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第5部『果てしなきスカーレット』で批評入門!炎上構造よりもう一段上の"批評構造"を整理しよう。あなたの批評家タイプも診断!

【本稿は『果てしなきスカーレット』を多層的に読み解く連続記事です】


こんにちは!

突然ですが、皆さんは"批評"について考えたことがありますか?

つい先日、庵野秀明も日本のコンテンツ界の現状として評論家(批評家)の少なさについて危機感を持って言及していましたが、日本は考察文化は旺盛なものの、本当に批評家が少ない。

それが故に、今回の『果てしなきスカーレット』のような作品が割りを食っていますし、このままでは作品が育たない土壌が形成されてしまいます。

そしてSNSや僕の記事への反応を拝見していると、『果てしなきスカーレット』は当初の酷評を少しずつ乗り越えて再評価の波が来ているようです。

しかし同時に、少しずつ界隈が成熟すると共に、第四部で解説した一方的な炎上というよりも、整理不足な議論を発端とした"持論バトル"や脱落がやや目立つように感じています。

そこで今回は、"炎上"から"批評"に軸を移して、
「そもそも、私たちはどこから作品を語っているのか」という批評そのものの話をしてみたいと思います。

この記事では、『果てしなきスカーレット』に寄せられた感想や批判を手がかりに、批評の立場を大きく三つに分けて整理していきます。

今回は『果てしなきスカーレット』の作品論というより批評論入門に近く、「批評そのもの」に興味のある方にも読める内容を目指しました。批評について考えることって、多くの人がない経験だと思いますので、新しい経験になれば幸いです。

この記事を読み終える頃には、
「自分の作品の見方はどのタイプか」
「この人はどの立場から批評しているか」

など、批評に関してかなり視界がクリアになっているはずです。

批評が噛み合わなくなる原因の多くは、
立場の違いが自覚されないまま議論が行われることにあります。

SNSを含め、少し踏み込んだ議論ができる人達の間でも混乱が起きがちなのは、

・作家主義で語る人
・作品主義で反論する人
・観客主義で怒る人

が、それぞれ同じ土俵にいると思い込んで話してしまうときです。あとは自分の立場をもとに"正解"を想定してしまう時ですかね。


⬛︎大きな三つの立場の違いを理解「作家主義」「作品主義」「観客主義」

さて、批評に関しては批評理論というものがあるくらい様々な定義や議論がありますが、今回は分かりやすくする為に"ざっくり"大きくこの三つー

「作家主義」「作品主義」「観客主義」 

に立場を分けますね。
出来るだけ学術的な理論から外れないように意識しますが、「作品主義」「観客主義」は今回の記事のための半ば造語になりますのでプロの皆さんは生暖かく見守ってください。

それでは、それぞれを解説しつつ特徴や強み、弱みも整理していきますね。

◽️①作家主義=
作品の価値や意味はその作品単体ではなく、作家の一貫した世界観・テーマ・癖によって決まるという立場。

特徴:
・フィルモグラフィ(その作家の作品リスト)全体で評価
・作家の人格や意図を前提に作品を読む
・駄作も「作家性の発露」として読みがち
・過去作への文脈依存が強い

『果てしなきスカーレット』に寄せられた批判に例えるなら「細田守は脚本が下手」「毎回浅い社会批評を入れてくるのが余計」「天才になれない優等生」「今回は文法を変えてきた」などが作家主義的な批判になります。

一言で言うと、「作品とは作家の意図が敷衍・結晶化されたものである」という前提から作品や作家を批判します。本当に詳しい人から、通ぶった人もこの手の切り口を多用しますね。

重要なのは、作家に対する客観的な解像度の高さとオリジナリティーのバランス。たとえば細田守に対してよく見られる「脚本が下手」という批判。これは一見すると評価のようで、それだけでは実際にはほとんど何も言っていません。問題は、「何が」「どの水準で」「どの作品において」下手だと判断しているのかが分解されていない点にあります。物語構造の設計なのか、説明の省略なのか、感情曲線の組み方なのか、あるいはジャンル文法とのズレなのか。そこまで言語化されて初めて、その批評は「作家理解」として成立します。

また、この立場の弱点としては、作品の前に作家の人格モデルのロールプレイを前提とし過ぎるあまり、作品そのものの構造や意味論の検討を怠りがちになります。

一方で、強い点としては、岡田斗司夫さんのように作家の人格をモデル化するための人物眼がユニークで、更に客観的にその人格を説明可能な知識も持ち合わせている方の作家主義的な批評はとっつき易く、面白いものになります。また、作家論は各芸術分野の批評においても伝統的な位置付けでもありますので、作家主義という言葉はそのまま色んな所で使えます。

◽️② 作品主義

ここは少しややこしい。

「作品主義」という単語は一応存在していますが、ほぼ便宜的に定義されるだけの存在です。今回も然り。ただし、概念としては明確に存在していて、テクスト中心主義とか内在的批評みたいな言葉で語られます。誤解を恐れずにそいつらをまとめて簡単に言うと、

作品主義=
作者の意図も、読者の感想も、一旦ぜんぶ脇に置いて
作品そのものの構造・表現・形式だけを見る。
作品をひとつの綴じた世界として、その中で演繹的に論証する。

特徴:
・作品の再読可能性が高い
 =理屈を通して誰もが同じ理解ができる
・客観的で厳密
・解釈より解説寄り
・作家主義も観客主義も「人格」を通して作品を評価するのに対して、その対極にある

『果てしなきスカーレット』に寄せられた作品主義的な意見でいくと「この作品は『ハムレット』や『神曲』がわからないと読めない」「聖書をベースにした物語展開」「古典的寓話システムに依存」などになります。

いわゆる考察系もこの枠に入りがちといえるでしょう。

この立場で最も重要になるのは論理的整合性、実証性です。「そう見えるから多分こう」「このシーンはあれがモチーフ」といったパッチワーク的な考察は巷によく溢れていますが、何故そのモチーフである必要性があるか?根拠は?もしくは、そのモチーフが作品においてどのような有機的な意味を持ちうるか?を説得的に言えないと、ロールシャッハテストみたいな話になってしまうんですね。この辺りが"考察"と"批評"の分水嶺と言えるでしょう。

この立場のメリットとしては、純粋に作品の可能性を評価できる、客観的(学術的)に作品を語る事ができるなどが挙げられます。

デメリットとしては、批評としての広がりや魅力に欠ける、作り手と受け手あって存在する芸術のエコシステムを無視しがちになる、批評家の書き方次第では排外的なドクトリンを持ちがち(ex.ハムレットがわからないとスカーレットはわからない!等)になる、論理破綻の誤魔化しが効かないなどが挙げられます。

ただし、これらの多くは作品主義そのものの欠陥というより、それを運用する批評家の態度によって生じる問題でもあります。そしてこれは引き続き解説する観客主義にも広く共通する問題です。

◽️③観客主義

ここが一番、ひとつにまとめるのに無理があるパートですが、挑みます。

「観客主義」という語もまた、今回概念を整理するためにざっくり便宜的な定義としてここに提唱します。恐らく、読者反応批評とかいわゆるカルチュアル・スタディーズ的なものも広義の「観客主義」といえるでしょう。

観客主義=
作品の意味は読者(観客)がどう受け取ったかによって生成される。
作品の価値は、歴史的・社会的ににどのように読まれてきたかによって変化する。
観客は単なる受け手ではなく共犯者/共作者にもなり得る。

特徴=
・解釈への許容度が高い
・読まれた共同体ごとに意味が変わる
・観客の感動・不快・誤読すら分析対象
 =テーゼや理屈より体験ベース
・観客の解釈やリアクションが作品の意味や価値を規定
・作品を社会の鏡として扱う
・あるいは最もラディカルな体験主義
・ファンダム、二次創作、ミーム化、炎上まで作品の射程として扱う

『果てしなきスカーレット』に寄せられた観客主義的な批判は「意味がわからない」「理屈では納得できても共感できない」「泣いた」「戦争批判としては浅い」などが挙げられます。炎上系の多くの批判もこちらに分類されるでしょう。

この立場で最も重視されるのは観客の体験や、作品が置かれた社会状況の分析です。日本では恐らく最も主流(逆に言えば偏ってるとも…)な立場ですね。代表的なサブカル系の論客といえば『母性のディストピア』の宇野常寛さんあたりはザ・ですね。後はリベラル系の論客の方も大体こっちかなと。

メリットとしては、ある程度論理を組めれば射程を社会論まで伸ばせる、解釈の幅がかなり自由、観客の素朴な感想が作品を規定できる、解釈の多様性に最も寛容、などが挙げられます。

デメリットとしては、社会論として論理よりイデオロギーが先行しがち、一貫性の欠如、声がデカい=正論になりがち、恣意的な解釈が横行する、興行収入=作品の価値と見做されがち、などが挙げられます。

しかしこの立場は幅が広く非常に玉石混交ですので、「観客主義」という十把一絡げにした言葉は本来慎重に使うべきでしょう。今回はあくまでも批判を分かりやすく類型化し理解を助けるために使っています。

そして最も重要なのは、多くの批評はこれらのハイブリッドという事です。

⬛︎三つの立場は対立ではなく、補完関係になりうる

さて、作家主義、作品主義、観客主義の説明をしてきましたが、まず押さえておかねばならないのは、これらの間に優劣はないという事です。

作家主義・作品主義・観客主義は、それぞれが互いの弱点を突き合う関係にありますが、互いのピースを補完し合う欠片としても機能します。

例えば、作家主義の強みと、その限界から見ていきます。

作家主義は、作品を作家の人生や思想、創作史の中に位置づけることで、一見すると断片的に見える表現に連続性や意味を与える力を持っています。

作品を単体で消費するのではなく、「なぜこの表現がこの作家から生まれたのか」を考えることは、批評に時間軸と深みをもたらします。

一方で、作家主義はその説明力の高さゆえに、作品を作家の人格や意図へと過剰に回収してしまう危険も孕みます。そうした作家像が先に立ちすぎると、作品そのものが持つ構造的な工夫や、多義的な読みの可能性が見えにくくなることもあります。

たとえば細田守に対してしばしば見られる
「結局この人は“家族”しか描けない」
「脚本が下手な作家だ」

といった批判は、作品内部の構造や語りの選択を深く検討する前に、作家の人格モデルへと評価を回収してしまう典型例ですね。これは認知心理学的に言えばヒューリスティックがもたらす認知バイアスの一環と言えるでしょう。

その結果、作品ごとに異なる物語の設計や、意図的に選ばれた省略や単純化といった構造的工夫が、「いつもの細田守」というラベルの下で見えにくくなってしまう。

今回『果てしなきスカーレット』においては第四部で紹介した通り、従来の作品と基本文法が違うことで発生した「理解できない、設定がクソ」という観客主義から出発した感想を「今回の細田の脚本も駄目だった」と作家主義的な帰結で回収している例が散見されました。

一方で、このとき作品主義の視点は、「作家が誰であるか」から一旦距離を取り、"作品そのものが内部で何をしているのか"を問い直す補助線として機能します。

この二つの主義をハイブリッドにすることで、お互いの弱みを補完し合い、批評に広がりを持たせることができるようになります。

たとえば『果てしなきスカーレット』に対して
「細田守はやはり感情の盛り上げ方が下手だ」
「いつもの家族観に回収できないから失敗している」
といった作家主義的な評価が先に立つと、議論は早々に行き止まりになります。

ここで作品主義の視点を挟むと、
「そもそもこの作品は、感情移入を前提にした現実世界の物語なのか?」
「舞台は“現実”ではなく、死者の国=観念空間として設計されているのではないか?」
といった問いが立ち上がります。

すると、感情曲線の弱さや説明の省略は、単なる演出不足ではなく、寓話的な文法を選択した結果としての必然として読み直すことが可能になります。

そのうえで改めて作家主義に戻れば、
「なぜ細田守は、今回はあえてこの文法を選んだのか」
「過去作の“現実世界のドラマ”から、なぜここまで踏み込んだのか」
という、より解像度の高い作家論へと接続できる。

このように二つの主義をハイブリッドにすることで、
作品を矮小化せず、かつ作家像にも安易に回収しない批評が可能になるんですね。

⬛︎試しに本連載とそこに寄せられた批判を「類型化」して整理する

何を隠そう、今回僕がnoteで書いている『果てしなきスカーレット』の連載は、意図的に作品主義の立場から発信しています。

というのも、SNS上で目にした多くの反応が、観客主義と作家主義が未整理のまま混線した感情的な批判に偏っているように感じたからです。

観客主義的な感想や作家主義的な批評は、その性質上どうしても語り手の体験や価値観──つまり「自論」から出発せざるを得ません。
同じ立場同士であれば共感は生まれますが、異なる立場が交錯すると、議論は内容ではなく立場や態度の衝突になりがちです。
当時の『果てしなきスカーレット』を巡る空気は、端的に言えば「共感できるか/できないか」で評価が決まる場になっていました。

それは少し勿体ない。
そう感じた僕は、第二部・第三部ではあえて作品主義という限定された視点に立ち、作品内部の構造や文法に話題を絞って叙述することにしました。
ハムレットや神曲といった古典から大きく逸れなかったのも、細田守自身がそれらを明確な底本であると言及していたからです。
(※もちろん、作家の発言が常に絶対的な根拠になるわけではありません)

そして第四部では、その作品主義的な読みを足場に、今度は「炎上」という観客主義の場で起きていた現象そのものを整理しました。
つまりここで初めて、作品主義と観客主義を横断するハイブリッドな批評を試みた、というわけです。

で!ここに来ると、面白いことに!!やっぱり観客主義の立場から矢が飛んでくるんですよね笑

僕の第四部の記事をRTされた方がこんな事を仰っていました。

この方はまず、俺もそれはわかってたと言います。だから僕の意見は理屈としてはわかるけど、そもそもこの作品には「陽転」というダイナミクスが足りないと。

そして、論理は説得力の一部に過ぎず、それでは感情は引っ張られないと主張します。

この時点でこの方は、観客主義の立場の人なんですよね。そして恐らく、自分の立場の区別もついていません。だから僕の作品主義的な解釈を取り上げつつ、何とかその違和感を自分の言葉にして整理しようとしているのだと思います。

更にここで明確に作家主義の立場を否定しつつ、観客が納得するかどうかが物語の肝であると断言していますね。超観客主義の立場です。そして最後に…。

これは、僕の意見、つまり作品主義の立場から行った説明を「理屈」という理由で一蹴している発言です。

今回は、ここで起きているズレは、実は意見の対立ですらないことに着目したいと思います。

問題は、この方がどの立場から語っているのかを自覚しないまま、別の立場の言語に応答しようとしている点にあります。

このツイート群では、
・「説得力」
・「納得できるかどうか」
・「感情が引っ張られたか」

といった、きわめて観客主義的な評価軸が一貫して用いられています。

にもかかわらず、その評価軸を作品主義のテーブルに持ち込んで「納得できない」と言っている。

例えばこれは、スープの成分や配合を説明しているところに「でも好みの味じゃない」と返されている状態に近い。笑 いやいや知らんがなと。笑

もしこの方が最初から
「自分はこの作品を、感情的な納得感やカタルシスの観点(観客主義)で観ていて、そこにどうしても物足りなさを感じた」
と言われていれば、この指摘は僕の解釈に対する反論というより、「作品をどう味わったか」という個人的な感想として、その場で完結していた話だったと思います。

しかし実際には、自分がどの地点から作品を評価しているのかが整理されないまま、僕の文章が扱っている“構造や文法の説明”に対して、「感情的に納得できない」という別の物差しが持ち込まれてしまった。

このように立場の切り分けがなされないまま議論が進むと、作品主義的な説明は「理屈」「頭でっかち」として退けられ、観客主義的な違和感は「説明不能な感覚」として残り続ける。

ちな、一応自己弁護させて頂きますと、僕は第四部で炎上の理由を「説明不足、設定ガバ、話が飛ぶ」といった批判が火の元だという仮説に絞って、それは文法構造の違いによるエラーだと説明しているのですね。

つまり僕はこの人がいう「陽転」、恐らく物語上のカタルシスやダイナミクス、視聴者の感情曲線のデザインなどに関してはメニュー表に載せてないんですね。だからせめて、炎上した理由は設定や文法の問題じゃなくて、「陽転」の有無にあると最初から清々しく持論を立ててくれていれば、発展的な議論に進むことができると思います。

⬛︎岡田斗司夫さんと自分を例に考える

このように、それぞれの批評的な主義や立場を理解しているかいないかって結構重要ですし、この軸を理解していればいろんな論客の立場や自身の立ち位置もわかります。そしてそれは互いの視点の尊重や新たな解釈可能性への扉ともなります。

例えば岡田斗司夫さんは作家主義の人だと言いましたが、同時に観客主義の人でもあると言えます。作家主義的に作品を読解して、それが社会や視聴者にどう映るか?その認知のギャップをコミュニケーション論のような切り口で語るスタイルです。だから彼の批評を聞くと作家に親近感が湧いたり、どうして世間はこの作品をこう評価するのか?何故自分はこう感じたのか?などが整理できた気がして、身近で知的な批評体験を得られるんですね。その中で作品は、作家と観客のコミュニケーション材料という立場までしばしば後退します。全くもってそれが悪い訳ではありませんが、岡田さんは最終的なスタイルとしては作品主義が一番遠い人だと思います。

ちなみに僕のスタイルは本来、作家主義と作品主義のハイブリッドです。まずは作品を読み解き、補助線として自身の作家観を乗せます。優勢なのはあくまで作品主義です。何故なら僕は作品を通して「作家が何を言おうとしたか」より「作家が何を言ってしまったか」に興味の比重があるからです。だから第三部ではついベアトリーチェ・チェンチの話が出てしまいました。

一番興味がないのは観客主義で、それはシンプルに他人の意見とか社会論に興味ないからですね。事実、僕は人の批評をほぼ読みません。意図的にそうしているわけではなくて、なんか読まないんですよね。他人は他人、自分は自分みたいなドライなところがあります。なので批評スタイルって、自ずとその人の性格も垣間見えたりするんです。

⬛︎あなたはどんなタイプ?かんたん「批評家MBTI診断」!

ここまで読んでくださった方はもうお気づきとは思いますが、僕たちは作品を前にするとき、無意識のうちに「どこを起点に考えるか」という癖を持っています。

そこでこれまで整理してきた
作家主義/作品主義/観客主義を軸に、
ごく簡単な自己診断をしてみましょう。

精度は保証しませんが、自分がどのタイプから作品を批評しているか、自認のきっかけくらいにはなるかも知れません。

四つの質問に答えるだけですが、一つの回答に絞れないときは、二つまで絞ってみてください!答えが拮抗したパターンも「ハイブリッド型」として分類できます!

Q1|作品を観終えた直後、最初に浮かぶのは?

A.
「この作家、やっぱりこういう人だよな」
「前作との違い(あるいは同じ点)が気になる」

B.
「この構造、どういう仕組みになってるんだろう?」
「どこで何が反転していたのか整理したい」

C.
「正直、刺さった/刺さらなかった」
「これは現代社会や制度への風刺かな?」

Q2|他人の批評を読んで、引っかかるのはどこ?

A.
「この人、作家のこと分かってないなぁ」
「前作からの文脈を無視してない?」

B.
「それ、作中で本当に言える?」
「根拠はどこにあるの?」

C.
「でも私はそう感じなかった」
「作家観/作品観で完結しててつまらない」

Q3|自分も見たことがある作品が「微妙だった」と言われたときの反応は?

A.
「確かにこの作家の過去作と比べるとね…」
「いやむしろこの監督の個性なんよ、それが」

B.
「どの点が?構造?演出?テーマ?」
「もう少し具体的に聞きたい」

C.
「まあ、合わない人もいるよね」
「好みの問題じゃない?」

Q4|批評に一番求めているものは?

A.
作家理解が深まること
(この人が“どんな人か”が分かる)

B.
作品理解が深まること
(何が起きていたのか腑に落ちる)

C.
自分の体験や社会への問題意識が言語化されること
(「それ言いたかった!」となる)

結果の見方

  • Aが一番多かった人
     → 作家主義タイプ

  • Bが一番多かった人
     → 作品主義タイプ

  • Cが一番多かった人
     → 観客主義タイプ

  • AとBが拮抗した人
     → 作家主義 × 作品主義のハイブリッド

  • BとCが拮抗した人
     → 作品主義 × 観客主義のハイブリッド

  • AとCが拮抗した人
     → 作家主義 × 観客主義のハイブリッド

※ほとんどの人は、きっとどれか一つに完全一致しません!あくまで血液型診断くらいに思ってください!

⬛︎『果てしなきスカーレット』を3タイプ別に読む

皆さんどうでしたか?
自分はどの類型に当てはまりそうだったでしょうか。

それでは、またざっくりではありますが、各タイプの視点から『果てしなきスカーレット』がどう映りやすいかを今まで寄せられた批判を仕分けしながらシミュレートしてみたいと思います。

テストの結果や皆さんの自認類型と意見が食い違うこともあるとは思いますが、それぞれの立場から作品を俯瞰することでSNSに散らばった本作への批評がそれぞれタイプ別の箱に集約される感覚はあるのではないかなと思います。(めんどくさいのでハイブリッドタイプの立場からのシミュレーションは省略します。)

■ 作家主義タイプの読み

見えやすいポイント

  • 細田守のフィルモグラフィにおける位置づけ

  • 過去作との断絶・連続

  • なぜ今回はこの形式を選んだのか、という作家の選択

評価の方向

  • 「細田守がここで何を更新しようとしたのか」

  • 「これまでの家族像/世界像との関係」

つまずきやすい点

  • 作品内部の構造を精査する前に
    「今回は合わなかった細田作品」として回収してしまう

  • 観客の違和感を、作家の能力や資質に短絡させがち  

このタイプにとって本作は、「作家論としては刺激的だが、評価が割れやすい作品」になりやすい。

■ 作品主義タイプの読み

見えやすいポイント

  • 世界が現実と切断された「寓意構造」であること

  • 死者の国/観念空間としての一貫した文法

  • 古典(神話・悲劇・寓話)をベースにした構造設計

評価の方向

  • 「この作品は何を描いているか」より
    「この作品は、どういうルールで成立しているか」

  • 古典のリバイバルとしての面白さ、価値

つまずきやすい点

  • 感情的カタルシスの不足を、作品の欠陥として扱わないため、観客主義タイプから「冷たい」「理屈っぽい」と見られがち

  • 作品を細部の集合として見てしまい、テクニカルな解釈に走りすぎて逆に脱線する


このタイプにとって本作は、
""「理解可能で、評価のしがいがある作品になるが、考察の集合体で終わりがち」""になる。

■ 観客主義タイプの読み

見えやすいポイント

  • 感情曲線の弱さ/強さ

  • 主人公への共感の可否

  • 観終えた後に何が残ったか

評価の方向

  • 「納得できたか」「腑に落ちたか」

  • 自分の体験と重ねられるかどうか

  • 社会批評としてこの作品が何を語れるか

つまずきやすい点

  • 物語が意図的に“感情移入”を制限している点

  • 「理解できる」と「納得できる」を同一視しがち

  • 作品の持つ批評意図が見出しにくい


このタイプにとって本作は、
**「理屈がわかっても、刺さらない可能性が高い作品」**になりやすい。

⬛︎『果てしなきスカーレット』はどのタイプと親和性が高い?

そして、『果てしなきスカーレット』はどうしても一定の作品主義的な読み方が要請されてしまう特性を持っています。

本作を支える古典はシェイクスピア『ハムレット』ダンテ『神曲』なわけですが、まずこれら古典は、第四部でも解説しましたが寓話としての構造を持っている。

つまり、どの時代でも通用する=社会や歴史依存しない作品=観客主義から出発しない。

そして、それらを引用する上でシェイクスピアやダンテの作家性を論じる必要もなく、出発点としてはやはり作品主義としての紐解きが出発点になりがちだと思います。

だからいきなり作家主義や観客主義で入ることは難しく、まずは作品主義からスタートし、次にこの構造を現代で引用する意味や翻案の内容を検討することで観客主義に接続するか、細田守が何故この構造を引用したか?といった作家主義的な紐解きに派生させるのが無難な攻略ルートになるかな〜と思います。これはあくまで僕だったらこう読む、の範囲を出ませんが。

よって、入り口がある程度限定されているので、作家主義や観客主義の人たちは混乱する。

だから一生懸命"考察"する。

しかし自身の立脚点に無自覚なので上手くいかない。

その過程で脱落したりストレスを感じる。

理解や共感というカタストロフに辿り着けない。

キレる💢

という流れがあるように思えます。

このように、作品によって切り込みやすい角度っていうのはそれぞれなんですよね。

⬛︎最後に──批評の正体について

最後に、もう一度だけ視点をひっくり返して終わります。

批評、もしくは批評家という言葉を今まで皆さんはどんな温度感で受け取っていたでしょうか。

多くの方は"作品に対する理屈っぽい感想"のように受け取っていたのではないでしょうか?

そして批評家は、"めんどくさい奴ら""鼻につくインテリ"とも。

ところが実は、作家もまた批評家です。

なぜなら作家も、何らかの作品(時には批評)を通して世界を読み、整理し、評価し、時に拒絶し、時に救済しようとしているからです。 

今回の『果てしなきスカーレット』もハムレットや神曲という古典がベースになっていたのは、まさに細田守が批評家としての態度を持っているからと言えます。

批評家が言葉でそれを行うのに対して、作家は物語や構図、リズム、沈黙、省略といった「形式」ー「作品」でそれをやっている。
つまり、アウトプットの仕方が違うだけで、やっていることはほとんど同じなんですね。

この意味で、批評とは特別な行為ではありません。
映画を観て「刺さった」「刺さらなかった」と感じた瞬間、私たちはすでに何かを読み、何かを判断し、何かを語ろうとしていて、その時点で、誰もがもう批評の現場に立っています。

それらに違いが生まれるとすれば、
観客主義的に「体験の言葉」で出るのか、
作品主義的に「構造の言葉」で出るのか、
作家主義的に「作家の物語」として出るのか、
その起点と翻訳先の違いだけです。

だから「どの批評が正しいか」「いかに持論が正しいか」という答え探しや仮想敵探しは、無意味であることに注意したいと思います。

多くの混乱は、自分がどこから語っているのか、相手がどこから語っているのかを自覚しないまま、同じ土俵に上がってしまうところから生まれます。

逆に言えば、自分の立ち位置が分かった瞬間、批評はぐっと自由になります。
合わない作品を急に好きになる必要はない。
解釈不一致の批評と戦う必要もない。
もちろん時には戦うことも自由ですが。
でも「なぜ合わなかったのか」
その時互いがどの言語で語っているのかが見えたとき、それはただの好き嫌いではなく、
もう一段深い“読み”になる。

批評とは作家と観客、批評家の立場を分けるものではなく、むしろ同じコスモロジーの中で新たな解釈を与え合い、次の作品への胎動を誘引する共同作業。
これが批評の正体と言えるのではないでしょうか。

『果てしなきスカーレット』がここまで議論を呼んだのは、作品が未完成だったからでも、失敗作だったからでもなく、
私たち自身の「読みの立場」を強く露呈させる作品だったということだと思います。

炎上も、再評価も、すれ違いも、空中戦も。
それは作品の外側で起きている“ノイズ”ではなく、作品がまだ対話を生んでいるという証拠です。
つまりこの作品は、今もちゃんと呼吸しているということ。

だからこそ、そこにちょっとした批評のコツや地図があるだけで、僕たちの会話はもっとラクに、もっと面白くなる。
正しさの殴り合いじゃなく、立場の違いを踏まえた上で「自分はこう読んだ」を持ち寄れるようになる。

そしてこれは『果てしなきスカーレット』特有の現象ではなく、ありとあらゆる作品に応用できます。

もし今日からひとつだけ試すなら、アニメや小説や映画を観終えたあとにこう自問してみてください。

「自分はいま、どの言語(主義)で語ろうとしている?」

それだけで批評は、専門家のものではなく、あなたのものになります。

そうしたらきっと、見えてくる世界も変わってくるはずです。

⬛︎この記事への応答

ありがたいことに、早速、本記事に応答を頂きました。

本記事の類型化を踏襲しつつ、M.H.エイブラムズの批評理論を引用し、より簡潔かつ正確に批評タイプを分けて頂きました。

その上で、現在の日本における批評の現状を批判的に分析しています。

今の日本の批評界が弱体化した理由は、主義や立場を超えて存在すべき批評的アティチュードの不在ー批評に内在するリスクを語り手が回避した結果だと仰っているのですが、いやぁ本当にその通りだなぁと。(あ、これは僕の解釈・要約です。)

それは逆に言えば、そのリスクが批評を批評たらしめるということでもあります。

本記事の補足、発展版としても読めますので、本記事で批評論に興味を持たれた方は是非ご一読を!

⬛︎次回予告


第五部は本来…宮崎駿『風立ちぬ』や高畑勲『火垂るの墓』と『果てしなきスカーレット』を神曲的な構造を通して比較してみる記事にする予定だったのですが、それは第六部に回します!このシリーズ、終わるのでしょうか…。


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