「読書を神聖視するという誤読」
新聞やメディアを見ていると、定期的に問題提起がなされる話題というものがある。特にここ最近目にするのが「若者の〇〇離れ」というものだ。自動車、酒、結婚、テレビ。〇の言葉はその時々によって入れ替わるが、警鐘を鳴らすという形は共通している。
その中でも登場回数が最多を誇るのが「読書」だ。ところが、これはむしろ最近に限ったことではない。中年世代だけでなく団塊の世代あたりでも常に言われ続けてきた定型文であろう。ピラミッドやラスコーを探すレベルの、定番の語り口である。
先日見かけた「読書離れ」の記事で強く主張されていたのが、「二極化」である。年間数百冊から0冊まで、その差が大きく広がっていることを問題視する司書の声が掲載されていた。
この手の「読書離れ」の議論において、ほとんどの記事で読書は全面的に肯定される行為とみなされている。もちろん読書が情報収集の重要な一手段であることは否定できない。しかし果たして、無条件に読書を良いものとしている記事は中立的であるといえるのだろうか。
まずもって考えるべきは「読書」の定義である。こうした記事においては、「読書」を「一定の厚さの紙媒体を読む行為」とする前提で話が進められている。では電子書籍はその括りに入るのか。あるいはネット記事やブログ、SNSにおける論考はどうだろう。
ネット上の文章は書き手が見えにくいため、誰が書いたものか分からないものを「読書」としない向きもあるだろう。しかし有象無象の新書の中には、筆者の素性が怪しいものも少なくない。また文学作品一つとっても、娯楽性の高い小説を読むことと、ネット上の論考を読むことのどちらに学びが深いか、その判断は容易ではないはずだ。
さらに言えば、冊数を議論すること自体が疑問である。何百冊も流し読みした「読書」と、一冊を何度も繰り返し読む「読書」のどちらに価値があるだろうか。仮に一冊を繰り返し読むのであれば、図書館を利用する必要性は低く、そうした読書体験は統計の外側に置かれる可能性もある。
加えて言えば、記事内で「読書」の多寡が語彙力や構成力に表れてくるという感想を無条件で肯定しているのも気になる点だ。もちろん、言語体験の多寡が言語能力に影響すること自体に異論はない。しかし娯楽小説を読むだけで言語能力が高まるわけではない。むしろ言語能力の獲得には、読むだけでなく、書き、表現することが求められる。それは「読書」とは異なるカテゴリーの話であるはずだ。
こうした「読書離れ」の議論の多くは、子どもや若者を批判するためのツールになってはいないだろうか。例えば、ネット記事や動画で情報を収集し、自ら論考を書く若者と、何百冊も小説を読むだけで娯楽性しか享受していない若者。どちらの体験に教育的価値の重きを置くかを考えれば、「読書離れ」というスローガンの空虚さが見えてくる。
重要なのは、テキストをいかに読み込める力を養うかということに尽きる。そして「読書」はその手段の一つに過ぎない。その手段が仮にネットであれ、動画であれ、あるいは未知の体験であれ、形そのものを問うことには意味がない。
ところが往々にして、これまでの「読書」体験の成功者たちは金科玉条のように「読書」を掲げる。しかしそれは物事の表層しか捉えていない。むしろ社会をそのレベルでしか「読解」できていない大人の落ち度とすら言える。それは「読書」をしない若者の語彙や構成力の低下以上に、不安視すべき状況であろう。
いうまでもないことだが、「読書」を否定したいわけではない。紙の本を読むことは、その体験として十分に価値があると私自身考えている。しかしそれを神聖視することに異を唱えているに過ぎない。所詮は数多ある娯楽の一つでもある。
少し前までは「読書」しか情報収集の手段がなかった、あるいは他の手段が効率性に欠けていた。だからこそ「読書」が一般化し、学習のメインストリームとして定着した。時代は進み、さまざまな手段が増えたことで、「読書」もまた選択肢の一つとなった。その段階において二極化するのは、ある意味で必然であろう。
大人たちが「読書離れ」を恐れるのは、それが自身の常識を揺るがすものだからだ。しかし必要なのは「読書」という形式ではなく、「思考」という本質である。仮にネットや動画を否定するのであれば、「思考」を疎かにする状況を選別的に批判するべきであって、十把一絡げに「読書」と対立させる意味はない。
もし大人たちが「読書離れ」という表面だけを捉えて批判しているのであれば、むしろそれこそが大きな問題である。なぜならば、そこには最も必要であるはずの「思考」が軽視されている状況が存在することを意味するからだ。
守るべきは「読書」ではない。これまで「読書」という経験を通して得られた何かだ。
この重要な事実を、忘れてはならないのではないだろうか。
