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【大人の恋愛小説】『夫のいる部屋で、あなたを思う』最終話 返事をしなかった夜




第一章 返事をしなかった夜


修一が寝室へ入ったあとも、真琴はダイニングの椅子から動けなかった。

向かいの席には、飲みかけの麦茶だけが残されていた。修一がノートパソコンを抱えて立ったせいか、テーブルの片側が、さっきまでより広く見えた。

寝室の扉は閉じたままだった。修一の足音も、もう聞こえない。

追いかけなければと思った。

修一は、真琴に呼び止められたあと、振り向かずに待っていた。あの数秒のあいだに、行ってほしくないと言うことはできたはずだった。

けれど、言えなかった。

行ってほしくないと思っていなかったからではない。口にしたあと、自分が何を諦めなければならないのかを考えてしまったからだ。

高柳へ会う時間。

その考えが浮かんだことを、修一の前で認められなかった。

真琴は立ち上がり、修一のコップを流しへ運んだ。残っていた麦茶を捨て、蛇口をひねる。コップを洗い終えても、しばらく水を止められなかった。

寝室の扉を開けると、修一はベッドの端に座り、ノートパソコンを開いていた。

「まだ仕事?」

修一は画面を見たまま答えた。

「返事をしてた」

真琴の足が止まった。

「異動の?」

「うん。行くことにした」

修一は数回キーを打ち、画面を閉じた。

「もう送ったの?」

「送った」

「私の考えを聞いてから決めるって言ったよね」

修一が顔を上げた。

「聞いたつもりだけど」

「私は、まだ何も答えてない」

「うん」

「だったら、どうして勝手に決めるの」

修一はすぐには答えなかった。閉じたパソコンの縁を、親指でなぞっている。

「火曜日までに返事が必要だった」

「だからって、今日じゃなくても」

「もう火曜日だよ」

真琴は言葉を失った。

高柳と向かい合った十二分と、そのあと帰宅するまでの四十分。そのあいだにも、修一は返事を待っていた。

「今日、仕事が長引いて――」

そこまで言って、口を閉じた。

修一は続きを求めなかった。

「俺は、行きたい気持ちもあるって話したよな」

「聞いた」

「でも、真琴が嫌なら、断ることも考えてた」

「すぐには答えられないよ」

「先週から話してた。今日も、帰ったら聞いてほしいって送った。さっきも待った」

「呼び止めたでしょう」

「呼んだだけだった」

真琴は何も返せなかった。

「行ってほしくないのか、行っても構わないのか。それだけでも聞きたかった」

「そんな簡単な話じゃないよ」

「そうだな」

修一はパソコンをベッド脇へ置いた。

「でも、異動するのは俺だから。真琴が答えられないなら、自分で決めるしかない」

「私が答えなかったから、行くことにしたの?」

「違う。行きたいから行く」

修一は一度、視線を外した。

「ただ、止めてほしいと思ってたのかもしれない」

その言葉に、真琴は返せなかった。

修一は掛け布団をめくった。

「来月の一日からだ。来週には、向こうとの引き継ぎが始まる」

「来月って、あと二週間しかないよ」

「そうだな」

「住むところは?」

「会社が用意する。詳しいことは明日聞く」

修一はベッドへ入ろうとした。

「枕は持っていったほうがいいよ」

真琴は言った。

「向こうの枕が合わないと、首が痛くなるから」

修一はしばらく真琴を見ていた。

「そういうことは、すぐ答えられるんだな」

修一は照明を消し、真琴へ背を向けた。


第二章 決めたあとで聞く


翌朝、ダイニングテーブルには、会社から届いた異動条件の資料が置かれていた。

勤務開始日、滞在先、週末の移動費、必要な手続き。真琴が眠っているあいだに、修一が印刷したらしい。最初のページには、異動期間が半年と記されていた。

「向こうの責任者が、急に辞めたらしい」

修一は地図を見ながら言った。

「人が足りないの?」

「それもある。仕事の流れが崩れてて、納期の遅れも続いてるみたいだ」

「それを修一が直すの?」

「一人で直すわけじゃないよ。前に似たような立て直しをやったから、声がかかったんだと思う」

真琴は、修一が以前担当した仕事について、どこまで知っていただろうと考えた。

帰宅が遅い日が続いたことは覚えている。休日にも電話が鳴り、食卓を離れたこともあった。けれど、何が難しく、修一が何を変えたのかまでは聞かなかった。

「大変そうだね」

「大変だと思う」

「それでも行きたいの?」

修一は資料から目を上げた。

「今の部署に不満があるわけじゃない。でも、このまま同じことだけやって終わるのも嫌なんだ」

昨夜より、はっきりした返事だった。

真琴の意見を聞く前から、考えていたことなのだろう。それでも修一は、最後の返事を真琴に預けようとしていた。

真琴は受け取らなかった。

「住むところ、駅から遠いみたいだ」

修一は資料の地図を指した。

「歩くの?」

「会社まで送迎がある。買い物は不便かもしれないけど」

「車は?」

「持っていかない。半年だけだし」

「週末は、毎週帰れるの?」

「仕事次第だな。最初の二週間は難しいかもしれない」

「二週間も?」

修一が真琴を見た。

「嫌?」

答えようとすると、昨夜の喫茶店が浮かんだ。

白い照明、高柳の組んだ両手、口をつけただけのコーヒー。著者対応が長引いていると送ったメッセージ。

「急だから、まだ実感がないだけ」

「昨日もそう言ってた」

「一晩で変わらないよ」

「そうだな」

修一は資料を揃えた。

「土曜日に、一度向こうへ行ってくる。部屋と職場を見ておきたい」

「私も行こうか」

口にしてから、それが本心なのか、遅れて差し出した埋め合わせなのか、真琴にはわからなかった。

修一は少し考えた。

「一人でいい。会社の人と回るから」

「そう」

「持っていくものも、自分で見てくる」

これまでなら、真琴が先に一覧を作っていた。朝に飲む薬も、出張へ持っていく充電器も、修一が首を痛めない枕の高さも知っている。

十八年一緒に暮らしてきた。相手の生活に必要なものを、本人より先に思い出せるほど長かった。

それでも昨夜、修一が必要としていた一言だけを、真琴は渡せなかった。

修一が鞄を持って立ち上がる。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

玄関の扉が閉まってから、真琴はテーブルに残された資料へ手を伸ばした。

異動開始日の欄には、修一の字で丸がついていた。

真琴が眠っているあいだに書かれた丸だった。


第三章 名前の消えた窓口


出社すると、西田からメールが届いていた。

口絵の入稿が完了したことと、今後の細かな修正窓口は西田が担当することが、簡潔に記されている。

宛先にも、CCにも、高柳の名前はなかった。

決められていたとおりの引き継ぎだった。高柳は、入稿まで制作内容を確認するという責任を果たした。

ただ、それだけだった。

真琴は受信箱を上から順に見直した。高柳から最後に届いた業務連絡は、前日の入稿データについての確認だった。

――問題ありません。この内容で進行してください

返信欄を開いた。

仕事は終わっている。返す必要はない。それでも指は、キーボードの上に置かれたままだった。

昨日は、会いたいと思ったのは本当だと伝えた。高柳も同じだと答えた。

だからといって、今日も連絡していい理由にはならない。

真琴は何も入力せず、返信欄を閉じた。

昼前、担当編集者が校正紙を持ってきた。

「口絵、無事に入ってよかったですね」

「はい。西田さんが早く対応してくれたので」

「高柳さんも、昨日まで確認に入っていたんですよね」

「そうです」

担当編集者は校正紙を机へ置いたあと、すぐには戻らなかった。

「朝倉さん、先方と何か行き違いがありましたか」

「どうしてですか」

「この前の会議です。高柳さんとの確認が、いつもより固かったので。窓口変更も急でしたし、こちらが知らない条件があるなら共有しておいてほしくて」

責めているわけではなかった。案件に支障がないかを確認しているだけだった。

それでも真琴は、背筋を伸ばした。

「進行に影響する問題はありません」

「それなら大丈夫です」

担当編集者は頷き、校正紙の一か所を指した。

「ここ、著者名の表記が揺れています。旧字体のほうで統一でしたよね」

真琴は示された行を見た。一度確認したはずの箇所だった。

「そうです。すみません、見落としました」

「戻す前に気づいたので、直しておきます」

担当編集者は、それ以上何も言わずに席へ戻った。

真琴は赤ペンを持ち直した。

進行に影響する問題はない。

仕事について尋ねられたのだから、間違った返答ではない。高柳との間に何があったのかまで話す必要もない。

それでも、修一へ送ったメッセージと同じだった。

真実の範囲を狭くすれば、嘘は目立たなくなる。

真琴は著者名の横へ、赤い丸をつけた。


第四章 見えていたもの


夕方、西田から電話があった。

今後の色校確認について、連絡方法を統一したいという内容だった。西田は必要な項目を順番に説明し、真琴も手帳へ書き留めた。

話が終わりかけたところで、真琴は尋ねた。

「高柳さんにも共有しておきますか」

「いえ。この案件については、今後は私がすべて引き継ぎます」

西田は迷わず答えた。

「高柳からも、そのように言われています」

「そうですか」

「何か、高柳でなければ確認できないことがありますか」

真琴は、手帳の上に置いたペンを見た。

「ありません」

今度は、すぐに答えた。

電話を切ったあと、手帳を閉じる。表紙の下に挟んでいた付箋が一枚、床へ落ちた。

拾い上げると、高柳が最初に、口絵を四ページから二ページへ減らすと提案したときのメモだった。

写真を切らないこと。

著者の意向を優先すること。

高柳の説明が足りず、真琴が腹を立てた日の字だった。

高柳は、いつも真琴の望む言葉をくれたわけではない。仕事では簡単に譲らず、必要な説明を省き、自分だけで距離を決めた。

それでも真琴は、高柳なら自分が言わないことまでわかるような気がしていた。

本当は、わかっていたのではない。

真琴が、わかってほしいと思っていただけだった。

「朝倉さん」

担当編集者に呼ばれ、真琴は顔を上げた。

「さっきの件、気にさせたならすみません」

「いえ」

「ただ、先方とのやり取りで困っていることがあれば、一人で抱えないでください。進行管理だからって、全部自分で受けなくていいので」

真琴は返事が遅れた。

「ありがとうございます」

いつもなら、「大丈夫です」と答えていた。

その言葉を口にしなかったことに、担当編集者は気づかなかった。気づかれなくてよかったと思った。

それなのに、少しだけ取り残されたような気もした。


第五章 高柳が決めたこと


終業時刻を過ぎた頃、業務用チャットに高柳からメッセージが届いた。

――口絵の入稿までの対応は完了しました。今後のご連絡は、西田へお願いいたします

仕事上は、それだけで十分だった。

真琴はしばらく画面を見たあと、短く返した。

――承知しました。ご対応ありがとうございました

既読がついた。

返事は来なかった。

パソコンを閉じようとして、真琴はもう一度チャットを開いた。

高柳が何も言わないことに腹が立っていた。昨日は自分の気持ちを言わせておきながら、今日は何事もなかったように、仕事だけを終わらせようとしている。

指が動いた。

――あの日の続きは、話さないままにするんですか

送信した直後、取り消したくなった。

既読がつく。

数分後、高柳から電話がかかってきた。

真琴は周囲を見た。職場には、まだ数人残っている。

「少し待ってください」

スマホを持ち、非常階段へ出た。

「お待たせしました」

「今、話しても大丈夫ですか」

「はい」

高柳の声を聞くと、喫茶店で向かい合った十二分が戻ってきた。

「話さないままにするつもりでした」

「どうしてですか」

「次も、十分で終わるとは思えないので」

真琴は手すりへ指を置いた。

「また、高柳さん一人で決めるんですね」

「はい」

否定されると思っていた真琴は、返す言葉を失った。

「私が会いたいと言っても?」

電話の向こうで、高柳が黙った。

口にしてから、真琴は目を閉じた。

「会いたくないわけではありません」

高柳の声が低くなった。

「それなら」

「だからです」

「意味がわかりません」

「会ったら、また同じことをすると思います」

「同じことって?」

高柳は答えるまでに少し時間を置いた。

「朝倉さんが来るかどうかを待って、来たら嬉しくなって、そのあとで何も決められないと言う。昨日、僕がしたことです」

「私だって、決めていません」

「はい」

「高柳さんだけが悪いわけじゃない」

「わかっています」

「だったら、二人で考えればいいでしょう」

「何をですか」

真琴は答えられなかった。

夫と別れることでも、高柳と一緒になることでもない。ただ会いたかった。向かい合い、自分のことを考えている人がいると確かめたかった。

そんな答えを、口にはできなかった。

「会うかどうかです」

ようやく言うと、高柳は小さく息を吐いた。

「会えば、その次も会うかどうかを考えることになります」

「それの何がいけないんですか」

言った瞬間、自分の声が強くなったことに気づいた。

「いけないと決める権利は、僕にはありません」

「なら――」

「でも、僕からは会いません」

真琴は手すりを握った。

「高柳さんは、それで平気なんですか」

「平気ではありません」

「だったら、どうして」

「平気じゃないから続ける、というのも違う気がします」

高柳の返事は途中で途切れた。

「すみません。うまく言えません」

真琴は何も言わなかった。

高柳が言葉に詰まったことに、少しだけ安堵した。すべてをわかったうえで、正しい判断をする人ではないのだと思えたからだ。

階段の下で扉が開く音がした。誰かの足音が近づいてくる。真琴は壁際へ寄った。

「私が、夫に何と言ってあの店へ行ったか、聞かないんですか」

自分から口にしていた。

高柳の呼吸が止まったのがわかった。

「聞きません」

「どうして」

「聞けません」

「同じでしょう」

「違います」

高柳は珍しく、すぐに言い返した。

「聞いたら、僕も一緒についた嘘だったと思いたくなるからです」

真琴は唇を噛んだ。

「責任はないと思っているんですか」

「あります」

「どんな責任ですか」

「朝倉さんが来るとわかっていて会ったことです。帰ったほうがいいと言わなかったことも」

高柳の声が少しかすれた。

「でも、朝倉さんがご主人に何を言ったかまで、僕の責任にすることはできません」

真琴には、その言葉が拒絶のように聞こえた。

「ずるいですね」

「そうですね」

「会いたいと言って、会わないと決めるんですか」

「はい」

「私は、どうすればいいんですか」

高柳はすぐには答えなかった。

「それを僕に聞かないでください」

階段を上ってきた社員が、真琴に軽く頭を下げて通り過ぎた。真琴も会釈を返した。

その人の足音が聞こえなくなるまで、二人とも黙っていた。

「切ります」

真琴が言った。

「はい」

「もう連絡しないんですか」

「仕事以外では、僕からはしません」

「わかりました」

真琴は自分から電話を切った。

画面には、通話時間が表示されていた。

八分三十七秒。

十分には届いていなかった。


第六章 向かいの椅子


帰宅すると、ダイニングテーブルの上に、小さな卓上カレンダーが置かれていた。

修一は赤いペンを持ち、異動までの予定を書き込んでいる。

「会社でもらった」

真琴は鞄を椅子へ置いた。

「今のカレンダーがあるでしょう」

「向こうとこっちの予定がわからなくなるから」

カレンダーには、異動開始日と引っ越しの日が書かれていた。週末に帰宅できそうな日には、小さな丸がついている。

「最初に帰れるのは、いつ?」

「五日の夜。たぶん」

「それまでは帰れないの?」

「引き継ぎ次第だな」

修一は赤いペンを真琴へ差し出した。

「真琴の予定も書いておいて」

「どうして?」

「帰ってもいないなら、先に知っておきたいから」

真琴はペンを受け取った。

以前なら、その言い方に少し腹を立てたかもしれない。自分の予定を確認されているように感じたはずだった。

今は、修一が帰る日を、修一のほうから知らせなければならなくなったことのほうが気になった。

「仕事の予定、まだ全部はわからない」

「わかる分だけでいいよ」

真琴は締め切りと会議の日を書いた。

火曜日の欄で、ペン先が止まった。

高柳と喫茶店で会った曜日だった。これから修一がいなくなる平日の夜は増える。

けれど、高柳は会わないと決めた。

真琴もまた、会わないと決めなければならなかった。

「薬はどうするの?」

「今日、同じものを向こう用に買った」

「自分で?」

「薬局で売ってるんだから、買えるよ」

修一は笑わなかった。

「充電器は?」

「予備を鞄に入れた」

もう準備されていた。

真琴は、修一の生活に必要なものを一つずつ思い浮かべた。朝に飲む薬。首を痛めない枕。出張のたびに忘れていた充電器。

十八年は、なくなってはいなかった。

ただ、その年月があれば、何も言わなくてもわかると思っていたことが間違っていた。

修一は冷蔵庫を開け、麦茶を二つのコップへ注いだ。一つを真琴の前へ置く。

「向こうへ行ってるあいだ、一人で大丈夫か」

いつもなら、考えるより先に答えていた。

真琴はコップへ手を伸ばしたまま、止まった。

「大丈夫じゃない」

修一が真琴を見た。

自分の声なのに、聞き慣れなかった。

「昨日、著者対応が長引いたって言ったでしょう」

修一の表情が動いた。

「うん」

「あれ、嘘だった」

修一はコップを置いた。

「どこにいた」

真琴は赤いペンをテーブルへ置いた。

「仕事で関わっていた人と、駅前の喫茶店にいた」

「男?」

「うん」

修一は目を伏せた。怒鳴ることも、問い返すこともしなかった。

その沈黙に耐えられず、真琴は続けた。

「昨日は話しただけ。でも、その前に一度、口づけをした」

修一がゆっくり顔を上げた。

「口づけ?」

「キスをした」

言い直すと、逃げ場がなくなった。

「好きなのか」

真琴はすぐには答えられなかった。

ここで違うと言えば、修一をこれ以上傷つけずに済むかもしれない。自分も、これ以上ひどい人間にならずに済む。

けれど、それもまた、真実の範囲を狭くすることだった。

「好きだった。今も、すぐになくなるとは思えない」

修一は椅子の背へ身体を預けた。

「昨日、俺が異動の話を待ってたとき、その人といたんだな」

「うん」

「仕事だって嘘をついて」

「うん」

修一は椅子を引き、立ち上がった。脚が床を擦る音が、部屋に大きく響いた。

「俺がいないほうが、都合がいいと思ったのか」

真琴は膝の上で指を握った。

「そう思った瞬間があった」

修一は窓のほうを向いた。

「一瞬で十分だろ」

「うん」

「そこまで言って、自分だけ楽になりたいのか」

高柳にも似たことを言った。

自分だけ楽にならないでほしいと。

今、自分が修一へしていることも同じなのかもしれなかった。

「そうかもしれない」

「だったら、俺は何をすればいい」

「何かをしてほしいわけじゃない」

「それもずるいな」

「うん」

真琴は否定しなかった。

「でも、知らないまま向こうへ行かせるのは、もっとずるいと思った」

「今さら?」

「今さらだと思う」

修一はカーテンを少し開けた。外を見たまま、しばらく動かなかった。

「その人とは、これからどうするんだ」

「会わない」

「向こうが決めたのか」

真琴は答えるまでに時間がかかった。

「最初は、向こうが決めた」

「最初は?」

「私も、もう連絡しない」

「俺のために?」

「違う」

修一が振り返った。

「あなたのためだと言ったら、きれいすぎる。私は、自分で会いに行って、自分で嘘をついた。終わらせることまで、誰かに決めてもらったことにしたくない」

修一は何も言わなかった。

真琴は卓上カレンダーを開いた。赤い丸が並ぶ週末と、その前に続く平日の空欄が見えた。

「異動は、行ってほしい」

修一の眉が動いた。

「昨日は言えなかったけど、修一が行きたいなら、行ってほしい」

「それで、そのあいだに夫婦のことを考えるのか」

「うん」

「戻る場所が残ってると思ってる?」

真琴は答えられなかった。

修一は窓際から戻り、真琴の向かいに立った。

「俺は今、許すとか、別れるとか、何も決められない」

「うん」

「異動には行く。それは変えない」

「わかってる」

「週末に帰るかどうかも、今は約束できない」

胸の奥が痛んだ。それでも真琴は頷いた。

「わかった」

修一はしばらく立ったままだった。

「一度に全部は聞けない」

「うん」

「でも、嘘のまま向こうへ行くのも嫌だ」

修一は向かいの椅子を引いた。

「最初から話して」

真琴は椅子へ腰を下ろした。

「最初は、仕事の打ち合わせだった」


終章 六か月後


あの夜、話し終えたのは、日付が変わってからだった。

修一はほとんど質問をしなかった。高柳とどこで会ったのか、どちらから触れたのか、真琴がどんな言葉を送ったのか。真琴が話すあいだ、何度か席を立ち、それでも最後には向かいの椅子へ戻ってきた。

許すとも、許さないとも言わなかった。

異動へ出る朝も、同じだった。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

十八年、何度も交わしてきた言葉だった。その朝だけは、どちらも相手の顔を見なかった。

修一がいなくなったあとの洗面所には、真琴の歯ブラシだけが残った。

空いた場所を見るたび、高柳のことより先に、修一がそこにいないことを思うようになるまで、二か月ほどかかった。

高柳から私的な連絡は来なかった。

真琴も送らなかった。

一度だけ、別の案件の共有メールに高柳の名前を見つけた。個別のメッセージ画面を開きかけたが、閉じた。必要な確認は、西田を宛先にして送った。

それで、気持ちが消えたわけではなかった。

雨の匂いがする日や、終業後のエレベーターを待つ時間に、高柳を思い出すことはあった。会わなければよかったとは、半年が過ぎても思えなかった。

ただ、会いたかった自分と、修一へ嘘をついた自分を、別の人間のように扱うことはやめた。

修一とは、初めの一か月、必要な連絡しか交わさなかった。

郵便物、支払い、異動先へ送る荷物。真琴が何かを尋ねても、修一から返ってくるのは短い返事だけだった。

二か月目の終わり、修一から電話があった。

「そっちは、雨?」

「降ってる」

「こっちは、まだ」

それだけの会話が、途切れながら十分ほど続いた。

修一が異動先の仕事について話すようになったのは、それからだった。納期の遅れていた仕事が一つ片づいたこと。若い社員と意見が合わず、会議が長引いたこと。真琴も、会社で見落としをしたことや、担当編集者に助けられたことを話した。

話せば、すぐに夫婦へ戻れるわけではなかった。

修一が突然黙る夜もあった。真琴が何を言っても返事が来ず、そのまま電話が切れることもあった。

それでも真琴は、「大丈夫」と答えて会話を終わらせることだけはしなかった。

寂しい日は、寂しいと言った。今日は話したくないと言われれば、わかったと答えた。わからないことを、わかったふりもしなかった。

修一が家へ戻ったのは、異動期間が終わった日の夕方だった。

玄関の鍵が回る音を聞き、真琴は台所で包丁を置いた。

扉が開き、修一が大きな鞄を引いて入ってきた。半年で少し痩せたように見えた。

「おかえり」

修一は靴を脱ぎながら、短く息を吐いた。

「ただいま」

二人とも、それ以上はすぐに言えなかった。

夕食のあと、修一は鞄を寝室へ運んだ。真琴が食器を洗っていると、洗面所から棚を開ける音が聞こえた。

水を止め、真琴は洗面所を覗いた。

修一は、鞄から歯ブラシを取り出していた。

「それ、向こうで使ってたもの?」

「いや。帰る前に新しいのを買った」

修一は包装を外した。真琴の歯ブラシは、以前と同じ場所に置かれている。

修一はその隣へ自分の歯ブラシを置こうとして、一度手を止めた。

「前と同じには戻れないと思う」

真琴は頷いた。

「うん」

「まだ、聞きたくないこともある」

「わかってる」

「全部信じられるかも、今はわからない」

以前なら、きっと言っていた。

大丈夫。
時間が経てば、きっと大丈夫。

けれど、真琴にはもう、その言葉で修一の迷いを片づけることはできなかった。

「私も、これからどうなるかはわからない」

修一が真琴を見た。

「でも、わからないまま話すことはできると思う」

修一はしばらく何も言わなかった。

やがて視線を洗面台へ戻し、自分の歯ブラシを置いた。

二本は、少しだけ間を空けて並んだ。



終わりに


『夫のいる部屋で、あなたを思う』を、最後まで読んでくださりありがとうございました。

真琴、高柳、そして修一の物語は、ここでひとまず区切りを迎えます。

けれど、二本の歯ブラシがもう一度並んだその先で、真琴と修一はどんな夫婦になっていくのか。会わないと決めた高柳への想いは、これからの人生にどう残っていくのか。

まだ、書きたいことが少し残っています。

いつか続編として、三人のその後をお届けできたらと思っています。そのときも、また続きを見守っていただけたら嬉しいです。

ここまで物語に寄り添ってくださり、本当にありがとうございました。

雨宮しずく

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雨宮しずく いつも読んでくださりありがとうございます。いただいたチップは、次の物語を書く力にさせていただきます。静かな余韻が、あなたの心に残りますように。