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家族のいない休日はどこか寂しい

誰にも邪魔されない時間が欲しい。
自分のペースで生きられる休日が欲しい。
子どもがいる人は特にそう願ったことがある人は、
きっと少なくないと思います。

しかし、もし、その“理想の時間”が突然、まとまって手に入ったとしたら——
本当に、それを心から楽しめるでしょうか。

今回お話しするのは、「自由」を手に入れたはずの僕が、
なぜか感じた“寂しさ”の正体についてです。

そしてその寂しさが、僕に教えてくれた、少しだけ大切なことについて。


フォロワーの皆さんも、ふらっと立ち寄ってくださった方も、
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
しょーと申します。

今回は

   「家族のいない休日はどこか寂しい」 

と題しまして、文字通り、1人で過ごす休日の寂しさ、
そしてその寂しさが教えてくれたことをお話できればと思います。

■なぜ、1人で休日を過ごすことになったのか

まずはなぜ1人で過ごすことになったのかをお話しさせてください。
といっても、特に深い理由はありません。

妻と子供たちが、東京へ遊びに行っているというだけの話です。
その期間、実におよそ2週間。

僕の家ではペットも飼っていますし、
そもそもの大前提として、新入社員も入ってきたこの4月半ばに
仕事でそこまで長い休みを取ることができません。

僕が休みの日だけついていくという選択肢も
考えなかったわけではありませんが、来月、とある試験を控えており、今は勉強の真っ只中です。

出発前に妻から言われた一言が、今でも耳に残っています。

    「これで勉強に集中出来るね!」

冗談っぽく言っていましたが、どこか本気のトーンも混じっていた気がします。

それは励ましであり、気遣いでもあると同時に、
家族が不在の時間を無駄にするなよという、やさしい檄でもあったのでしょう。

そういう経緯で、今回は東京行きを諦め、家に残る決断をしました。

■最初は「ワクワク」していた

正直に言います。
最初のうちは、心のどこかでワクワクしていました。

子供がいない静かな家。
誰に気を遣うこともなく過ごせる時間。
自分のペースで起きて、自分のペースで勉強して、好きなものを食べて好きな時間に眠れる。

   「これは満喫するチャンスじゃないか」

そう思っていたんです。

僕の普段の生活を少しだけ振り返ってみます。
我が家は、とにかく賑やかです。

朝は子どもが起きる前に出勤しますが帰ってきたら、お風呂に入れたり寝かしつけをしたり。

その中で試験勉強をしようと思っても、
子供が「パパ、遊ぼう!」と言ってくる。

そういう日常の中で、どれほど「一人の時間が欲しい」と思ったことか。

だからこそ、この2週間という時間が目の前に広がったとき、
僕は少しだけ解放された気持ちになっていたんです。

■蓋を開けてみると

ところが、実際に休日を迎えてみると、予想外の感情が襲ってきます。
思いの外、「寂しい」という感情が押し寄せてきたのです。

僕は休みの日も、基本的には仕事と同じ時間に起きるようにしています。

生活リズムを崩したくないという理由もありますが、それ以上に、朝の静かな時間が好きだからです。

休みの日の朝、犬に餌をあげて、コーヒーを入れ、1時間半ほど勉強して
一段落付いたときにふと思いました。

「なんか、寂しいな…」と。

■“孤独の質”が違う

普段ならこの時間帯に子供が起きてきて、朝の時間を一緒に過ごしたりします。

しかし、その日は、ただただ静かな空間がそこに広がっていました。

家に1人でいること自体は、珍しいことではありません。
平日が休みの時は、むしろ1人でいる時間の方が多いくらいです。

しかし、その「1人」は、
「数時間後には保育園の迎えがある」という前提のある1人でした。

今回の「1人」は違いました。

これから1週間以上、家族と会えない。

その事実を知っている「1人」は、根本的に何かが違いました。

それは、ただ静かな時間ではなく、
“誰にも必要とされていないように錯覚してしまう時間”でもあったんです。

普段は、子供たちが「パパ」と呼んでくれる。
妻が「これお願い」と頼ってくれる。

その中で、自分の存在には役割がある。

でもそれが一時的にでも消えたとき、
人は思っている以上に、自分の存在意義を見失いかける。

孤独の正体は、「一人でいること」ではなく、
「誰かの中で生きている実感」が薄れることなのかもしれません。

■「まとまった時間」があると、なぜか動けなくなる

他にも予想外の事が起こります。
思ったよりも勉強に集中出来ないのです。

普段はあれだけ、まとまった時間が欲しいと思っており、
そのまとまった時間が手に入ったのにも関わらずです。

これは多くの方が経験したことがあるかもしれませんが、
時間がたっぷりあると、逆に動けなくなることがあります。

普段の僕には「締切」があります。

「この時間までに迎えに行かなければ」
「子供が起きる前に勉強を終わらせなければ」

そういった外から課される制約が、不思議と集中力を生み出していました。
俗に言う「締切効果」というやつでしょう。

しかし、今は、その制約がありません。

「まだ大丈夫」
「もう少し後でもいい」

その積み重ねで、気付けば4時間ほどしか勉強せずに
1日はあっという間に終わってしまいました。

かつて読んだ本の言葉が頭に浮かびました。

「人は、制約の中でこそ創造性を発揮できる」

まさにその通りで、
僕にとって子供たちの存在は、集中を妨げるものではなく、
“集中する理由”を与えてくれる存在だったんです。

■自由=幸福ではない

今回の経験で強く感じたのは、
自由と幸福は、必ずしもイコールではないということです。

むしろ、人はある程度の「制約」や「責任」があるからこそ、
その中で意味を見つけ、充実感を得ている。

時間に追われる日々は楽ではありません。
でもそこには、「誰かのために動いている」という確かな手応えがあります。

完全な自由の中では、その手応えが消えてしまう。
だからこそ人は、自由を求めながらも、
どこかで空虚さを感じてしまうのかもしれません。

■「家族」は制約ではなく、土台だった

以前の僕は、心の奥底のどこかでこう思っていました。

「家族がいるから時間が制限される」
「子供がいるからやりたいことができない」

でも、それは違いました。
本当は逆だったんです。

家族がいるからこそ、時間に意味が生まれていた。
家族がいるからこそ、頑張る理由があった。
家族がいるからこそ、なんてことない日常に価値があった。


制約だと思っていたものは、
実は自分を支える「土台」だったんです。

■「気付き」は、失ってからやってくる

人は、「持っているうちは気付かない」生き物です。

喉が渇いて初めて、水のありがたさがわかる。
健康を失って初めて、その価値に気付く。

そして今回、僕は、
家族がいない時間を通して、
家族がいる日常の豊かさに気付きました。

■「今ある環境」を、愛せているか

最後に、一つだけ。

「不満」というのは、
実は「まだ気付いていない感謝」の裏返しだと思っています。

もっとこうだったらいいのに。
あれが足りない。
そう思うとき、そこにはすでに、
大切な何かがあるサインなのかもしれません。

■さいごに

今回の経験は、特別な出来事ではありません。
誰にでも起こり得る、ほんの小さな日常の変化です。

でも、その“小さな違和感”に目を向けたとき、
人は初めて、自分がどんな前提で日々を生きているのかに気付くのだと思います。

僕はこれまで、
「もっと時間があれば」「もっと自由があれば」と思いながら生きてきました。

恐らくこれからもそう思いながら生きていくことになると思います。
しかし、それは決して間違いではないし、向上心の一つでもあると思います。

ただ今回、その“欲しかったもの”を実際に手にしてみて、気付きました。

人は、「足りないもの」だけでできているわけじゃない。
むしろ、「すでに満たされているもの」の上に立って、さらに何かを求めている。


そして厄介なことに、その“すでにあるもの”には、なかなか気付けないものです。

だからこそ僕は、これからの自分に一つだけ、問いを持ち続けたいと思います。

「今あるこの日常を、自分はちゃんと味わえているか」

忙しさに追われているとき。
思い通りにいかないとき。
誰かに対して不満を感じたとき。

そんな瞬間こそ、一度立ち止まって考えたい。

それは本当に“足りない”のか。
それとも、“気付けていないだけ”なのか。

きっと、ほとんどの場合は後者なんだと思います。

今回の2週間が終われば、また騒がしい日常が戻ってきます。

子供たちは元気に走り回り、思うようにいかない時間が増えるでしょう。

そしてきっと僕は、またどこかでこう思うはずです。
「一人の時間が欲しいな」と。

でもそのとき、今回のこの感覚を、ほんの少しでも思い出せたなら——
同じ日常でも、感じ方は確実に変わるはずです。

子供の声が“勉強を妨げる音”ではなく、
“今日が生きている証”に変わるかもしれない。

忙しさが“ストレス”ではなく、“誰かのために使えている時間”に変わるかもしれない。

人生は、環境が変わることで良くなることもあります。

でもそれ以上に、「見え方」が変わることで、劇的に豊かになることがある。

僕は今回、それをほんの少しだけ実感しました。

だからこそ思います。

大きく変わらなくていい。
完璧にならなくていい。

ただ、ほんの少しだけ、
「今あるものに気付ける自分」でいられたら、それでいい。

その小さな変化の積み重ねが、
いつか振り返ったときに、「いい人生だった」と思える未来をつくるのだと、僕は信じています。

そして今は、ただシンプルに思います。
早く、あの騒がしい日常に戻りたい。

あの何気ない毎日こそが、
自分にとっての“本当に欲しかったもの”だったのだと、気付けるいい経験になりました。

これを読んだ方が少しだけ日常に向ける目が変わってくれることを祈りながら
この記事を終わりにしようと思います。

それでは皆さん

               𓂃 𓈒𓏸  𝑰 𝒉𝒐𝒑𝒆 𝒕𝒐 𝒔𝒆𝒆 𝒚𝒐𝒖 𝒂𝒈𝒂𝒊𝒏𓂃 𓈒𓏸

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