短編恋愛小説 「ごめんね」
その言葉は、いつも私たちの真ん中にあった。
「ごめんね、待たせちゃって」
「ううん、私もいま着いたところ」
駅の改札口。約束の時間の5分後、少し息を切らせて走ってくる彼──蓮の口癖は、いつだって「ごめんね」だった。
蓮は優しすぎる人だった。優しすぎて、いつも私の顔色をうかがっていた。デートのお店を決める時も、映画を選ぶ時も、彼はいつも「美咲の好きなところでいいよ」と言った。
私が「ここに行きたい」と言えば、蓮は嬉しそうに微笑んで「それじゃあ、行こう」と言った。
付き合って3年。
居心地が悪いわけではなかった。だけど、いつからだろう。彼の「ごめんね」を聴くたびに、私の胸の奥に、冷たくて小さなトゲがチクリと刺さるようになったのは。
蓮の「ごめんね」は、私を傷つけないためのバリアのようだった。
そして同時に、彼が自分の本心を私に見せないための、心の壁のようでもあった。
◇
秋の風が冷たくなってきた土曜日の午後。
私たちは、久しぶりに付き合い始めた頃によく行った、静かなブックカフェにいた。
窓の外では、黄色く色づいたイチョウの葉が、ひらひらとアスファルトに舞い落ちている。
店内に流れる静かなジャズ。テーブルの上には、すっかり冷めてしまった2つのコーヒー。
私たちの間には、重苦しい沈黙が流れていた。
今日、蓮は一度も私の目をまともに見ていない。コーヒーカップの縁をじっと見つめたまま、長い指先でそれをなぞっている。
「……蓮?」
私が呼びかけると、蓮の肩がびくりと跳ねた。
彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、いつになく真剣で、そして、とても悲しそうだった。
「美咲。あのさ……」
蓮の声が、小さく震えていた。
私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
心臓がドクドクと嫌な音を立てて早くなる。
聞きたくない。
だけど、聞かなければいけない。
そんな予感が、頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「俺たち、もう終わりにしよう」
窓の外の車が通り過ぎる音が、妙に大きく聞こえた。
頭の芯が、じわんと熱くなる。
わかっていたはずなのに、言葉として突きつけられると、息の仕方を忘れてしまいそうだった。
「どうして……?」
何とか声を絞り出す。
「美咲は何も悪くないんだ。悪いのは全部、俺なんだ」
蓮は困ったように眉を下げて、いつものように、消え入りそうな声で言った。
「俺、美咲と一緒にいると、ずっと無理をしてたみたいなんだ。嫌われたくなくて、怒らせたくなくて、いつも美咲の正解を探してた。でも、気づいたら、自分がどうしたいのか分からなくなっちゃって……。美咲の隣にいるのが、少し、苦しくなっちゃったんだ」
胸の奥のトゲが、一気に大きく膨らんで、心臓を突き刺したみたいに痛かった。
私は、彼の優しさに甘えていた。
彼が合わせてくれていることに、どこかあぐらをかいていたのかもしれない。
彼が私のためにすり減らしていた心に、気づいてあげられなかった。
「……そっか」
私は、お気に入りのハンカチをギュッと握りしめた。
涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。
ここで泣いたら、蓮はまた自分を責めてしまうから。
「教えてくれて、ありがとう。気づかなくて、ごめんね」
私が言うと、蓮は驚いたように目を見開いた。
それから、どこかホッとしたような、でも、今にも泣き出しそうな複雑な顔をして、ポケットからスマホを取り出した。
「お会計、俺が払うよ」
「ううん、最後くらい割り勘にしよ」
私がバッグからお財布を出すと、蓮はそれ以上何も言わなかった。
お店を出ると、夕暮れの街がオレンジ色に染まっていた。
駅に向かうまでの短い遊歩道。
私たちは、付き合いたての頃のように、少し離れて歩いた。
もう、袖を引き止めることも、手を繋ぐこともない。
駅の改札口が見えてくる。ここが、本当の分かれ道だ。
私は立ち止まり、蓮の方を向いた。精一杯の笑顔を作って、彼を見つめた。
「蓮、今までありがとう。楽しかったよ。元気でね」
蓮も、立ち止まった。
彼は私をじっと見つめ、何かを言いかけようとして、何度も唇を動かした。
その目に、じんわりと涙が溜まっていくのが見えた。
いつもなら、ここで彼は「寂しい思いをさせてごめんね」とか「傷つけてごめんね」と言うのだろう。
でも、蓮は深く息を吸い込んだ。
そして、私の目をまっすぐに見つめて、はっきりとこう言った。
「美咲。……幸せにできなくて、ごめんね」
それは、今まで聞いたどの「ごめんね」よりも、短くて、静かで、そして重い言葉だった。
でも、不思議とトゲの痛みはなかった。
なぜならその言葉は、彼が私の顔色をうかがうための嘘ではなく、彼が心の一番深いところから絞り出した、本当の本音だと分かったから。
「うん。蓮も、元気でね」
私は背を向け、改札口へと歩き出した。
自動改札機にパスをタッチした瞬間、こらえていた涙がポロポロと頬を伝って落ちた。
駅のホームへと続く階段を上りながら、私は何度も心の中で、彼の最後の言葉を繰り返した。
幸せにできなくて、ごめんね。
「バカだなぁ、蓮は」
涙を袖で拭いながら、小さくつぶやく。
私はちゃんと、蓮と一緒にいて幸せだったよ。
たくさん笑ったし、たくさんの優しい気持ちをもらったよ。
彼の最後の「ごめんね」は、私たちの3年間の恋に、ちゃんときれいなピリオドを打ってくれた。
ホームに滑り込んできた電車のドアが開く。
私は涙を拭き、大きく一歩を踏み出して、電車に乗り込んだ。
動き出した電車の窓から見える景色は、涙で少しにじんでいたけれど、夕焼けの光が、新しく始まる明日を優しく照らしているように見えた。
完
サムネ画像:ノーコピーライトガール様
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