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【第3話】ヒロキ25歳、営業職 「上司のパワハラで精神的にきつい」

25歳のヒロキは、ネクタイを緩めながら薄暗い駅のホームに立っていた。電車が滑り込んできたとき、窓に映る自分の顔が、まるで別人のようにやつれていることに気づく。

精密機械を販売する営業担当。天職だと思って飛び込んだ営業職、実際は古参の上司、石川部長の絶対的な支配下にある泥沼だった。

「てめぇの代わりなんていくらでもいるんだよ!」

昼間の怒声が耳の奥で疼く。精一杯の努力も、部長の「気分」一つでゴミ箱に捨てられる毎日。同僚たちは保身のために見て見ぬふり。ヒロキは、自分が砂のように削り取られていく感覚に怯えていた。

「こんなはずじゃなかった……」

逃げ場を失い、あてもなく夜の街を彷徨う。煌々と輝くネオンが今の自分には眩しすぎた。吸い込まれるように入り込んだ路地裏の奥、闇を押し返すようにぼんやりと光る場所があった。煤けた赤い提灯に「やきとり」の文字。

吸い寄せられるように店の前に行くと、店主の寅吉が炭火の前で静かに串を整えていた。

「……いらっしゃい」

寅吉はヒロキの顔を一瞥したが、何も問わなかった。ヒロキはあの頃と同じ丸椅子に腰を下ろし、目の前の焼き台からパチパチと炭が焼ける音が聞こえてくる。煙が湧き上がると共に、張り詰めていた何かが少しだけ緩む。

「……ねぎまと、レバーを。あと、ビールください」

掠れた声で注文すると、寅吉は無言で頷き、串を網に乗せた。ジュウッという脂の焼ける音が、オフィスでの乾いた怒声とは対照的な、圧倒的な「生の音」として響いた。

「……大将。覚えてますか、僕のこと」

ヒロキが力なく笑って尋ねると、寅吉は火の粉を散らしながら、短く鼻を鳴らした。

「忘れるわけねぇだろ。あの時、学生で青い顔してたガキが、今じゃ立派な背広着てやがる。だが、今のツラはあの頃よりもっとひどいぜ。世間に揉まれて、中身まで焦げちまったか?」

寅吉の声は、岩のようにどっしりとしていた。その言葉は厳しいようでいて、どこか実家に戻った時のような安心感があった。何一つ変わらない屋台の匂いと、この頑固な店主の存在が、今のヒロキには何よりの救いだった。

ヒロキは、差し出されたビールをゆっくりと口に運んだ。冷たい液体が胃に落ちるのと同時に、ずっと堪えてきた言葉が溢れ出した。

「大将……僕、もう限界かもしれません。毎日、上司にゴミみたいに扱われて。僕が何をしても、どんなに準備しても、気に入らなきゃ怒鳴り散らされるんです。最近じゃ、会社の前まで行くと足が震えて動かなくなるんですよ」

寅吉は、焼き上がったねぎまを皿に置き、手を止めずに言った。

「そうか。そりゃあ、足も震えるわな。あんたの体が、もうそこは居場所じゃねぇって教えてくれてるんだ」

「でも、辞めたら負けだって思うんです。石川部長にも言われました。『ここで逃げ出す奴はどこへ行っても通用しない』って。俺の時代はもっと厳しかった、それに比べればお前は甘すぎるって……」

ヒロキは震える手で串を握った。寅吉は鼻で笑うように息を吐き、ヒロキを真っ直ぐに見据えた。

「その部長だか何だか知らねぇが、そいつの物差しで自分の価値を測るんじゃねぇよ。いいか、昔がどうだとか、根性がどうだとか、そんなもんは全部そいつの都合だ。あんたの命より大事な仕事なんて、この世に一つもねぇんだぜ」

「命より大事な仕事はない……。でも、親にも期待されてるし、同期にも置いていかれたくないんです。今更逃げ出すなんて、あまりに無責任だって自分を責めてしまって」

「無責任? 笑わせるな」

寅吉は身を乗り出すように言った。

「一番の無責任はな、自分自身を壊しちまうことだ。あんたが壊れて動けなくなった時、その部長はあんたの人生の責任を取ってくれるのか? 代わりの人間を連れてくるだけだろ。自分を最後まで守れるのは、自分しかいねぇんだよ」

寅吉は、節くれだった大きな手を広げて見せた。

「俺の手を見てみろ。火傷だらけで炭で黒ずんでる。だけど、これは俺が『自分の足』で立って生きてきた証拠だ。誰かに言われたからじゃねぇ、俺が自分で選んで、ここで焼いてるんだ。あんたも、誰かのための自分じゃなくて、自分のための自分を取り戻しな。逃げるってのはな、負けじゃねぇ。自分を戦場から救い出す『救出作戦』なんだよ」

救出作戦。その言葉が、ヒロキの硬く閉ざされた心の扉を叩いた。逃げることは卑怯なことではなく、自分を守るための勇敢な決断なのだと、寅吉の言葉が肯定してくれた。

「大将……。僕、救出作戦、始めてもいいんですかね」

「当たり前だ。まずは今日、ぐっすり寝な。明日の朝、体が『行きたくない』って言ったら、その声に従ってやれ。人生なんてのはな、一度止まったって、またどっかから始められるもんだ」

寅吉は優しく目を細め、最後の一本をサービスで皿に置いた。

「ありがとうございました。……この焼き鳥、本当に味がします。最近、何を食べても砂を噛んでるみたいだったのに」

「それはあんたの心が、やっと息をし始めた証拠だ。いいか、この世にゃな、逃げちゃいけない時もある。だがな、『死んじゃいけない時』ってのは、いつだって今なんだ。 逃げる勇気を持て。あんたを本当に必要としてくれる場所は、その部長の机の上なんかじゃなく、もっと広い空の下に必ずある。俺がこの火を絶やさずに待ってるからよ、安心して行ってこい、また腹が減ったら来な。いつでも焼いてやるよ。」

寅吉はそう言うと、空になったビールグラスを下げ、また静かに炭を突き始めた。その無骨な横顔には、世の中の不条理をすべて飲み込んできたような、深い慈愛が滲んでいた。

屋台を出ると、夜風は相変わらず冷たかったが、ヒロキの背筋は少しだけ伸びていた。

翌朝、ヒロキは会社ではなく、メンタルクリニックの予約を入れるために電話を手にした。それは、自分という大切な存在を取り戻すための、最初の一歩だった。




【おまけ】~寅吉から、今を戦う若い衆へ~

「おい、そこの背広を着た若いあんた。

毎日、ギリギリのところで踏ん張ってるんだな。よくやってるよ。 だけどな、これだけは覚えといてくれ。『石の上にも三年』なんて言葉があるが、その石が真っ赤に焼けた鉄板だったら、三秒で飛び退いていいんだ。

真面目な奴ほど、自分が壊れるまで耐えちまう。 『周りに迷惑がかかる』『今辞めたら次がない』……そんな不安を、汚ねぇ上司や会社は利用しやがるんだ。

だがな、あんたが倒れた後に会社に残るのは、空いたデスクと新しい求人票だけだ。 あんたの人生の続きを、会社は一枚も書いてくれやしねぇ。

いいか。逃げるのは『負け』じゃねぇ。 それは、あんたという、この世にたった一つの貴重な宝物を、泥棒(パワハラ)から守るための**『正当防衛』**だ。

もし、心がポッキリ折れそうになったら、一度立ち止まって深呼吸しな。 世の中、会社なんて星の数ほどあるし、食っていく道なんてのは、案外どこにでも転がってるもんだ。

あんたの命、あんたの笑顔、あんたの健康。 それ以上の『キャリア』なんて、この世にゃ存在しねぇんだよ。

腹が減ったら、いつでも来な。 熱々の焼き鳥と、冷えたビール……それと、あんたを否定しねぇ場所だけは、俺がここで守っててやるからよ。

自分を、一番に可愛がってやれよ」

「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」


次回【第4話】カオリ29歳、アパレル勤務 「貯金が全くできず、将来が不安です」


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昭和の寅吉 おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!