大事にされても、気づけない
やさしくされた瞬間、どこかで身構えていた。
「何か裏があるのかな」と——受け取る前に、もう疑っていた。
あの頃の私には、それが当たり前だった。やさしさに素直に喜ぶ、という感覚が、どこかに抜け落ちていた。
思い出すのは、初めて「大切にされている」と感じた相手のことだ。
なぜかわからないけど、距離を置いてしまった。 後でやっと気づいた。怖かったんだ、失うのが。 受け取ってしまったら、それがなくなったとき壊れる、と思っていた。
受け取らなければ、傷つかない。
そういう論理が、体の奥で静かに動いていた。
人はたぶん、経験してきたものを「基準」として体に持ち歩く。
大事にされた記憶が少ないと、蔑ろにされることが「ふつう」として刷り込まれていく。 だからそれとは違うもの——ちゃんと扱われること——が来たとき、「何かの間違いだ」とか「そのうち変わる」とか、理由を探してしまう。
それはワガママじゃないし、壊れてるわけでもない。 ただ、やさしさの後に裏切りが来た経験が、どこかに残っているだけだ。
傷ついた回数だけ、人は「また来る」と身構えて生きる。 それは賢さであって、弱さじゃない。
「これって、普通なの?」と思う瞬間がある。
約束を守られたとき。 連絡が来たとき。 話を最後まで聞いてもらえたとき。
それが「特別なこと」に感じられるなら——その人はずっと、普通以下の場所にいたのかもしれない。
比較の基準が、最初からずれているから。 良い扱いを「過剰だ」と感じたり、悪い扱いを「仕方ない」と流してしまったりする。
「自分にはこれくらいが合っている」と思い込もうとする。 でもそれは、合っているんじゃなくて——慣れてしまっているだけかもしれない。
やさしさに慣れていない人が、初めてやさしくされたとき——
それを「重い」と感じるのか、「怖い」と感じるのか、ただ静かに泣きたくなるのか。 どれも、正しい反応だと思う。
急に全部を受け取れるようになる必要はない。 そんな魔法みたいな変化は、たぶん来ない。
でも、小さな練習ならできる。
「ありがとう」と、まず声に出してみる。 深読みする前に、一度だけ「そのまま」受け取ってみる。 やさしくされたときの居心地の悪さを「過去のノイズ」と名付けてみる。
それだけで、少しずつ変わっていく。ゆっくりと、でも確かに。
受け取ることが怖いのは、本気になるからだ。 本気になれば、傷つく可能性も生まれる。
それでも——受け取らないまま続けることも、別の形で消耗していく。
どちらが正しいとは言えない。 ただ、「受け取ってもいい」という選択肢が自分の中にあることを、知っておいてほしいと思う。
やさしくされることに慣れていないのは、あなたが壊れているからじゃない。
それだけ、長い間ひとりで頑張ってきたということだと思う。
今夜、誰かのやさしさを少しだけ受け取れたなら—— それだけで、十分だ。
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読んでくださってありがとうございます。
静かに続ける力になります。