『神崎真紀 乗務日誌』ep.06「盆の仕事」帰れない人も、離れる人もいる。
八月十三日。
朝九時を過ぎたばかりなのに、墓地の石畳はもう熱を持っていた。
「神崎、先に写真」
「はい」
真紀は手にしていたほうきを置き、会社のデジタルカメラを構えた。
墓石全体が入る位置まで下がる。
一枚。
少し横へ動いて、もう一枚。
液晶画面で確認する。
「撮れた?」
「大丈夫です」
「じゃあ始めようか」
田所がバケツを持ち上げた。
平和交通には、〈お墓参りサポート便〉というサービスがある。
高齢や病気、遠方に住んでいるなどの理由で、墓参りへ行くことが難しい客に代わって、墓を掃除し、花と線香を供え、手を合わせる。
作業の前と後には写真を撮り、終了後に会社から依頼者へ報告する。
一年を通して依頼があるわけではない。
増えるのは春と秋の彼岸、盆、正月。
担当するのは、ほとんどが本社営業所長の田所と真紀だった。
田所は五十五歳。
所長になって六年になるが、こういう仕事には今も自分で出てくる。
「神崎、水こっち」
「はい」
墓地の端にある水場から、田所がバケツを運んでくる。
真紀は古くなった花を抜いた。
花立ての水を捨て、中を洗う。
墓石についた埃を水で流し、布で拭く。
周囲に落ちた枯れ葉を集める。
墓石と墓石の間には、細い草が何本か伸びていた。
真紀は軍手の指で根元をつかんだ。
引っ張る。
抜けない。
もう一度。
根についた土ごと、ようやく抜けた。
「暑っ……」
「まだ九時だぞ」
「知ってます」
首に巻いたタオルで汗を拭く。
田所は墓石の裏へ回った。
「こっちも草あるぞ」
「所長が抜いてください」
「俺は今、墓石やってる」
「私も今、草抜いてます」
「口動かさんで手動かせ」
「動かしてます」
蝉の声が降ってくる。
寺町の墓地には、朝から何組もの家族が来ていた。
花を抱えた夫婦。
水桶を持つ老人。
祖父母の後ろを歩く子ども。
駐車場には県外ナンバーの車も何台か停まっている。
田所が墓石へ水をかけた。
真紀は集めた草と枯れ葉をゴミ袋へ入れた。
「神崎」
「はい」
「花」
「今やります」
新しい花を花立てへ入れる。
水を替える。
線香に火をつけると、細い煙が真っすぐ上へ昇った。
風はほとんどない。
田所が墓石の前に立った。
真紀も隣に並ぶ。
二人で手を合わせる。
長くはない。
田所が先に手を下ろした。
「じゃ、終わった写真」
「はい」
真紀はもう一度カメラを構えた。
墓石。
花。
線香。
掃き終えた足もと。
角度を変えて数枚撮る。
一枚ずつ液晶画面で確認した。
田所が横から覗く。
「ちゃんと撮れとる?」
「撮れてます」
「ぼけてない?」
「大丈夫です」
「一応確認しとけよ」
「今してます」
「ならいい」
真紀は最後の一枚を拡大した。
問題ない。
カメラの電源を切る。
ゴミ袋の口を結び、道具をまとめた。
田所が腕時計を見る。
「四十二分か」
「まあまあですね」
「次、十一時半」
真紀が顔を上げた。
「聞いてませんけど」
「今言った」
「所長」
「毎年頼んでくる人。県外の人だよ」
「ああ」
真紀にも覚えがあった。
盆と正月になると、決まって平和交通へ依頼を入れる客だった。
墓はこの町にある。
本人は遠くに住んでいて、なかなか帰ってくることができない。
それ以上のことは知らない。
聞く必要もなかった。
「十一時半なら、その前に何か食べません?」
「まだ十時前だぞ」
「朝早かったんで」
「コンビニなら寄る」
「それでいいです」
二人は道具を持って、平和交通の白い軽自動車へ戻った。
〈お墓参りサポート便〉の基本料金は一万円。
花や線香などの経費として二千円を引き、八千円が担当乗務員の運収として計上される。
歩合は通常の営業と同じだった。
一時間足らずで八千円。
数字だけを見れば悪くない。
もっとも、真夏の墓地での八千円は、それほど涼しい八千円でもなかった。
*
二件目を終えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
車へ戻ると、真紀はエアコンの吹き出し口を自分へ向けた。
田所がエンジンをかける。
「生き返る」
「二件で一万六千、ついたな」
「そうですね」
真紀はペットボトルの水を飲んだ。
朝から少し汗はかいた。
それでも、昼までに一万六千円の運収が立った。
今日はラッキーだった。
そう思った。
*
営業所へ戻り、真紀は五一七号車の後部ドアを開けた。
足が止まる。
黒いフロアマットの溝に、細かい砂が残っていた。
「……またか」
しゃがんでマットを外す。
持ち上げると、砂がぱらぱらと地面へ落ちた。
車体は洗ってある。
窓も拭いてある。
外から見ればきれいだった。
なのに車内へ入ると、いつもどこかが雑だった。
マットの端。
シートの下。
ドアポケット。
「外は洗ってるのに、なんで中がこれなのよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
五一七号車は、真紀一人の車ではない。
隔日勤務では、一台の営業車を二人の乗務員で使う。
真紀が出番なら、もう一人は休み。
次の日には、その乗務員が同じ車に乗る。
会社では相手番、あるいは反対番と呼んでいた。
真紀の反対番は、棚木良子だった。
真紀より少し年下。
入社も後で、乗務員としても後輩になる。
ただ、二人を並べて棚木の方が年下だと言って、素直に信じる人はほとんどいなかった。
棚木は化粧をほとんどしない。
髪には白いものが目立ち、染めている様子もなかった。
実際の年齢より、十歳くらい上に見える。
本人は、それを気にしている様子もない。
月に一度の全体会議でもなければ、反対番同士が顔を合わせることはほとんどない。
だから真紀が棚木について知っていることも、それほど多くなかった。
隔勤でよく走る。
売上も悪くない。
昼食は、だいたい持参したカップ麺。
それくらいだった。
何か訳があるらしい。
そんな話を営業所で耳にしたことはあった。
真紀は聞かなかった。
本人が話さないことを、わざわざ聞く必要もない。
それより今は、マットの砂だった。
「ほんと、あの子雑なんだから」
真紀はマットを二度叩いた。
残っていた砂が落ちた。
ため息と一緒に、マットを車内へ戻した。
*
午後から通常の営業に戻った。
病院。
駅。
スーパー。
住宅街。
盆の町には、普段より県外ナンバーが多かった。
墓参り帰りらしい家族も乗せた。
夕方になると、駅前には大きなキャリーバッグを引く人が増えた。
それでも、夜になれば売上が一気に伸びるとは真紀も思っていなかった。
昔は違った。
盆に故郷へ帰ってきた同級生や友人が集まり、夜遅くまで飲む。
四人で一台のタクシーに乗り、一人ずつ家まで送る。
最初の一人を降ろし、次の町へ。
さらに次の家へ。
最後の一人を降ろす頃には、まとまった運賃になった。
そういう仕事が盆の夜にはよくあったと、古い乗務員たちは言う。
最近は、かなり減った。
コロナ禍を境に、集まり方そのものが変わった。
帰省しても、近場で食事をして終わる。
駅までタクシーに乗り、そこから電車で帰る。
そもそも夜遅くまで飲まない。
人が帰ってきているからといって、タクシーが動くとは限らなくなった。
午後八時。
真紀が営業所へトイレ休憩に戻ると、休憩室に米倉がいた。
缶コーヒーを飲みながらテレビを見ている。
「暇そうですね」
「お前も戻ってきとるやん」
「トイレです」
「俺も休憩」
「テレビ見てますけど」
「休憩やけん」
真紀は冷蔵庫から自分の麦茶を出した。
米倉が時計を見る。
「昔なら盆のこの時間は、戻ってくる暇なかったけどな」
「聞きました、それ」
「何回聞いた?」
「毎年」
「じゃあ今年も聞け」
真紀は笑った。
「四人くらいまとめて乗せて、一軒ずつ送ったんでしょう」
「そうそう。あれがよかったとよ」
「もう暗記しました」
「最近は、ほんと減ったな」
「ですね」
そのとき、隣の配車室からマイクを通した森下の声が聞こえた。
『五一七号車、応答願います』
米倉が真紀を見る。
「ほら、仕事ですよ」
真紀は麦茶を持ったまま、配車室の方へ大声で返した。
「ハーイ! 五一七号、本社どーぞー!」
一瞬置いて、配車室から森下の笑い声が聞こえた。
今度はマイクを通さない肉声だった。
「駅東口! 男性で、お名前はゴトウ様!」
「了解しましたー!」
真紀は麦茶の蓋を閉めた。
米倉が手を振る。
「稼いでこい」
「今日はもう墓二本ついてますから」
「なんや、余裕やな」
「ラッキーでした」
真紀は笑って休憩室を出た。
*
数日後。
八月の全体会議が終わった。
事故報告。
接客。
駅待機のルール。
配車アプリ利用時の注意。
いつもとそれほど変わらない内容だった。
会議室を出ると、壁には今月の乗車実績表が貼られている。
乗務員の名前。
日数。
回数。
運収。
数字が縦に並んでいた。
真紀は自分の欄だけ確認した。
悪くない。
その下に棚木の名前がある。
こちらも悪くなかった。
ちゃんと稼いでいる。
真紀がロッカーへ向かおうとすると、後ろから声をかけられた。
「真紀さん」
振り返る。
棚木だった。
「なに?」
「あの、ちょっといいですか」
「いいけど」
棚木は少し笑った。
いつもと同じ、化粧気のない顔だった。
「私、今月いっぱいで辞めることになりました」
真紀は棚木の顔を見た。
「え?」
「辞めます」
「なんで、そんな急に?」
「いやあ……実は、お金が足りなくて」
「お金?」
「はい」
真紀は思わず、さっき見た乗車実績表へ目をやった。
「でも棚木さん、結構稼いでるでしょう」
棚木が苦笑した。
「いやいや。真紀先輩の足元にも及びませんよ」
「私の話じゃなくて。普通に稼いでるでしょうって」
「稼いではいるんですけどね」
棚木は少し間を置いた。
「残らないんですよ」
「残らない?」
「うち、親がもう二人ともいないんです」
「うん」
「兄が一人と、弟が二人いて」
真紀は黙って聞いた。
「一番下の弟は、去年家を出ました。今は兄と、もう一人の弟と私の三人暮らしです」
「そうなんだ」
「兄が農業やってるんですよ。ナス作ってて」
「へえ」
「その仕事で借金があって」
棚木は自分の指先を見た。
「私の給料、そっちにかなり入れてたんです」
「お兄さんの借金に?」
「はい。それと弟の生活費」
「弟さんは?」
「二年前から働いてません」
真紀は何も言わなかった。
棚木は困ったように笑った。
「何回言っても働かないんですよ」
「そう」
「兄にも、もうちょっとやり方考えたらって言ってたんですけどね。こっちがいくら言っても、結局変わらなくて」
棚木はそこで一度息を吐いた。
「それで最近、また借金が出てきて」
「また?」
「弟のです」
「働いてない弟さん?」
「はい」
「借金って、出てくるものなの?」
「私もそう思いました」
棚木が笑った。
真紀も少しだけ笑った。
「隠してたみたいで」
「そう」
「兄の分だけでも結構あったのに、弟のまで出てきて」
棚木は壁の乗車実績表を見た。
「いくら稼いでも、足りないんですよ」
真紀も同じ表を見た。
そこに並んでいるのは、乗務員がいくら売ったかという数字だけだった。
その金が、そのあとどこへ行くのかまでは書いていない。
棚木が続けた。
「それで、もう無理だなって」
声は変わらなかった。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
「物理的に離れないと、たぶん共倒れになると思って」
「家、出るの?」
「はい」
「どこ行くの?」
「熊本です」
「熊本?」
「半導体の工場。来月から決まりました」
「もう決まってるんだ」
「寮があるんですよ。給料もいいし」
棚木は少し笑った。
「とにかく、家を出たくて」
「……」
「一番下の弟も、それで去年出たんだと思います。たぶん、あの子の方が早く気づいたんでしょうね」
真紀は、ほんの一瞬だけ黙った。
棚木が何かを待っている様子はなかった。
真紀にも、言えることはなかった。
「そうか……」
棚木は小さく頷いた。
「はい」
それだけだった。
*
家へ帰ると、陽菜が冷蔵庫を開けていた。
「ただいま」
「おかえり」
「何してるの」
「スイカ見てる」
「見てどうするの」
「食べようかなと思って」
冷蔵庫には、半分に切った西瓜がラップに包まれていた。
「じゃあ食べれば」
「切って」
「自分で切って」
「大きい」
「包丁使えば切れます」
「危ないじゃん」
「そういうときだけ子どもになるね」
陽菜は冷蔵庫の前から動かない。
「お母さんも食べる?」
「食べる」
「じゃあ切って」
真紀はしばらく陽菜を見た。
「最初からそれが目的でしょう」
「違うよ」
「絶対そう」
「たまたまお母さんも食べたかっただけです」
「はいはい」
真紀は冷蔵庫から西瓜を取り出した。
*
二人でテーブルに座った。
皿の上には、大きさの違う西瓜が四切れ。
陽菜が一番大きいものへ手を伸ばした。
真紀も同時に手を伸ばす。
二人の指が止まった。
「それ、お母さんの」
「名前書いてないよ」
「切った人の権利です」
「そういうルールないです」
「今できました」
陽菜は一番大きな西瓜を取った。
「早い者勝ち」
「ずるい」
「大人でしょう」
「そういうときだけ大人扱いするね」
陽菜が西瓜をかじった。
真紀も残った方を取る。
甘かった。
「お母さん」
「ん?」
「スイカって、真ん中が一番甘いんだよ」
「知ってる」
「じゃあなんで端から食べるの?」
「普通そうでしょう」
「最初に真ん中食べた方がよくない?」
「最後に取っておくの」
陽菜が真紀を見る。
「子どもみたい」
「あなたに言われたくありません」
陽菜が笑った。
真紀も西瓜をひと口かじる。
陽菜は皿の端に種を一つ置いた。
二つ。
三つ。
「何してるの?」
「数えてる」
「暇なの?」
「夏休みだから」
「便利な理由だね」
「お母さんの何個?」
「数えてません」
「じゃあ負け」
「何の勝負?」
「種が多い方」
「多い方が負けじゃない?」
陽菜が少し考えた。
「じゃあ、お母さん負け」
「だから数えてないって」
「私が決めました」
真紀は笑った。
「勝手だね」
「いいじゃん、別に」
「よくありません」
「厳しいなあ」
「よく言われます」
陽菜はまた笑った。
真紀も笑った。
二人の前の皿に、西瓜の種が少しずつ増えていった。

