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短編小説141「きちんトレース」

 命がいくつあっても足りないとは、よく言ったものだ。「楽しさ」と「怖さ」の混濁に病みつきになっていた頃を思い返すだけで、今でも背筋が寒くなる。
 小学校高学年の頃、隣町へと繋がる峠道で、いわゆる「チキンレース」が行われていた。つづら折りの峠道、その最長の坂をノーブレーキで駆け下りる。下りきった場所にある町境のラインがゴールだ。場所は滑筋(なめすじ)峠。町境の手前だけ傾斜が急にきつくなり、坂が長い。斜度12%で40メートル強――大人になってから知ったそのスペック以上に、当時は絶壁に見えた。最大の問題は、最後に180度ターンして大通りに出なければならない点だ。
 つまり、いかにブレーキを遅らせるかという次元ではない。曲がりきれなければコンクリート壁に激突する。「度胸一発」でどうにかなる代物ではなかった。実際、ほとんどの者が恐怖で途中にブレーキをかけてしまう。ノーブレーキで突っ込み、180度ターンを成功させたのは、当時中2だった千曲(ちくま)と勇実(いさみ)の二人だけだった。
 二人はそれを最後にレースを引退した。「危ないから、絶対にお勧めしない」と口を揃えていたが、一人だけ、その話を食い入るように聞く少年がいた。小6の猛早(たけはや)だ。「千曲先輩、その時の話をもっと詳しく聞かせてください!」猛早は他のクラスメイトを押し退けて割り込んできた。勇実が「千曲、知り合いか?」と尋ねるが、千曲は「いや、誰だか知らない」と最初は相手にしなかった。
 しかし、猛早は懲りずに二度、三度とやってくる。ついに千曲も根負けした。「あのなあ、自分がどれだけ危ないことに首を突っ込んでいるか分かっているのか? 中学になったら教えてやるから、今日は帰れ」何度このやり取りを繰り返しただろうか。猛早は引かなかった。「先輩、ずるいです。先輩たちだって小6でやったって聞きましたよ」 誰かが余計なことを吹聴したらしい。このレースには常にギャラリーがいた。二人を除けば、下りきれないのが九割、残りの一割は曲がりきれずに激突寸前で止まる。そんな中で、二人は神格化されていたのだ。
 四度目の訪問時、千曲は猛早を諦めさせるための「妙案」を思いついた。勇実もその提案に頷いた。「わかった。じゃあ実際に下ってみろ。俺たちも立ち会ってやる」二人は雨上がりで路面が滑りやすい日をあえて選んだ。「要は、心底怖いと思わせればいい」という算段だ。
 案の定、峠は濡れており、登り坂ですら足元が滑る。猛早が数回足を滑らせるのを見て、二人は芝居を打った。「今日はやけに滑るな。さすがに危ないんじゃないか?」猛早の顔に緊張が走る。「ここがスタートライン。あそこでくるっと右にカーブして、あの看板がゴールだ」千曲が軽く説明し、さらに追い打ちをかける。「念のためブレーキの効きを確認しておくわ」千曲が少し下り、20メートル過ぎでブレーキをかけると、自転車はタイヤがロックした状態で滑り出した。「やばっ!」わざとらしく声を上げ、千曲は自転車を横にして二輪とも滑らせながら強引に止まった。過剰な演出だが、真に迫っていた。 「千曲が転びそうになるなんて……マジかよ」勇実も便乗する。千曲はUターンして戻ってくると、ガチのトーンで猛早に告げた。「猛早、ブレーキは早めにしておけ。死ぬぞ」二人の圧倒的な運転技術を登りの時点で察していた猛早は、流石に顔を強張らせていた。
 しかし、猛早は「……いや、引き下がるわけにはいかないんで」と覚悟を決めてしまった。それは度胸ではなく、明らかな「無謀」だった。猛早はリュックから「ニッパー」を取り出すと、急に坂を下り始めたのだ。そして下りながら、彼は迷いなく前後のブレーキワイヤーを切断した。
 「ちょっと待て! やばいって!」引き止めようとするが、もう止まれない。「自転車を捨てろ! 飛び降りろ!」二人の叫びも虚しく、猛早は180度ターンの直前まで加速していく。大惨事を確信した瞬間、猛早は急激に内側ギリギリに車体を寄せた。そこから外側のコンクリート壁へ向けて一気にハンドルを切る。道の中央で再び内側へ。後輪が勢いよく滑り出す。そこで猛早はあえてペダルを漕ぎ始めた。濡れた路面で空転する後輪がブレーキの代わりとなり、車体を横に向けたまま猛烈な飛沫を上げて減速していく。猛早はそのまま真横を向いた状態で、ピタリとゴールラインに辿り着いた。
 千曲と勇実は、呆然としながら後を追った。「ったく……」、「マジで勘弁してくれ……」二の句が継げなかった。ただ、猛早が描いたタイヤの跡は、かつて自分たちが通った最高のラインを正確に、きちんとトレースしていた。
 「実はブレーキをかけてた、なんて思われるのも嫌だったんで。あの時、千曲さんに煽られた気がしたんですよ」 後に猛早はそう語った。もっとも、その後に「ブレーキの効かない自転車を先輩二人に担いでもらって峠を帰る」という、気まずいセットメニューが待っていたのだが。
 千曲は言う。「色んな意味で、あれはもう経験したくないね」勇実は苦笑いする。「俺たちがノーブレーキで降りられたのは、たまたま落ち葉と砂が溜まってて、横滑りさせれば減速できるコンディションだったからなんだけどな」噂だけが一人歩きしていた事実を、猛早は後になって知ることになった。
 あの峠は新しいトンネルの開通で今はもう使われていない。「SNSがない時代で、本当によかったな」三人は今でも時折、そう笑い合っている。

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