戻らない、何か
彼を振ったあと、最初に思ったのは、軽さだった。
体の奥に溜まっていたものが、
すっと抜けていくような感覚。
呼吸がしやすくなって、
視界も少しだけ明るさを取り戻した気がした。
これでよかったのだと思った。
間違っていなかったと、
そう思えた。
陽射しが、心地よかった。
もう気を使わなくていい。
もう何も考えなくていい。
ただ、それだけで、十分だった。
数日は、そのままだった。
朝も軽く起きられて、
夜もきちんと眠れた。
体は正直だと思った。
合わなかったのだと、
これで証明されたような気がした。
だから、振り返る必要もないと思った。
ただ、ある日。
理由もなく、目が覚めた。
まだ暗い時間で、
どこか夢の感覚のまま、ぼんやりしていた。
しばらく、動けなかった。
うまく呼吸ができない。
胸のあたりが、少しだけざわついている。
痛いわけではない。
ただ、落ち着かない。
そのとき、ふと、
何かを置いてきたような気がした。
忘れ物に気づいたみたいに、
急に、慌て出した。
冷や汗が、滲み始めた。
思い出そうとすると、
うまく形にならない。
言葉にしようとすると、
少しだけ遠くなる。
それでも、確かにそこにある。
静かな場所にいるほど、
それは消えずに残る。
軽くなったはずの気持ちの中で、
なぜか、空気だけが重く感じる。
何かが、戻っていない。
あのとき、ちゃんと終わらせたつもりだった。
言葉も選んだし、
傷つけないようにしたつもりだった。
それでも、残るものがある。
声ではなく、
言葉でもなく、
もっと曖昧なかたちで。
切り離したつもりの部分が、
まだ、どこかで繋がっている。
それが、少しずつ、
遅れてやってくる。
朝、目が覚めても、
前よりも、すぐに起き上がれない日が増えた。
音が少しだけ強く感じたり、
光がやけに刺さるような日もある。
思い当たることはあるのに、
はっきりとは言えない。
軽くなったはずの体が、
少しずつ、重さを思い出していく。
解放ではなかった。
少しだけ遅れてくる、
静かな揺れだったのだと思う。
まだ、どこかで、続いている。
今も。
