季節を超える距離
大学卒業を前に選択を迫られる恋人たち。文学部の繊細な樹と、シリコンバレーを目指す陸。「お互いの夢を諦めるのはきっと後悔する」—その言葉と共に始まる遠距離恋愛は、時差と嫉妬、成長による変化に揺さぶられていく。冬の別れ、それぞれの春、そして2年後の秋の再会。「人は成長するために別れることもある」という真実と、季節が巡るように訪れる新たな絆の可能性を描いた、大人の恋愛小説。別れの先にある、より深い繋がりの物語。
第一章:卒業を前にした選択
東京に冬が訪れていた。大学の図書館の窓から見える木々は葉を落とし、冷たい風が吹き抜けていく。田中樹は窓際の席に座り、就職内定通知書と自作の小説の原稿を交互に見つめていた。地元の中堅出版社からの内定。悪くない選択だった。でも、本当にこれでいいのだろうか。
「また悩んでる顔してる」
声に顔を上げると、そこには佐々木陸が立っていた。工学部のエリートと呼ばれる彼は、いつも自信に満ちた笑顔を浮かべていた。だが今日は少し違う。どこか迷いを含んだ目をしていた。
「陸くん、どうしたの?」
樹が問いかけると、陸は隣に座り、スマートフォンを差し出した。
「これ、さっき届いたメール」
画面には英文のメールが表示されていた。シリコンバレーのスタートアップ企業からのオファーだった。
「すごい!おめでとう!」
樹は素直に祝福の言葉を口にした。陸のプログラミングの才能は大学でも有名で、海外で活躍するのは彼の昔からの夢だった。しかし、陸の表情は複雑だった。
「日本の大手IT企業からも内定もらってるし、どうするべきか...」
冬の図書館。二人は互いの未来について語り合った。樹は出版社で働きながら小説家を目指すこと、陸はプログラマーとしての可能性を広げたいこと。外は雪が舞い始め、図書館の暖房が心地よかった。
「樹のことが好きだから、できれば一緒にいたい。でも...」
「でも、シリコンバレーは譲れない夢なんでしょう?」
樹は静かに微笑んだ。陸の目を見つめ、自分の感情を整理した。
「私も小説家になりたい。お互いの夢を諦めるのはきっと後悔する」
「じゃあ、遠距離恋愛?」
「うん。私たちならできるよ」
そう言って手を重ねた時、陸のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前に、樹は思わず目を留めた。"松本英理"。陸のメンター的存在で、シリコンバレーでのインターンシップ経験者だった。
「あ、英理さんからだ。きっとオファーのことで...」
陸は少し慌てた様子でメッセージを確認した。
「彼女からのアドバイスがあって、オファーを真剣に考えてるんだ。彼女の人脈も活かせるし...」
樹は複雑な感情を隠して頷いた。英理のことは知っていた。陸とは正反対のタイプの自分とは違い、彼女は陸と同じ世界の人間だった。
「そうだね。彼女は陸くんの才能を一番理解してる人かもしれないね」
図書館の窓から見える雪景色が、これから来る季節の変化を予感させていた。
第二章:遠距離の予感と不安
伊豆の海は冬の終わりを告げるように、穏やかな波が打ち寄せていた。卒業旅行で訪れた二人は、砂浜を歩きながら未来について話し合っていた。
「決めたよ。シリコンバレー行く」
陸の決断に、樹は既に心の準備をしていた。それでも現実として告げられると、胸に小さな痛みを感じる。
「おめでとう。応援してるよ、ずっと」
夕暮れの海を背景に、二人は抱き合った。冷たい風が頬を撫で、樹の長い黒髪が風になびいた。
「必ず成功して、樹を迎えに来るよ」
「私も小説家になって、陸くんのところに行くね」
約束は美しかった。しかし樹の心の片隅には、不安が静かに芽生えていた。
東京に戻ると、就職の準備と卒業論文で忙しい日々が始まった。陸はビザの手続きや渡航の準備に追われ、会える時間は減っていった。それでも二人は週末にデートを重ね、別れまでの時間を大切にしていた。
ある日、樹のスマートフォンに親友の山田美咲からのメッセージが届いた。インスタグラムへのリンクだった。
「これ、見た?」
リンク先には陸と英理が並んで写っている写真があった。表参道のカフェでの勉強会の様子らしかったが、二人の距離が近く、親密な雰囲気が漂っていた。英理のコメントには「未来のシリコンバレースター✨」と書かれていた。
樹は胸が締め付けられる思いがした。これが嫉妬というものだろうか。今まで感じたことのない感情に戸惑った。
「気にしない方がいいよ」
カフェで会った美咲は冷静にアドバイスした。
「でも、あの写真...」
「遠距離恋愛で一番ダメなのは疑い始めること。一度そうなったら終わりだよ」
美咲は恋愛経験豊富で、いつも的確なアドバイスをくれる。彼女は出版社への就職が決まっていて、樹の小説の一番の理解者でもあった。
「陸くんは優しいし、英理さんは魅力的だし...」
「だからって浮気するとは限らないでしょ。信じなきゃ始まらない」
美咲の言葉に、樹は深く頷いた。そうだ、信じよう。これから始まる遠距離恋愛を乗り越えるためには、信頼が何より大切だ。
卒業式の日、桜はまだ蕾だった。樹と陸は大学の屋上で、東京の景色を見下ろしていた。
「一週間後には、この景色も見られなくなるんだな」
陸の声には寂しさと期待が入り混じっていた。樹は彼の手を強く握った。
「毎日連絡するよ。時差があっても大丈夫」
「うん、絶対」
約束の口づけは、春の風のように優しかった。
第三章:それぞれの新生活
春の陽気が東京の街を包み込む頃、樹は出版社での新生活を始めていた。編集アシスタントとしての仕事は想像以上に忙しく、校正作業や著者とのやり取りに追われる毎日だった。しかし、その忙しさの中にも、自分の小説を書く時間を見つけていた。深夜、小さなアパートのデスクに向かい、キーボードを叩く音だけが響く時間が、樹にとっての至福だった。
一方、陸はシリコンバレーでの生活を始めていた。最初の頃は毎晩のようにビデオ通話で会話していた。陸の住むアパートの様子や仕事の同僚たち、アメリカでの驚きの連続を、彼は熱心に樹に伝えた。時差の関係で、樹が朝出勤前、陸が前日の夜という時間帯になることが多かった。
「今日はすごいプロジェクトの話があってさ...」
陸の目は輝いていた。新しい環境での挑戦が、彼に活力を与えているのが伝わってきた。
「それは素敵ね。私も今日、作家の高橋さんの新刊の編集会議に参加できたの」
ビデオ通話の画面越しに、二人は日常を分かち合った。しかし、次第に会話の時間は減っていった。陸はプロジェクトの締め切りに追われ、樹も出版の繁忙期に入っていた。週に2回の通話が1回になり、やがてメッセージのやり取りが中心になっていった。
ある日、樹はふとインスタグラムを開いた。陸の投稿を見るのが日課になっていた。最新の投稿は週末のハイキングの写真だった。陸を含む数人のグループ写真の中に、英理の姿もあった。彼女は陸の隣に立ち、自信に満ちた笑顔を浮かべていた。キャプションには「チームビルディング #シリコンバレーライフ 」とあった。
樹は複雑な思いで画面を見つめた。彼女が毎日会えるのに、自分は画面越しにしか会えない。英理は陸と同じ夢を追いかけ、同じ世界で輝いている。対して自分は...
「違う世界の人間になっていくのかな」
呟いた言葉が、小さなアパートの壁に吸い込まれていった。
出版社での仕事は充実していた。先輩編集者から多くを学び、樹自身の文章力も評価されるようになっていた。そして、日々の業務の中で、自分の小説のテーマが徐々に形になっていくのを感じていた。「遠く離れた二人の成長と変化」―― 自分自身の経験が、創作のエネルギーに変わっていった。
夏が訪れ、東京は蒸し暑さに包まれていた。美咲と新宿の居酒屋で飲んでいた樹は、少し酔った勢いで本音を漏らした。
「最近、陸くんとの通話が減って...」
「仕方ないよ。お互い忙しいんだから」
「英理さんとの写真も増えてるし...」
美咲は樹の表情を真剣に見つめた。
「樹、正直に言うけど、遠距離って思ってるより難しいよ。でも、今すぐ答えを出す必要はない。自分の気持ちと向き合って」
その夜、久しぶりに陸からビデオ通話の誘いがあった。画面に映る彼は少し痩せて、顔つきも引き締まっていた。
「最近忙しくてごめん。でも、すごいプロジェクトに関われてて...」
彼の話は技術的な専門用語が多く、樹には半分しか理解できなかった。でも、彼の情熱は伝わってきた。
「私も小説が少し形になってきたの。編集の仕事から学ぶことも多くて」
「それはよかった!いつか読ませてね」
会話は続いたが、どこか以前のような親密さが薄れていることを、二人とも感じていた。時間と距離が、少しずつ二人の間に溝を作り始めていた。
第四章:嫉妬と成長
秋が深まり、街路樹が色づき始めた頃、樹は大きな決断をした。陸の誕生日に合わせて、サプライズでサンフランシスコに行くことにしたのだ。仕事の休みを調整し、貯金を切り崩して航空券を手に入れた。
「えっ、本当に行くの?」
美咲は驚いた様子で尋ねた。
「うん。ちゃんと会って話したいことがあるの」
長いフライトの後、樹はサンフランシスコに到着した。時差ボケと緊張で体は疲れていたが、心は高揚していた。陸のアパートの住所は知っていた。彼の誕生日前夜、樹はタクシーで彼のアパートに向かった。
ドアをノックする手が震えた。陸の驚いた顔を想像して、樹は小さく微笑んだ。しかし、ドアを開けたのは陸ではなかった。
「あら、あなたは...?」
そこに立っていたのは松本英理だった。彼女はカジュアルな部屋着姿で、明らかにくつろいでいる様子だった。
「あの...佐々木陸くんの部屋で合ってますか?」
樹の声は震えていた。
「そうよ。あなた、樹さん?」
英理は樹を認めると、親しげな笑顔を浮かべた。
「陸なら、ちょうど買い物に出てるわ。もうすぐ戻るはずよ。入ってお待ちになる?」
樹はアパートに足を踏み入れた。小さいながらも整理された部屋は、陸らしさを感じさせた。テーブルの上にはノートパソコンが開かれ、コーヒーカップが二つ置かれていた。明らかに二人で何かの作業をしていた形跡だった。
「私たち、明日のプレゼンの準備をしてたの。陸、すごいアイデアを思いついて」
英理は自然体で説明した。彼女は敵意を持っているようには見えなかった。むしろ、樹に対して好意的だった。
「そうなんですね...」
その時、ドアが開き、ショッピングバッグを持った陸が現れた。彼が樹を見た瞬間の驚きの表情は、生涯忘れられないものになった。
「樹...?嘘...本当に樹なの?」
陸は買い物袋を床に落とし、駆け寄って樹を抱きしめた。
「サプライズ...誕生日おめでとう」
樹の声は小さかった。陸の体温、懐かしい匂い、全てが樹の感情を揺さぶった。
「英理さん、明日のこと、また後で連絡するよ」
陸は英理に言った。彼女は理解したように頷き、さっと自分の荷物をまとめ始めた。
「もちろん。二人でゆっくりしてね」
英理は去り際に樹に微笑みかけた。彼女の自信に満ちた佇まいに、樹は自分との違いを痛感した。
陸との再会の夜は甘く、懐かしく、でも何か違和感もあった。二人は抱き合い、数ヶ月分の想いを言葉にした。しかし、樹の心の奥には、英理の存在が刺さったトゲのように残っていた。
「英理さんとは...何の関係?」
静かな夜、樹は勇気を出して尋ねた。
「何言ってるの?仕事の同僚だよ。彼女はメンターみたいな存在で、色々教えてくれるんだ」
「でも、こんな夜遅くまで二人きりで...」
「明日大事なプレゼンがあるんだ。それだけだよ」
陸は樹の頬に触れ、真剣な眼差しで言った。
「英理は同僚以上の存在じゃない。信じてよ」
その言葉を信じたかった。でも、樹の心には既に疑いの種が芽生えていた。
滞在中、陸は仕事の合間を縫って樹をサンフランシスコの街に案内した。ゴールデンゲートブリッジ、フィッシャーマンズワーフ、チャイナタウン...二人は観光客のように街を巡った。それでも、会話の中で陸が英理の名前を出すたびに、樹は小さな痛みを感じた。
帰国の日、空港で陸に見送られながら、樹は複雑な思いを抱えていた。再会は嬉しかったが、同時に距離を感じずにはいられなかった。
東京に戻った樹は、小説の執筆に没頭した。仕事と執筆の日々。物語の中で、主人公は遠距離恋愛の苦しみと向き合っていた。それは樹自身の姿でもあった。
「この小説、すごくいいよ。出版社の新人賞に応募してみたら?」
原稿を読んだ美咲は熱心に勧めた。樹は迷いつつも、美咲の言葉に背中を押された。
「うん、チャレンジしてみる」
小説を書くことが、樹にとっての救いになっていた。自分の感情と正直に向き合い、それを言葉にすることで、心の整理がついていくようだった。
陸との連絡は相変わらず疎遠になりがちだった。時に送られてくる彼のメッセージには、以前のような熱量が感じられなかった。そして、SNSには相変わらず英理との写真が投稿され続けていた。
「私、大丈夫かな...」
秋の夜、樹は星空を見上げながら呟いた。
第五章:別れの決断
再び冬が訪れた。東京の街はイルミネーションで彩られ、クリスマスムードが漂っていた。樹の小説は出版社の新人賞の一次選考を通過し、最終選考に残っていた。仕事にも慣れ、信頼される存在になりつつあった。
ある日、突然陸から連絡があった。
「クリスマス休暇で一時帰国することになった。会えるかな?」
メッセージを見た樹の心臓は跳ねた。嬉しさと不安が入り混じる感情。返信するまでに少し時間がかかった。
「うん、会いたい」
シンプルな返事。でも、その言葉の裏には複雑な思いが詰まっていた。
雪の舞う12月24日、樹は約束の場所である六本木のカフェで陸を待っていた。窓の外では雪がゆっくりと降り積もっていた。
ドアが開き、陸が入ってきた。少し日焼けした肌と、さらに引き締まった体つき。アメリカでの生活が彼を変えていた。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
ぎこちない挨拶から始まった再会。陸は熱心にシリコンバレーでの仕事について話した。スタートアップの環境、刺激的なプロジェクト、将来の夢。彼の目は輝いていた。
「君はどう?小説のことも聞いたよ。すごいじゃないか」
「うん、まだ最終結果は出てないけど...」
樹も自分の仕事や小説について話した。編集者としての経験、創作の喜び、新しい目標。
表面上は穏やかな会話が続いたが、二人とも感じていた。何かが変わっていることを。何かが終わりつつあることを。
「雪、綺麗だね。少し歩かない?」
カフェを出た二人は、雪の降る六本木の街を歩いた。クリスマスソングが街角から流れ、恋人たちがすれ違っていく。
「シリコンバレーで、自分のスタートアップを考えているんだ」
陸が突然言った。
「そう...それは素敵ね」
「一緒に来ないか?」
その言葉に、樹は足を止めた。雪が二人の間に舞い落ちる。
「私...」
言葉が詰まった。かつては迷わず「行く」と答えたかもしれない。でも今は...
「私には、ここでやりたいことがある」
静かだが、強い意志を込めた言葉。陸は樹の目を真っ直ぐ見つめた。
「わかってる。君には君の夢がある」
夜の公園のベンチに座り、二人は互いの手を握りしめた。冷たい手と温かい想い。
「私たち、変わったね」
樹がポツリと言った。
「うん...でも、それは悪いことじゃない」
「陸くんは陸くんの夢を追いかけて、私は私の道を進んでる」
「もしかして...別れた方がいいのかな」
陸の言葉は、雪のように静かに降り積もった。樹は涙を堪えながら頷いた。
「今はそれぞれの夢を追う時期なのかもしれない」
激しい感情の嵐はなかった。ただ、静かな諦めと、新しい未来への一歩があった。二人は長い抱擁を交わし、これまでの時間に感謝した。
「幸せになってね」
「君も」
別れ際、陸は樹の額にそっとキスをした。それは「さようなら」ではなく、「ありがとう」のキスだった。
雪の降る夜、樹は一人で家路についた。涙は流れたが、不思議と心は晴れやかだった。自分の選択に、後悔はなかった。
第六章:それぞれの道
春の柔らかな陽光が東京の街を包み込む頃、樹は大きなニュースを受け取った。彼女の小説「冬の距離」が新人賞を受賞したのだ。出版社では祝福の声が飛び交い、樹自身も実感が湧かないまま喜びに浸っていた。
「おめでとう!やっぱり才能あるって言ったでしょ!」
美咲は樹を強く抱きしめ、祝福した。
「ありがとう...まだ信じられないよ」
受賞式では、緊張しながらもしっかりとスピーチをこなした樹。会場には両親の姿もあった。小説家を目指す娘に複雑な思いを抱きつつも、今日は誇らしげに拍手を送ってくれていた。
一方、陸からは短いメッセージが届いた。 「受賞おめでとう。いつか読ませて」
シンプルな言葉だが、樹の心には温かく響いた。
夏になると、樹は編集者としての仕事と並行して、デビュー作となる長編小説の執筆に取り掛かった。仕事終わりの夜や週末を使って、少しずつ物語を紡いでいった。執筆は孤独な作業だったが、その孤独の中に、樹は創作の喜びを見出していた。
SNSで陸の様子を時々確認することはあった。彼は自分のスタートアップ企業を立ち上げる準備を始めており、忙しそうだった。英理の姿も投稿に時々見られたが、以前のような痛みは感じなくなっていた。
「彼、起業するんだって」
カフェで美咲と会った時、樹は自然な口調で陸のことを話した。
「へぇ、すごいじゃん。まだ気になる?」
「うん...でも、違う形でね」
それは本当だった。陸への恋愛感情は変質し、一人の人間として彼の成功を純粋に願う気持ちになっていた。別れは正しかったのだと、樹は確信していた。
秋から冬へ。樹の原稿は少しずつ形になっていった。主人公の女性は、遠距離恋愛の末に別れを選び、自分自身の道を歩き始める。それは樹自身の経験がベースになっていたが、創作の過程で物語は独自の生命を持ち始めていた。
「この小説、私の実話なんだけど、同時に私じゃない誰かの物語になってる」
編集会議で樹はそう説明した。担当編集者の森さんは満足げに頷いた。
「それが小説の醍醐味だよ。自分の経験を普遍的な物語に昇華させること」
冬が再び去り、春が訪れる頃、樹のデビュー作「季節の距離」の出版が決まった。表紙のデザイン、帯の言葉、全てが現実のものとなっていくことに、樹は胸を熱くした。
「私、小説家になったんだ...」
初めて自分の本を手にした時、樹は小さく呟いた。
陸とは時々メッセージをやり取りする程度の関係になっていた。彼もまた、自分の夢を追いかけていた。シリコンバレーで起業し、日本とアメリカを行き来するビジネスを展開し始めていた。
「樹の本、アマゾンで予約したよ。楽しみにしてる」
そんなメッセージが届いた時、樹は懐かしさと共に微笑んだ。二人は離れていても、どこかで繋がっていた。
夏の暑さが東京を包む中、樹は次の小説の構想を練り始めていた。最初の本が好評で、読者からの手紙も届き始めていた。
「あなたの物語に救われました」 「私も似たような経験をしました」 「続きが読みたいです」
そんな言葉の一つ一つが、樹の創作への原動力となっていった。
彼女は変わった。内向的な大学生から、自分の言葉で世界と繋がる小説家へ。その成長の過程には、陸との出会いと別れも含まれていた。全ての経験が、今の樹を形作っていた。
第七章:運命の再会
東京の秋は、どこか物悲しく、同時に美しい季節だ。樹のデビュー作「季節の距離」の出版から1年半が経ち、好評を博していた。今日は丸の内の書店で開かれる出版記念イベントの日。第二作目となる「空の向こう側」の刊行を記念してのサイン会だった。
「いよいよですね、田中さん」
担当編集者の森さんが優しく声をかけてきた。
「はい...まだ慣れないですけど」
書店の一角に設けられたサイン会場には、すでに読者が列を作り始めていた。中年女性から若い学生まで、様々な人が樹の本を手に持って並んでいた。
「皆さん、お待たせしました。本日のサイン会を始めさせていただきます」
司会者のアナウンスと共に、サイン会が始まった。樹は緊張しながらも、一人一人の読者と丁寧に言葉を交わした。
「あなたの小説で、私も自分の道を歩む勇気をもらいました」 「恋愛だけが全てじゃないって、気づかせてくれてありがとう」
そんな言葉に、樹は心から感謝を伝えた。かつての自分の痛みや成長が、誰かの支えになっている。それは小説家冥利に尽きる喜びだった。
時間が過ぎ、サイン会も終盤に差し掛かった。後ろの方から「すみません、まだ間に合いますか?」という声がした。その声に、樹は思わず顔を上げた。
そこには、佐々木陸が立っていた。
「陸くん...」
思わず口から出た言葉。陸は少し照れくさそうに微笑んだ。髪型が変わり、肩幅が広くなっていた。大人の男性の雰囲気を纏っていた。
「やあ、久しぶり。サインもらえるかな」
彼は樹の新刊を差し出した。表紙には「空の向こう側」と金色の文字で書かれている。
「もちろん...誰宛にすれば?」
緊張した様子で樹が尋ねると、陸は優しく笑った。
「『親愛なる友人へ』で」
樹はペンを走らせた。「親愛なる友人へ。再会を喜びます。田中樹」
サイン会が終わり、片付けを手伝いながら、樹は陸が待っていることを知った。
「少し話せるかな?近くに良いカフェがあるんだけど」
陸の誘いに、樹は頷いた。
シックな内装の落ち着いたカフェで、二人は向かい合って座った。窓の外では、秋の夕暮れが街を染めていた。
「小説家になったんだね。すごいよ」
「ありがとう。陸くんも起業したんでしょう?」
「うん。日本とアメリカをつなぐAIソリューションの会社を立ち上げたんだ。今は日本と向こうを行ったり来たりの生活」
会話は自然に流れた。かつての恋人同士ではなく、久しぶりに再会した友人のように。それでいて、二人の間には特別な空気が漂っていた。
「『季節の距離』、読んだよ。自分のことみたいで...ちょっと恥ずかしかったけど」
陸は照れくさそうに言った。
「そうだね...でも、全部が全部、私たちの話じゃないよ」
「わかってる。でも、あの冬の別れのシーン...あれは本当にあった通りだよね」
樹は静かに頷いた。あの雪の夜のことは、鮮明に覚えていた。
「あの時の選択は、正しかったと思う」
「うん、私もそう思う」
二人は静かに微笑み合った。若さゆえの別れは、今となっては大切な思い出だった。
「で、その後はどうなの?誰か...」
陸が遠慮がちに尋ねた。
「いいえ、特に。仕事と創作で精一杯で。陸くんは?」
「実は...」
陸は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「英理とは、少しの間付き合っていたんだ。でも、うまくいかなかった」
「そう...」
「彼女は素晴らしい人だけど、二人とも仕事が一番で...それに、どこか君との関係とは違ったんだ」
樹は複雑な気持ちになった。かつての嫉妬の対象だった英理との関係が終わったことに、どう反応すべきか。
「それで、日本に戻ってくることにしたんだ。会社の日本支社を本格的に立ち上げるために」
「そう、それは...良かったね」
夕暮れの光が差し込む窓際で、二人の会話は続いた。懐かしい思い出、それぞれの成長、そして未来への希望。時間が経つのも忘れるほど、言葉は尽きなかった。
「そろそろ閉店時間みたいだね」
店員が丁寧に声をかけてきた。二人は驚いて時計を見た。3時間も話していたのだ。
「樹...」
店を出た後、陸は真剣な表情で樹の名前を呼んだ。
「私たちは、それぞれの道を歩んできた。でも、また出会えた」
「うん...」
「これは偶然じゃないと思う。君の本を読んだ時、どうしても会いたくなった」
秋の風が二人の間を吹き抜けた。樹の長い髪が風になびく。
「私も...時々、陸くんのことを考えていた」
正直な気持ちを口にした。かつての恋愛感情とは違う、より深い何かが芽生えていた。
「今度、ちゃんとデートしてもいい?」
陸の言葉に、樹はゆっくりと頷いた。
「うん、いいよ」
それは新しい始まりだった。若さゆえの情熱的な恋とは違う、お互いを理解し、尊重し合える大人の関係。二人はこれから何度も別れと出会いを繰り返すかもしれない。でも、その度に二人は成長し、互いへの理解を深めていくだろう。
「季節は巡るね」
二人が並んで歩き始めた夕暮れの街で、樹はそっと呟いた。冬の別れ、春の旅立ち、夏の成長、そして秋の再会。人生は季節のように変化し、時に距離を生み出す。しかし、本当に大切な人との絆は、どんな季節も、どんな距離も超えていく。
陸は黙って樹の手を取った。その温もりは、かつてのような甘い高揚感ではなく、穏やかな安心感をもたらした。
二人の前には、まだ見ぬ季節が広がっていた。
(終)
