ヘッセの「デミアン」を再読 聖なるものは汚れとともに現れる
昨日はJ-WAVEのラジオ番組「Bibliotheca」の収録でした。この番組では、毎回一冊の本を取り上げて、キーワードを軸にその本の紹介をしています。すでに番組が始まった5年目に入りましたが、実は小説を紹介したのはエンデの「モモ」とカズオ・イシグロの「クララとお日様」だけで、リスナーの方から「もう少し小説を取り上げてほしい」ということで、今回はヘッセの「デミアン」について話しました。
今回、放送を収録するにあたって再読したのですが、こちらの光文社古典新訳文庫の訳がとても瑞々しく、一気に読み切ってしまいました。おすすめです。
あらためて、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」は、一見すると少年の成長を描いた青春小説です。しかし読み進めていくと、そこに描かれている「成長」は、私たちが一般に考えるような、明るく健全で、社会に適応していくプロセスとはかなり違うものであることに気づきます。
ヘッセが「デミアン」が描く成長とは、むしろ、自分を守ってきた明るい世界を失い、罪や欲望や孤独や恐れを含んだ暗い世界へと足を踏み入れ、それでもなお自分自身になっていくプロセスです。ヘッセには「わがままと言う美徳」というエッセーがありますが、このあたり、ヘッセが考える人間としての成熟が、世間的なそれとは大きく乖離しているのですね。
主人公のエーミール・シンクレールは、最初、世界を二つに分けて見ています。一方には、家庭、信仰、清潔さ、秩序、善の世界がある。もう一方には、路地裏、秘密、暴力、欲望、悪の世界がある。少年にとって、この二つの世界ははっきりと分かれています。自分は明るい世界に属しているはずだ。しかし、ある出来事をきっかけに、シンクレールは自分の中にも暗いものがあることに気づいてしまう。
そこに現れるのが、謎めいた少年デミアンです。以前の新潮文庫の版ではそういうことはなかったのですが、新訳で読んでいると、なぜか小説のシーンがジブリ映画のトーンで浮かんできて、僕の中ではデミアンはハウルなんですよね。

デミアンは、シンクレールに道徳を教える教師ではありません。むしろ、彼がそれまで信じてきた道徳や規範の枠組みを壊していく・・・あるいは少なくともそれに懐疑を抱かせる存在です。善と悪、光と闇、神聖なものと邪悪なもの。そうした二分法は、本当に世界を正しく捉えているのか。人間は本当に、清らかなものだけを選び取り、暗いものを排除して生きられるのか。デミアンは、そう問いかけます。
たとえば「デミアン」の中で最も有名なセリフの一つに、次の一節があります。
鳥は卵から抜け出ようと戦う。卵は世界である。生まれようとする者は、一つの世界を破壊しなければならない。
ここでいう「卵」とは、単なる抑圧ではありません。卵は、もともとは生命を守るものです。家庭、学校、宗教、常識、親の期待、社会のルール。それらは、子どもにとって必要な保護膜です。しかし、ある時期を過ぎると、その保護膜は、今度はその人を閉じ込める殻になる。
成長とは、何かを積み上げて立派になることだけではない。むしろ、かつて自分を守ってくれた世界を壊すことでもある。『デミアン』は、その痛みを描いた小説です。
憎しみは、自己認識の入口である
「デミアン」には、もう一つ印象深い言葉があります。
人が誰かを憎むとき、その誰かの中にある自分自身と似ているところを憎んでいるのだよ。自分自身の中にないものなんか、僕たちの心を動かすことはないからね。
これは非常に怖い言葉です。なぜなら、私たちが誰かを強く嫌悪するとき、それは単に相手が間違っているからではなく、その相手の中に、自分の中にもあるけれど認めたくないものを見ている可能性があるからです。
弱さ、卑劣さ、嫉妬、虚栄心、暴力性、臆病さ。自分の中にあるそうした要素を見たくないとき、人はそれを他者の中に見つけ、激しく攻撃する。つまり憎悪とは、他者についての感情であると同時に、自分自身についての情報でもある。
この考え方は、ユング心理学でいう「影/シャドウ」の問題に近いものがあります。人間は、自分の中にある暗い部分を否認し、それを外部に投影する。そして、その投影されたものを憎む。だから、誰かに対する強烈な嫌悪は、しばしば自己認識への入口になります。
「デミアン」が単なる青春小説にとどまらないのは、この点です。そこでは「悪は外にある」とは考えられていません。むしろ、悪も、欲望も、暗さも、自分の内側にある。問題は、それをどう排除するかではなく、それをどう見つめ、どう引き受けるかにあります。
聖なるものは、なぜ汚れとともに現れるのか
「デミアン」の核心にあるのは、アブラクサスという概念です。宗教学的に説明すれば、アブラクサスとは、紀元二世紀ごろのグノーシス主義、特にアレクサンドリアのバシリデス派と結びつけられる神秘的な神名であり、神的なものと悪魔的なもの、光と闇、善と悪を一つのうちに含む存在として理解されてきました。
ヘッセはこの異端的な象徴を通じて、人間の成熟とは清らかな善へ向かうことではなく、自分の内にある光と闇の両方を引き受けることなのだ、という主題を描いています。神聖なものは、清潔で、明るく、道徳的で、誰からも承認される姿でだけ現れるのではない。むしろ聖なるものは、ときに不気味で、危険で、異端的で、邪悪にさえ見える姿をとって現れる。
このモチーフは「デミアン」に限ったものではありません。
たとえば、キリスト教文化におけるマグダラのマリアは、聖なる存在でありながら、長いあいだ「罪ある女」あるいは「娼婦」と結びつけて語られてきました。厳密に言えば、聖書本文にマグダラのマリアが娼婦だったと明記されているわけではありませんが、しかし、後世の伝承の中で、彼女は「罪深い女」でありながらキリストに深く結びついた存在としてイメージされてきた。重要なのは、聖書本文にそのような記述がないにも関わらず、究極的な聖性が究極的な汚れと結びついたということです。
あるいはドストエフスキーの「罪と罰」に登場するソーニャも同じです。彼女は貧困に喘ぐ家族を食べさせるために娼婦に身を堕として生きざるを得ない女性です。しかしドストエフスキーは、彼女を堕落した存在としてではなく、ラスコーリニコフを救済へ導く聖女的存在として描いています。
ここには、一つの逆説があります。
聖性とは、汚れを知らないことではない。むしろ、汚れや罪や苦しみをくぐり抜け、それでもなお他者を愛し、赦し、受け入れる力のこと
ではないか。
清潔で無傷な聖性よりも、傷を負い、罪を知り、苦しみを知っている聖性の方が、人間に深く触れる。なぜなら、それは抽象的な道徳ではなく、現実の人間の弱さと矛盾を知っているからです。
この意味で、デミアンは危険な存在です。彼はシンクレールを安全な道徳の世界から引き剥がします。表面的には、彼は悪魔的な誘惑者にも見える。しかし、その危険さによってこそ、シンクレールは自己認識へと導かれる。
デミアンは、単純な意味での善人ではありません。彼は、破壊を通じて救済する存在です。
ツルツルピカピカの聖性は胡散臭い
ここから考えると、逆に「聖性」だけをまとって、ツルツルピカピカに現れるものは、かえって胡散臭いものなのではないかという問いが生まれます。
あまりにも清潔で、あまりにも正しく、あまりにも非の打ちどころのない善。一点の曇りもない道徳性。誰からも批判されない美しさ。社会に完全に適合した優等生的な正しさ。
たとえばジャック・ニコルソンが主演した映画「カッコーの巣の上で」は、秩序と規律を厳格に求める精神科病院の婦長が、逆にその極端な道徳性によって邪悪さを生み出している様が描かれています。
道徳や秩序や規律は一見すると美しい。しかし同時に、人間存在の複雑さ、欲望、矛盾、嫉妬、暴力性、孤独、苦しみを消去してしまう危うさがあります。
本物の聖性は、人間の暗さを排除しない。偽物の聖性は、人間の暗さを隠蔽する。
この区別は重要です。
「デミアン」でシンクレールが息苦しさを感じているのも、まさに「清潔すぎる善」です。彼の家庭の世界は、明るく、信仰に満ち、秩序があり、道徳的です。しかし、そこには人間の暗さが入る余地がない。だから彼は、自分の中に暗さを発見したとき、それをどう扱ってよいかわからなくなる。
悪を排除して成立する善は、脆い。汚れを知らない清らかさは、薄い。罪を引き受けない聖性は、現実の人間を救えない。
ここに、若者や芸術家がしばしばロックや前衛芸術、カウンターカルチャー、アンダーグラウンドな表現へ向かう理由があるのではないでしょうか。
彼らは、社会が掲げる「正しさ」や「美しさ」や「成功」が、あまりにも整いすぎていることに気づいている。そこでは何かが抑圧され、排除され、隠蔽されている。だからこそ、ノイズ、歪み、汚れ、破壊、逸脱を持ち込む。
ロックは音楽にノイズを持ち込む。前衛芸術は美術に不協和を持ち込む。ダダやシュルレアリスムは意味の秩序を壊す。パンクは怒りと粗さを前面に出す。
それらは単に「悪ぶっている」のではありません。社会が消毒してしまった現実を、もう一度、生のざらつきとして回復しようとしているのです。
社会は常に、善のコード、美のコード、成功のコード、成熟のコードを作ります。「こう振る舞うのがよい人間です」「こう話すのが知的です」「こう働くのが優秀です」「こう生きるのがまともです」と。
しかし、コード化された瞬間に、そこから漏れ落ちるものが出てくる。怒り、悲しみ、欲望、野蛮さ、矛盾、説明できないもの、名づけられないもの。芸術は、その漏れ落ちたものを回収する営みでもあります。
その意味で、コードを逸脱する芸術は、社会から見れば不良であり、不道徳であり、不快であり、わけのわからないものに見える。しかし、その逸脱によって初めて、社会が見ないことにしていた真実が露出する。
「デミアン」は、この芸術的な逸脱の感覚に非常に近い小説です。
シンクレールとホールデン・コーフィールド
「デミアン」のシンクレールを読んでいると、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コーフィールドを思い出す人もいるでしょう。二人はかなり違う作品世界にいますが、共通点があります。
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