないのだ。
不思議とその部屋へ向かう自分自身が怖かった。いよいよ部屋のドアをあけると真っ暗な部屋でドアが閉まると同時に電気が点いた。禰堵子は部屋の全面を見て驚くのであった。なぜなら、天井、床、壁が全て鏡なのである。中央にある机と椅子もすべて鏡で自分が果てしなく鏡にいる。トイレも全て鏡で便器には歪んだ自分の顔が写っている。
変わらず自分が見えている意味が刺さり始めた。時計すらなく、待ち時間に飲んだコーヒーのカフェインが効いて目をつぶっても眠くならない。頼りない小さな電球も反射することで明るすぎる。
改めて見る自分の顔は絶望した顔でひどく不細工だった。全てを監視されている感覚と一人である認識が行ったり来たりしていた。禰堵子は鏡の使用頻度は多い方だが、必要以上に自分の顔と目が合う。あの真美という高校生はとんでもない女だが、報酬の話が頭をちらつく。
ただ、その時の自分の顔は不敵な笑みを浮かべてそれが気持ち悪い。喜怒哀楽が反射する部屋は禰堵子にとってしばらく地獄だった。音はなく、目に見えるものが常に自分である。少しずつ羞恥心、容姿など外見は気にならなくなっていく。
しかし、全裸で束縛や緊張は、不思議と消えて行った。そして、中央の机においてある紙にペンで何かを書き始めた。そうした瞬間、鏡は天井、床、壁どこを見ても何も感じなくなり、そのうち自分も鏡の自分も親しみを持てるようになった。
時間という概念から切り離された感覚はとても開放的で、晴れやかな気持ちになっていた。押しつぶすような閉鎖的な部屋が今は広く感じる。特殊な環境であるが、「過ごし方」が分かってきた。定刻になる前に何故か気づき服を着ていた。体内時計という副産物まで生まれていたようだ。
荷物を持って店を出ると真美がいた。真美は「どう?気持ちは?」と開口一番、禰堵子に聞いた。「最高!でもあんた恐ろしい女だよ。」と言い返した。真美は少し笑うと「10731円、私は真悠の妹なんだけど、お姉ちゃんあなたの事を心配していたよ。」と封筒を渡した。
禰堵子「へぇ真悠がねぇ、え?妹?」と現金の入った封筒を落としそうになった。聞けば真悠は言葉が通じないほど病んでいるから、いい方法がないかとお店の主人に相談したらしい。真悠は自分が行くと拒むので、真美が雇い主になることと深夜帯で報酬額が弾むので食いつくと読んだらしい。
真美は別れ際、「最初に会った時よりいいよ、そのいきいきした顔をお姉ちゃんにも見せてあげて。」と去った。
真美は別れた後「あの部屋で精神崩壊を起こさなかった初めての人だよ。」と遠くに見える禰堵子の後ろ姿を見つめていた。
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