サッカーの本棚ではなかった
No Name Line #32
自分の本棚を見て、少し笑った。
サッカーの本棚ではなかった。
もちろん、サッカーの本もある。
戦術も、指導も、ないわけではない。
でも、全体を見ると、
どうも様子が違う。
勝負の本がある。
心理の本がある。
そこまでは、まだ普通だ。
でも、
ドン・キホーテの近くに、影との戦いがある。
執行草舟のそばに、シルバーバーチがいる。
ガウディ、ピカソ、ダリの並びの端に、
クラウゼヴィッツまで立っている。
その下では、長谷川恒男と槍ヶ岳と剱岳があり、少し離れたところに非言語コミュニケーションや異文化理解力まである。
何をしようとしていたのか。
ちゃんぽんか。
八宝菜か。
いや、近いのは、
たぶん筑前煮だった。
具材はかなり違う。
れんこんもある。
ごぼうもある。
鶏肉もある。
にんじんもある。
こんにゃくもある。
見た目に統一感はない。
でも、煮えている出汁は同じだった。
僕の本棚も、そうだった。
ただ、ここをきれいに言いすぎると、
どこか違う。
最初から思想があって、
そこへ向かって整然と集めた棚ではない。
かといって、
何も考えずに手を伸ばしていたら、
気づけばこうなっていた、というほど無自覚でもない。
どちらでもあるし、
どちらでもない。
サッカーに偏ると見えなくなるものがある。
その感覚は、たしかにあったのだと思う。
でも、そのたびに大げさな理屈を立てて
本を買っていたわけでもない。
面白かったから読んだものもある。
引っかかったから手を伸ばしたものもある。
あとから効いてきたものもある。
かなり売った。
だから、
ただ積み上がった棚ではない。
それでも残った。
好きだから残した、だけでもない。
必要だったから残した、だけでもない。
その二つで説明できる本もあるのだろうけど、少し足りない。
離れなかったものが、残ったのだと思う。
そうすると、
棚は少し変な形になる。
勝負の本だけを読んでいれば済んだはずだし、
戦術や心理だけを掘っていれば、
もう少し整った並びになっていたはずだ。
実際には、そうならなかった。
ただのミスで終わらせるには、何かが残る。
性格の問題で片づけるには、何かがずれる。
技術や戦術の話をしているはずなのに、
それだけでは見えてこないものがある。
そういうことが、
現場には何度もあった。
そのたびに、
棚の別の場所へ手が伸びたのだと思う。
寄り道だったのかもしれない。
でも、寄り道だけでもなかった。
本棚というのは、少し怖い。
整理できたものより、どこかで手を離さなかったものの方が残ってしまう。
自分では、サッカーの本棚のつもりでいた。
でも、並んでいたのは、それだけではなかった。
勝負もある。
言葉もある。
哲学もある。
育ちもある。
文化もある。
山もある。
美術もある。
死や霊性の方まで入っている。
ずいぶん雑多だなと思う。
でも、ただ散らかっている感じでもない。
だから、この本棚は、
ちゃんぽんではなかった。
八宝菜でもなかった。
やっぱり、筑前煮だと思う。
入っているものは、かなり違う。
しかも、きれいに揃っているわけでもない。
それでも、同じ鍋の中にいる。
なぜこれが残ったのかを、
ひとつずつ辻褄を合わせようとすると、
無理が出る。
でも、出汁だけは同じだったのだと思う。
それを、
後から蹴道と呼ぶようになった。
