理解可能であるという病について。
私がこれから言うことには、致命的な欠陥がある。
それを先に言っておく。なぜなら、欠陥を先に開示する人間は信頼できるように見えるからだ。で、信頼できるように「見える」ということは、
たいてい、信頼できないということだ。
もう一つ、先に言っておくことがある。
私はこの小説の映画を観た。観て、何も起きなかった。
「何も起きなかった」は正確ではない。正確に言えば、小説を読んだときに起きたはずのことが、起きなかった。同じ物語のはずなのに、スクリーンの上では何かが欠損していた。あるいは——これが本当に言いたいことだが——小説のときに「あった」と思っていたものが、最初からなかったのかもしれない。映画は、それを証明しただけかもしれない。
この可能性について、私はまだうまく処理できていない。
SFは、量がなければ読めない。
これは傲慢に聞こえるだろう。実際、傲慢だ。だが傲慢さを差し引いても、事実として残る部分がある。宇宙は冷たいものとして書かれるべきだ、という直感は、三体を通過しなければ身体に入ってこない。グレッグ・イーガンの、あの、人間の形をした何かが人間であることをやめていく過程を見なければ、「異質さ」の基準線が手に入らない。
基準線がなければ、何が甘いのかわからない。
何が甘いのかわからなければ、すべてが美味い。
すべてが美味い人間に、味の話はできない。
——と、私は思っていた。たぶん今も思っている。たぶん。
だが映画を観たあとの私は、もう一つの問いを抱えている。量を通過した人間でも、小説という形式に甘やかされることがあるのではないか。文字は読者に想像を委ねる。委ねるとは、つまり、読者が勝手に補修するということだ。穴を、行間を、曖昧さを、読者自身の知性と感受性で塞いでしまう。
映画にはその猶予がない。映画はすべてを見せる。見せた瞬間に、補修材が剥がれる。
プロジェクト・ヘイル・メアリーを読んだ。
異星人が出てくる。ロッキーという名前がついている。名前がついている時点で、もう終わっている、とも言える。名前とは所有だ。名前をつけた瞬間に、未知は既知に回収される。犬に名前をつけるのと構造は同じだ。犬は名前をつけられたことを知らない。
で、このロッキーとの関係が、あまりにもスムーズに成立する。
言語が通じる。感情が通じる。協力関係が成立する。互いの生存圏は異なるのに、信頼は短いプロセスで構築される。
私はここで違和感を覚えた。
「覚えた」と書いたが、正確には違う。違和感は「覚える」ものではなく、身体のどこかがすでに拒否していて、それに後から名前をつける行為だ。つまり私の身体はすでに拒否していたのに、私の頭はまだ楽しんでいた。この乖離について、私はまだうまく説明できない。
——いや、映画がそれを説明してしまった。
映画で同じ場面を見たとき、私の頭も身体も、同時に黙った。小説で楽しんでいた頭が黙ったということは、あの「楽しさ」は文字という媒体が提供していた麻酔だったのかもしれない。
麻酔が切れた手術台の上で、私は傷口を見ている。
ここで一つ、正直に書く。
私はこの本を楽しんだ。
楽しんだ上で、これはSFではないと言おうとしている。楽しんだものを否定する行為には、常にある種の——なんだろう、自傷に似た快感がある。「私はこれを楽しめる程度の人間だが、同時に、これを批判できる程度の人間でもある」。この二重性を維持すること。それ自体が、ある種のパフォーマンスだ。
パフォーマンスだと自覚していることもまた、パフォーマンスだ。
この入れ子構造にはキリがない。エヴェレットなら——いや、エヴェレットの名前を出すのはやめよう。私は私の話をしている。たぶん。
だが映画がもたらした覚醒は、このパフォーマンスの外部にある。私が「楽しんだ上で批判する」という知的遊戯をやっている間に、映画は無造作に事実を突きつけた。この物語の快楽は、テキストが提供する余白に依存していた。余白を取り除けば、骨組みが見える。骨組みは、思っていたほど堅牢ではなかった。
これは批判ではない。診断だ。
この作品の構造を一言で言えば、「理解可能であるという前提の上に建てられた物語」だ。
未知の存在が、理解可能である。 未知の言語が、翻訳可能である。 未知の関係が、信頼に変換可能である。
これはハードSFの前提ではない。ハードSFにおいて、未知は未知のまま残るべきだ。理解不可能であることそのものが、作品の強度になる。レムの『ソラリス』がそうだ。海は最後まで何も答えない。答えないことが答えだ。
小説のテキストは、この前提を巧妙に隠す。科学的説明の密度が、ハードSFの外装として機能する。読者は科学用語の森を歩いているうちに、前提そのものを問い直す暇を失う。映画はその森を刈り取る。刈り取られた平地に立って、私は初めて前提の脆さを見た。
過大評価だったのかもしれない。
この一文を書くとき、私の指は少し躊躇した。「だったのかもしれない」という曖昧な語尾は、逃げだ。だが断定する勇気もない。なぜなら、私はこの本で泣いたからだ。泣いた記憶を持つ身体と、過大評価だったと判断する頭の間で、私は引き裂かれている。
引き裂かれていることを自覚していることもまた——
もういい。この構文はさっき使った。
では、ヘイル・メアリーは何か。
ヒューマンドラマか。
——ここで私は立ち止まる。
なぜなら、すべての物語はヒューマンドラマだからだ。異星人が出ようが、宇宙が膨張しようが、暗黒森林が広がろうが、読者は人間だ。人間は人間の感情でしか物語を受信できない。三体の、あの冷酷な宇宙論でさえ、私たちは人間の恐怖と人間の矜持の物語として読んでいる。
つまり「ヒューマンドラマである」と言うことは、「物語である」と言うことと同義で、何も言っていないに等しい。
何も言っていない文が、もっともらしく聞こえる。
これは批評の病だ。
もう一度、正直に書く。
この作品は、科学の形式をまとったファンタジーだ。
本来は断絶しているはずの他者と、理解し合えてしまう。本来は成立しないはずの関係が、成立してしまう。本来なら名前をつけることすらできないはずの存在に、ロッキーという名前がつき、友情が成立し、犠牲が意味を持つ。
その「成立してしまうこと」が、この物語の快楽だ。
快楽。
私はこの言葉を使うとき、少し後ろめたい。批評において快楽を認めることは、敗北に近い。なぜなら快楽は分析を拒むからだ。「なぜ面白いのか」を説明した瞬間に、面白さの半分は蒸発する。
だが蒸発した半分について語ることが、批評だとも思う。
そして映画は、蒸発させるまでもなく、最初から半分しかなかったことを教えてくれた。小説が提供していた快楽の残り半分は、私の想像力が無償で提供していたものだった。映画はその無償労働を拒否した。拒否された私は、自分が何に対して泣いていたのかを、初めて問い直している。
結論を書く。
と見せかけて、書かない。
なぜなら私が本当に言いたいのは、結論ではなく、結論を出すまでのプロセスにおいて私自身がどれだけ矛盾しているか、ということだからだ。
SFは量を通過しなければ読めない、と私は言った。 だが量を通過した人間でさえ、テキストの麻酔に気づかないことがある。 映画という別の媒体が、その麻酔を解除した。 解除されて初めて見えたものがある。 見えたものを認めるのは、少し痛い。
ロッキーは理解可能だった。 それはSFとしての欠陥かもしれない。 小説はその欠陥をテキストの余白に隠していた。 映画はその余白を持たなかった。 だから欠陥が見えた。 だが欠陥が快楽を生むこともある。 そして快楽を否定できる人間は、たいてい、別の快楽を隠し持っている。
私が隠し持っている快楽は、たぶん、こうやって入れ子状に語ること自体だ。
あるいは——映画に殴られた頬を撫でながら、小説にまだ感謝していること自体が、私の病だ。
それについては、もう何も言わない。
