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【短編小説】僕とメガネ

 二〇ⅩⅩ年度流行ペット大賞一位が「メガネ」になったことを、過去の人類に伝えたらきっと驚くだろう。 
 僕が生きるこの時代、あの視力を矯正するための装備品としてのメガネを可愛がり、家族として扱うことはもはや常識となっている。

 そんな僕も、今年の健康診断でとうとう大幅に視力が下がってしまい、メガネをお迎えしなければならなくなった。

『僕とメガネ』


 ある休日、僕は車で(僕は視力が心配なので、元気な父に運転してもらい)、一時間ほどのところにあるメガネショップに行った。
 
 レンズが丸く、かわらしいメガネ。
 フレームがメタリックでスタイリッシュなメガネ。
 縁が太く、重量感のあるメガネ。

 どのメガネも素敵だったが、家族として迎えるとなると、中途半端な気持ちで選ぶことができず、結局その日、僕はメガネをお迎えしなかった。
 そのあと、何度ショップに訪れて、生まれたばかりのメガネを見せてもらっても、僕はなかなかお迎えする決心がつかなかった。

   ◇

 ショップに行っては帰るを繰り返し(ちなみに、「ショップ」という表現は使わず「ブリーダー」と言うべきだとする意見もある)、父にもなかば呆れられてしまったある日、僕はとうとう「お眼鏡にかなった」メガネに出会った。

 その日は五度目の来店だった。
 今まで見たことのないメガネが、ショップの隅に置かれていた。
 生まれたばかりのメガネたちに比べて、艶やかではないし、レンズも少しくすんでいる。だけど、一見、黒色に見えて、でもよく見ると実は深い青色のフレームを持つ〈彼〉が、僕はとても気に入った。

 店員さんに彼についての話を訊くと、彼は生まれたばかりのメガネではなく、僕が暮らす街を走る鉄道の窓際に、一人残されていたのを、店長さんが縁あって保護したメガネだそうだ。おそらく、もとの持ち主は昼寝でもした際に、窓際にメガネを置いて、そのまま降りてしまったのかもしれない。

 そのメガネは、今でもショップの窓際で、主人が迎えに来ることを待っているように見えた。

 僕は彼を気に入った。でも、彼が僕を気に入るかは分からない。
 もしかしたら、ずっとここで、主人を待ち続ける日々の方が、見ず知らずの男のもとで暮らすよりかは、幸せかもしれない。
 せっかくメガネを迎える覚悟ができそうだったのに、彼の幸せを考えた末、僕はまたショップを後にした。父が裸眼で誇らしげに新聞を読みながら待ってくれている車に戻ろうと、駐車場へと歩く間、僕は自分にこう言い聞かせた。

『彼のあの素敵な深い青を脳に刻み込み、同じ色の、また別のメガネを探せばいいじゃないか』

(……いや、待てよ)
 もし別のメガネを見つけたとしても、今日出会ったあの青色が、僕の脳にしっかりと記憶されてしまえば、僕はその色を二度と忘れないことになる。そのせいで、別のメガネとあの理想の青色を比べるなんていう、最低なことをしてしまうかもしれない。

 ——それなら。

「はじめまして」
 少し曇ったレンズに、一瞬光が反射した。
「僕は君の持ち主を探します。だから見つかるまでは、僕の世界を手伝ってくれませんか」
 
(一緒にいられる時間がたとえ短くても、君と一緒に過ごしたかった)

 僕はそっと、彼を耳にかける。
 驚くことに、出会ったばかりの彼と僕のピントがぴったり合っていた。
 当たり前だろう、メガネとはそういうものだ、と言われそうだが、ペットメガネはただの道具ではない。懐いてくれるのだ。

 一般的に、お迎えしたばかりのメガネはピントが合わない。持ち主との関係が良好になっていくうちに、どんどんピントが合っていくのだ。それを過去の人類は不便だと感じるかもしれないが、むしろ、持ち主の視力が良くなったり悪くなったりしても、それに合わせてしっかりピントを合わせてくれるため、彼らの方がとてもお利口さんじゃないだろうか。

 つまり、僕の気持ちに、彼はピントで応えてくれたということだ。
 その日から僕と彼との生活が始まった。

   ◇

 無事に運転が認められるまでに視力が矯正された僕は、彼とともに、通勤はもちろん、休日には車でいろんなところに行った。彼の持ち主を探すためだ。

 といっても、僕と彼は純粋に旅を楽しんでいたと思う。
 公園、市場、図書館、美術館、そして海。特に彼は海がお気に入りのようだった。

 夕暮れがすぐそこまで来ている海。空は青と赤が優しく混じり合い、美しいピンク色に染まっている。海は空より先に眠りについたような、柔らかい灰色で、空の寝息のような波の音に、僕は癒される。

 僕は、海がこんなに美しいということを、大人になったせいか、いつの間にか忘れてしまっていた。
 彼のレンズを通して見た海は、本当に、泣いてしまうほど美しかった。
 こんな景色を見させてくれた彼に、「ありがとう」とつぶやくと、彼は照れているのか、ほんの一瞬だけピントを狂わせてきた。
 
 残念ながら彼とお喋りすることは難しいので、僕は街中、さまざまなところに出かけた。
 しかし、どこに行っても彼の反応は変わらない。すれ違う人々も、僕のメガネについて何も言わない。持ち主を見つけられない日々が続いた。

 その日々が長く続くほど、僕は名前も顔も知らない持ち主に、少しだけ怒りが湧いた。
 なぜ、彼を置いて行ってしまったのか。なぜ、迎えに来ないのか。
 
 そんな薄情な持ち主より、僕の方がきっと彼を大事にできる。毎日レンズもフレームもピカピカに磨くし、彼への感謝も忘れずに伝える。そして、今日も夕暮れの海を一緒に歩く。

 だけど、歩きながら、こうも思った。

 彼のことを、その持ち主が今まで大事にしてきたからこそ、彼は、僕にとってただの景色でしかなかった海を、心を揺さぶるほど美しく映してくれるのかもしれないと。もし彼の心がすさんでしまっていたら、僕の両目を手伝ってくれるこのレンズも、きっとくすんでしまうだろうから。

 僕にできることは、持ち主を非難することではなく、少しでも、彼と一緒にいろんなところに行くことだった。

  ◇

 僕は休日だけでなく平日も、街中を探し回ることにした。鉄道で取り残されていたなら、路線の始まりから終着点まで乗ってみよう。仕事の帰りも真っ直ぐ家には帰らず、駅前を何周か歩き、今まで行ったことがなかった空港やバスターミナルへも行こう。
 家に帰るのは深夜になった。

 こんな一日を一か月も続けていると、レンズの奥にはじんわりとクマができていた。
 結局その数日後、僕は自宅で倒れてしまい、一週間動けなくなってしまった。

 持ち主も探せず、仕事場にも迷惑をかけて、何も成し遂げられていない自分がとても嫌だった。目を瞑っている間だけは、そんな現実を見なくてすむと、僕はずっと眠り続けた。

 ようやく体の重さがましになり、動けるようになったその朝——僕はまた、どこにも行けなくなってしまった。

 彼が、いなかった。

 机の上、下、窓際、布団の中、どこを探しても、彼を見つけられなかった。
 彼がいなければ、僕の世界は水中で目を開けた時のように、不明瞭で辛いものだった。
 
(ああ、彼は、僕のことが嫌になったのか)

 彼のもとの持ち主を心の中で非難する僕を。
 この一週間、どこにも連れて行ってあげられなかった僕を。

 そういえば、最後に「ありがとう」と彼に言ったのはいつだろう。
 そんなことも思い出せない僕を嫌うのは、当然のことだ。ごめんよ。

 だけど、嫌われるとピントが合わなくなるとは聞いていたけど、まさか、家出をするなんて。
 とりあえず、混乱した頭を、どうにかしてすっきりさせたい。
 そうだ、顔を洗って着替えて、あのメガネショップに行こう。彼と出会ったあの店なら、何か知っているかもしれない。
 
 でも、父がいないと僕は運転ができない。
 どうしよう。僕は、彼がいないと本当に何もできない。

 起きた時は軽くなったと思ったのに、もう重くなった足取りで、僕はとりあえず洗面所に向かい、鏡を見ると——。

 突然、目の前に、彼が現れた。

 視界がぼやけていても分かった。僕の大好きな深い青。彼に違いない。

 彼は、そう、僕の「頭の上」に現れたのだ。

 僕はこの一週間、いや、どのタイミングでそうなったのかは分からないけど、僕はどうしようもない睡魔に襲われた際に、彼を頭の上に避難させたまま、深く眠ってしまったらしい。

 良かった。君がいて良かった。君を寝返りで、踏みつぶさなくて良かった。

「ありがとう」
 僕は何度もそう言って彼を撫で、最初に出会った時のように慎重に、彼を耳にかけた。
 鏡に映る僕は、子どもみたいに笑っていた。

「ごめんなさい。僕はもう絶対に、君のことを忘れないからね」
 鏡に映る僕が一瞬ぼやけて、僕はまた、にやけてしまう。

  ◇
 
 結局、今もまだ持ち主が見つからないので、僕と彼の旅はマイペースに続いている。
 
 だけど一つだけ、変化したことがある。
 
 僕はあの時の寂しさ、不安感が忘れられず、今では彼にメガネチェーンをつけてもらっている。
 
 どんなペットも飼い主とずっと一緒にいることが、一番の願いだと、僕は思う。
 もちろん、逆もしかり。

(おわり)

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門  

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