神武天皇は実在したか――なぜ私たちはその問いばかりを気にするのか
皇位継承をめぐる議論になると、必ずと言ってよいほど登場する論点がある。「神武天皇は実在したのか」という問いだ。
歴史学の研究において、神武天皇の実在を裏付ける同時代史料は存在しない。歴史的実在性が比較的確実に論じられるのは応神天皇以降、あるいは継体天皇以降とする見解も広く知られている。そのため、「神武天皇が実在しないなら男系継承にも意味はない」という主張もしばしば見られる。
しかし、この議論そのものがどうにも違和感を抱かせる。なぜなら、本来問われるべきは神武天皇が実在したかどうかではなく、なぜ現代人がその問いを重要だと考えるようになったのかだからである。
神武天皇の実在性に関する議論は決して最近始まったものではない。しかし近年の議論には特徴がある。それは、歴史的事実が確認できなければ制度の正統性も失われるという発想だ。現代社会は科学や実証を重視する。これは多くの分野で大きな成果をもたらしてきた。しかし、その思考法があらゆる領域に適用できるとは限らない。
国家や共同体は純粋な事実だけで成立しているわけではない。憲法も法律も貨幣も国境も、それを社会が共有し信じることで成立している側面を持つ。皇室もまた例外ではない。神武天皇が実在したかどうかは歴史学の問題である。しかし、日本社会が長い年月をかけて神武天皇を皇統の始祖として位置づけ、その物語を共有してきたという事実は社会や文化の問題である。
ところが現代人はしばしばこの二つを混同する。神話が史実でなければ価値がない。建国神話が証明できなければ共同体の正統性も失われる。そう考える傾向がある。しかし、本当にそうだろうか。私たちは国旗や国歌を科学的に証明された事実だから尊重しているわけではない。地域の祭りや伝統行事も同様である。それらは共同体の記憶として受け継がれているからこそ意味を持つ。皇室に関する神話もまた、その延長線上にあるものではないだろうか。
むしろ興味深いのは、神武天皇の実在性そのものよりも、なぜ現代人がその実在性ばかりを問題にするようになったのかである。その背景には、自国の神話や建国史を学ぶ機会の減少があるように思う。もちろん神話を史実として教える必要はない。しかし、『古事記』や『日本書紀』がどのような意図で編纂され、どのような世界観を後世へ伝えようとしたのかを学ぶことには意味がある。
ところが現在は、その内容よりも「本当か嘘か」だけが注目される。その結果、神話を社会の記憶として理解する視点が失われていく。皇位継承をめぐる議論でも同じことが起きている。男系か女系か。神武天皇は実在したのか。血統は本物なのか。こうした議論は盛んに行われる一方で、その制度がなぜ存在し、どのような役割を果たしてきたのかという議論は驚くほど少ない。
しかし本来問われるべきなのはそこであろう。天皇とは何者か。なぜ祭祀を担う存在が必要とされたのか。なぜ権力と権威は分離されたのか。なぜ男系継承という原則が長く維持されてきたのか。神武天皇の実在を肯定するにせよ否定するにせよ、こうした問いを避けていては皇室制度の本質には近づけない。
神武天皇が実在したかどうかを論じること自体は自由だ。しかし、神武天皇の存在の有無で皇統の価値を否定すべきではないし、対立する論を切り捨てるべきでもない。神話が真実か虚構かではなく、その神話を共有してきた社会が何を守ろうとしてきたのかを議論するべきではないだろうか。
