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『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』(ブライアン・クラークス著、柴田裕之訳)東洋経済新報社


偶然なんだよ、偶然!

誰がどう考えても、人類最初の原爆投下の理想的な候補地は京都だった。
2026年の今、日本で生きている私が、1945年の米国人、いや日本以外の世界のどこかの国の人間だったとしても、原爆投下の理想的な候補地は京都だと判断していただろう。こういうのを〝世界の常識〟と言う。
ところが、1926年に夫婦でたまたま京都へ旅行で訪れて「都ホテル」に宿泊した、たった一人の文民の陸軍長官の、嫌がらせと言ってもいいような執拗さによる、トルーマン大統領(当時)をはじめとする人達への食い下がりにより、初の原爆投下候補地は、京都から広島へ変更された。
こういうのを奇跡とも偶然ともいう。

さらに、2発目の原爆は、ほんのちょっとした、一瞬の偶然から、投下予定地の小倉に投下されることなく、長崎に投下された。

本書の著者のブライアン・クラークスの祖父は1905年、妻が4人の子供を殺害し自ら命を絶ったという悲劇に見舞われた。
それから再婚して時が経ち、著者もこの世に生を享けたそうだ。
こういうのも偶然という。

「真実」よりも「近道」

我々の祖先が生き残るために必須としていたのは「真実」ではない。
一瞬の命の危険を回避するために必要だったのは「近道」だ。
あれこれ熟考するのではなく、コンマ数秒で考えるより先に行動をする。
我々の生存戦略を培ってきた癖ってのは現代でも、みんなの中に連綿と受け継がれている。

さらに、我々ってのは、因果関係とか起承転結のある物語とかが大好きで、「わからない」こと、曖昧なことを忌避したがる
今流行りの〝ナラティブ〟しかり。
科学が物質世界の1%しか解明できていなければ、あとの99%を「わからない」と認めたがらない。そして、あろうことか「ない」とか言い出す馬鹿、「科学で解明・証明できないから、ない」というのも、馬鹿はバカだが、一応〝そういうことになっている〟から円滑に運営されている社会なんで、まあ、いいんだろうね。
とでも思わなければ、生きていけないさ。

この世ってすべて、遊びですから

で、本書を読んだ私が何を得たのか?
仕事で統計解析を使わせてもらっているので、「外れ値」の存在や、著者が批判している(はず)の統計の話は理解できる。
そして、著者が摘出する問題だらけの「サイエンス」の世界。
そんなものに「真実」がないことがあるのは、私だって百も承知だ。
でも、「真実」ではなく、例えば、統計が世の中の現象のうち、僅か数パーセントしか説明しきれていなかったとしても、そういう〝世界〟の中で仕事をして生きていく。
「これこれ、こういうロジックで説明がつきますから」と。
それが、不完全極まりないこの三次元物質世界で「生きる」ということなのではないだろうか?
と思った次第。
「真実」なんてのはさ、この世から離れりゃわかるんだからさ、いいんじゃないの?


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