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短編小説235「スコップに手が伸びる」

 落とし穴とは本来、人工的で意図的に作られるものだが、意図せずハマってしまう「穴」なら、誰しもに経験があるはずだ。穴に落ちたことに、自分ですら気づいていない時もある。そして、穴の外にいる者と中にいる者の比率は、決して等しくはない。文脈的に言えば、後者が圧倒的に多いのではないだろうか。では、それぞれの視界はどう違って見えるのだろう。
 穴の中から外を見る場合、視野は狭くなり、必ず上を向かなくてはならない。深さにもよるが、視界の側面は土や壁に覆われているからだ。さらに、上に立つ影に対して「助けてくれる」「手伝ってくれる」「外へ出してくれる」といった希望的観測を抱いてしまう。たとえ相手がただの物見遊山に来た野次馬であっても、声をかけずにはいられないのだ。
 加えて、逆光のせいで相手の表情や正体は判別しづらい。ただ眩しいだけなのに、相手が「輝いている」と錯覚さえ起こしてしまう。状況を打破したい一心で、なりふり構わず、自分を売り込むための「価値」や「メリット」を話し始める。今やってきたのが、どこの誰かも分からないというのに。つまりそこには、フラットな関係など存在しない。物理的な高低差がそのまま上下関係となり、認識に明らかな乖離が発生しているのだ。
 逆に穴の外から中を見る場合、視野は広く、穴という異物を含めた風景全体を俯瞰することができる。背後から差す光のおかげで、中もよく見える。中にいる人物の表情は筒抜けであり、その言動が平常心ではないことも、火を見るより明らかだ。外にいる者は、絶対的な優位性に立っている。中が焦燥に駆られているならば、外は冷静に判断を下せる。
 この状況を利用しようとする人間が一定数いるのも、頷ける話だ。はっきり言えば、外の人間には「救出」以外にも「放置」や「静観」といった複数の選択肢がある。「あぁ、そういえばあんなところに」と、存在を忘れることさえあるのだ。時間の流れもまた、中では長く感じられ、外では短く、あるいは忘却の彼方へと消えていく。
 また、「落ちたことに気づいていない」場合がほとんどであるため、自分と相手との距離を測り損ねてしまう。外からは距離の変化にいち早く気づくものだが、中からはそれが分からない。皮肉なのは、相手との距離が最も縮まるのは、お互いの足元と頭上が重なる瞬間——つまり、死角に入って何も見えなくなる場所なのだ。距離を詰めれば詰めるほど、相手は見えなくなる。
 そもそも、人はいつ穴に入るのだろう。その原因は「自分で掘った」ケースが最も多く、次いで「掘らされた」が続く。「墓穴を掘る」とはよく言ったもので、自らのミスや過ちを隠そうとしてさらに穴を掘り進めたり、「穴があったら入りたい」と自ら逃げ込んだりすることもある。最初は単なる窪地や溝だったものが、紆余曲折を経て大きな穴になっていくことも珍しくない。閉所恐怖症でなければ、「囲まれた場所」に安らぎを覚える心理も働くだろう。
 理由はともあれ、現実において穴を掘る行為は「骨折り損のくたびれ儲け」でしかない。しかし、精神的な意味では、人は自発的に穴を掘りたがる。ひょっとすると、誰かをそこに引き込み、「同じ穴の狢」という仲間を作りたいのかもしれない。客観的に見れば愚行であっても、気づけば自分もその穴に足を踏み入れている、なんてこともあり得る。
 最初に出会った時、関係性はフラットなはずだ。良くも悪くも、外見や振る舞いから「先入観」という自分勝手なフィルターを通して相手を見ている。遠くの小さな点だった存在が、近づくにつれて輪郭を持ち、立体的な情報となっていく。そこでまた「このあたりか?」と、自分と相手の立ち位置を微調整するのだ。
 ただし、最初から相手を俯瞰できるような高い場所、あるいは若干遠い立ち位置を選ぶ人もいる。その時点で「相手を見下している」も同然であり、そんな関係は長くは続かない。なぜなら、下から上を見上げ続けることは負担が大きく、また上から見下ろされ続けることも、人にとっては不快でしかないからだ。
 しかしながら、ひとたび好意を持ち始めると、人は「都合よく合わせる」「相手を立てる」といった行動をとりがちになる。対等な目線でいたいと願いつつ、どこかで自ら目線を下げようとしてしまう。関係を大切にしたいと願うあまり、いつしか立場に差がある状態を、自ら作り出してしまうのだ。 「自分は何をやっているんだろう」と嘆きつつ、どこか悦びに浸りながら、スコップを手に取る。「掘れ」と命じられたわけでも、「掘る」のが正解なわけでもない。
 ただ「何もしないよりはマシ」という大義名分のもと、無我夢中で掘り進めていく。相手との心の距離が、どんどん離れていっていることにも気づかぬままに。
 「恋は盲目」とはよく言ったものだが、それは自分の足元が見えなくなるほど、一心不乱にスコップを動かしている状態を指すのかもしれない。

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