大事なものは、たいてい副産物として生まれる
人生をあらためて振り返ってみると、不思議なことに気づきます。それは、人生で本当に価値のあるものほど、副産物として生まれており、直接それを目指したときにはかえって手に入らないことが多い、ということです。
例えば幸福や信頼や友情や尊敬や誇りといったものは、これらの獲得を目標として追い求めると、かえって不思議なほどに手の中からこぼれ落ちていってしまいます。
一方で、仲間と何かの目標に向けて真剣に取り組んでいるとき、ふと振り返ると、これらが副産物として手に入っていることに気づきます。
この奇妙な逆説は、実は個人の人生だけでなく、社会のさまざまな領域で繰り返し観察される現象です。
部活動という教育装置
この構造を最もわかりやすく示す例の一つが、学校の部活動です。
部活動の目的は明確です。「試合に勝つこと」「大会で優勝すること」「記録を更新すること」といったわかりやすい目標がある。
しかし、部活動の価値は勝利そのものにあるわけではありません。むしろ、その過程で生まれるもの・・・それは例えば仲間との友情であったり、困難を乗り越える経験であったり、努力するという習慣であったり、困難にあっても自分は乗り越えられるという自己効力感であったり、あるいは他者と協働する能力であったり、そうしたものこそが、教育的な意味での本当の成果です。
ここで興味深いのは、これらの価値は、最初から「友情を得よう」「人間的に成長しよう」といった目的を掲げても、なかなか生まれないという点です。これらの報酬は、部活動に真摯に取り組むというプロセスの副産物として生まれており、最初から求めてもなかなか手に入らないのです。
極論して仕舞えば、部活動とは、ある意味で「副産物を生むための教育装置」なのです。
社会運動も同じ構造を持つ
同じ構造は社会運動にも見られます。
1960年代の学生運動では、多くの若者が政治や社会を変えることを目標に掲げました。たとえば1960年代の日本では、安保闘争や大学紛争といった学生運動が、大きな盛り上がりを見せました。
結果だけをみれば、安保条約は成立し、大学の体制は維持されましたから、これらの運動は必ずしも成功したとは言えない・・・むしろ失敗だったと言えるかもしれません。しかし副産物として、非常に豊ななものを残しました。
それは例えば、権威に対する批判精神であったり、新しい文化であったり、世代のアイデンティティであったり、社会参加のモデルの提示であったり、といったことです。
これらはその後の社会に長く影響を与えました。歴史を長い目で見ると、社会を動かしたのは、むしろこうした副産物のほうだったと言えるかもしれません。
幸福は目標にすると逃げていく
この構造は心理学や哲学の領域でもしばしば指摘されてきました。
例えば精神医学者であり、ナチスの強制収容所を生き延びたヴィクトール・フランクルは次のように書いています。
幸福は追い求めるものではない。
意味ある活動の副産物として生まれる。
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