ショートショート《母の二十分》 ―― 葉桜の午後に手渡された小さな休息 #じんとする
娘が眠った瞬間だけ、世界は少しやさしくなるのだと、春香はこの春はじめて知った。
連休前の日曜、春香は一歳の娘を連れて実家に来ていた。
駅から母の家までの道には、桜の花びらはもうほとんど残っていなくて、枝の先にはやわらかな緑が揺れている。
葉桜の下をベビーカーで通るたび、春は終わりかけなのに、暑さだけが先に来るのが不思議だった。
居間では、娘の紬がやっと昼寝をしたところだった。
寝かしつけに四十分、眠るのはたぶん三十分。
春香はソファに腰を下ろしたまま、スマートフォンの画面を見つめた。
会社のチャットには、復職面談の日程確認が届いている。
東京のオフィスに戻るか、時短にするか、いっそ辞めるか。
考えるたび、どれも間違いのように思えた。
台所から母がグラスを二つ持ってきた。氷の音が涼しい。
「はい。アイスコーヒー」
「ありがとう」
「顔、ひどいよ」
「知ってる」
ひと口飲むと、苦みのあとに少しだけ甘みが残った。昔は飲めなかった味なのに、今はおいしいと思う。そういう変化を、自分はいつのまに受け入れてきたのだろうと春香は思った。
母は向かいに座り、紬の寝顔を見てから言った。
「やるなら今だよ」
春香は息を止めた。
やっぱり、そうだよね。
母はずっと、春香が仕事を辞めるのを惜しんでいた。せっかく続けてきたのに、と何度も言われた。だから今の言葉も、復職するなら今しかない、という意味だと思った。
「でも、保育園もまだ決まってないし」
「うん」
「在宅でも会議ばっかりだし、紬が熱出したら回らないし」
「そうだねえ」
「やりたい気持ちはあるの。でも、ちゃんとできる自信がない」
言いながら、春香は少し泣きそうになった。仕事も子育ても、どちらも手放したくないと言うほど立派でもなく、どちらかを選ぶ覚悟があるほど強くもない。中途半端な自分だけが、昼下がりの部屋に置き去りになっている気がした。
すると母は、きょとんとした顔で立ち上がり、押し入れから薄いタオルケットを持ってきた。
「だから、昼寝」
「……え?」
「紬、今ならたぶん二十分は寝る。やるなら今だよ」
「え、そっち?」
母は笑って、春香の手からスマートフォンを抜き取った。
「大事なことほど、寝不足で決めるとろくなことにならないの。あんた、小さいころ熱出すたびに私の胸で寝てたでしょう。あのとき私だって、家計も仕事も将来も、山ほど心配してたよ」
「でも、お母さんはちゃんとしてた」
「してないよ。昼寝して、ごまかしてただけ」
思わず、春香は笑ってしまった。
笑った拍子に、涙も一緒に落ちた。
母はアイスコーヒーをテーブルに置き直して、声をひそめた。
「子どもが寝たら、家事をやれ、勉強しろ、連絡を返せって、みんな言うけどね。あれ、半分は嘘。母親にいちばん必要なのは、その隙に少し寝ること」
「でも、せっかく実家に来たのに」
「だから寝なさい。ここは、あんたが娘に戻れる家なんだから」
葉桜の影が、レースのカーテンにゆっくり揺れていた。
紬の寝息が聞こえる。
冷房にはまだ早い午後で、窓から入る風だけがやさしかった。
春香はタオルケットを膝に受け取り、そのままソファに横になった。
不思議なくらい、目を閉じるのに理由はいらなかった。
二十分後、春香が目を覚ますと、頭の中のざらつきが少し減っていた。決断ができたわけではない。ただ、今すぐ答えを出さなくていいのかもしれない、と思えた。
母は台所で洗い物をしながら、振り向きもせずに言った。
「面談の返事は、明日でいいでしょう」
「うん」
「今日は紬がもう一回寝たら、そのときまた考えればいい」
「うん」
春香は起き上がって、氷の少し溶けたアイスコーヒーを飲んだ。さっきよりも、苦みが丸くなっていた。
窓の外では、葉桜の下を若い母親がベビーカーを押して通っていく。
春香はその背中を見ながら、ようやく気づいた。
母が急かしていたのは人生の決断ではなく、娘でいられるうちに眠ってしまうことだったのだと。
こちらに参加させていただきました。お題ありがとうございます。
✏️ 作者より
💬 感想をコメントで教えてもらえると、次の作品の励みになります
❤️ 「スキ」を押すと、あなたの好みに合った作品がおすすめに出やすくなります
✨️気に入ったら是非フォローお願いします!
📖 他のショートショートはこちら →
https://note.com/shortshort_lab/m/md7626d1798a4
https://note.com/shortshort_lab/m/mad74478680dd
