「ゲーム的モダニズム」の素描
先日の書いたデイヴィッド・マークス『STATUS & CULTURE――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』について、もう一つ注目すべき要点がある。
インターネット以後に、「ステイタス」が変化した、ということだ。
特にSNS以後、「センスの良さ」によって「ステイタス」に差異を生む、「クールなやつだ」という評価を得ることは困難になりつつある。一つには情報の高速化によって、あまりに速く価値基準の変動が起こる。同時に、それぞれがネットとSNSを活用した断片的なコミュニティを作ることで、共通価値としての「ステータス」が発生しなくなる。肌の感覚としても、「音楽や映画やファッションをいくら知っていても、そんなの別にカッコよくない」という価値観は広がっているように思う。
もう一つ、この本が指摘しているのは「雑食主義(オムニヴォリズム)」の価値強化の流れである。センスエリートを気取ろうとする人間の、最後の砦と言えるかもしれない(他人事のような言い方だが、私は思いっきり雑食主義的に生きてきた)。ありとあらゆる文化を摂取し、多様な価値観に寛容であるべし。この雑食を好む価値観は、多様性は保護されるべきだという政治的リベラリズムの主張とも結びつく。さらには、文化的相対主義としての「ポストモダニズム」にも接続される。「みんな違ってみんないい」であり、人が好きなものを悪くいうのは気分を害するだけだからよくない。みんながんばって生きているんだ。迷惑かけてなかったらなんでもいいじゃないか!そのような価値の広がりである。「これはいい、これはダメ」と決めつけるのは男性的な権威主義だ。ロック主義(ロッキズム)のエリート的価値観は、白人男性の選民思想でしかない。程度の低いものとしてずっと馬鹿にされてきた、ポップなものだって素晴らしいものは沢山あるじゃないか。マライア・キャリーやB'zも実はすごいアーティストじゃないか。このような言説がいくらでも広がる。
本書でロッキズムの敗北の象徴として語られるのは、「ピッチフォーク」のあるライターの謝罪である。2003年に、シンガーソングライター、リズ・フェアのポップ寄りのアルバムに「0.0」点をつけたライターが、Twitter上で自身のレビューを「上から目線の、虫唾が走る代物」と16年後に自己批判した。ポップフィールドに挑戦した作家を小馬鹿にする、偏狭なインディ・エリートは愚かだと認めたというわけだ。
音楽批評は、雑食主義とポップティズムを背負ったタイミングで進歩主義を捨てた。乱暴に言い換えればモダニズムを捨てた。その他の批評もモダニズムを擁護しなくなった。そう本書は語る。「文化的相対主義」と「雑食主義」に結びついたポストモダニズムは、多様性の寛容さを導く価値観かもしれない。しかし、その結果起きるのは何か。価値基準の消滅と個人の趣味嗜好の絶対化。その次の段階としての、「金を持ってる奴ほど強い」という原則である。ステイタスとモダニズムが失効となると、やって来るのはむき出しのキャピタリズムである。悔しかったら金積んでこい。現在の社会はそういう世界に突入している。細密な調査はしてないので暴論かもしれないか、DIC川村記念美術館の休館も、ステイタスの失効→むき出しキャピタリズムの流れの結果に思えてくる。
資本主義と呼ばれている社会システムが諸悪の根源だとは私は思わないが、むき出しの資本主義には問題がある。人命も文化も、金持ちには敵わなくなるからだ。そして、金儲けのためには、人命と文化を無視した方が効率的である。
これは暫定的な結論、集団で文化領域を考えるためのスケッチに過ぎないが、カルチャーの領域では、二枚舌外交が必要だと思っている。「みんな違ってみんないい」に対する速断的な否定は、おそらく現在の多勢から見向きをされない。それでもモダニズムは、むき出しのマネーゲームに精神と文化の領域が流されないために、戦わなければならない。金持ちになって文化を守る、以外にやれることを確保したい。
その目的に即すためには、「モダニズムの領域」としてのゲームを設定すべきだろう。「この文脈、この歴史、この設定の上では、より進歩的な解答を示した作品が勝つ」というルールのゲームがあるということを、認知させるべきだろう。ここでの「モダニズム」は、ほぼ「進歩主義」と同等に、乱暴に雑に定義している。歴史の次の一歩を示す、それを見出した作家にステイタスが与えられる。そういうゲームが存在するという状況を、認めさせること。「ゲームの勝者」になったとしても、人間的な価値が上がるわけではない。「人として成長する」というわけでもない。サッカーやバスケットボールの英雄が、道徳的に立派だったり知性が高いわけではないのと一緒だ。そして、進歩の先に何が待っているか。特に何も。ゲームの続きが待っているだけだ。でもゲームが楽しければ、ゲームが続くだけで十分じゃない?
端的に言って、私は音楽だろうが映画だろうが小説だろうが絵画だろうがマンガだろうが、あるいはヒップホップやSF小説や少女漫画のようなサブジャンルにおいても、「ゲームの勝者」は存在すべきだと思っている(どこまで細分化すべきかはよくわからないが)。経済の数値で測れる価値とは別のところに存在すべきだと思っている(勝者にある程度の経済的保証はされるだろうが)。個人個人にとっての価値とも別に存在すべきだと思っている(当たり前だが)。同時に、経済的価値も個人にとっての価値も、存在すべきだと思っている。ゲームは限定的だ。「なんでもあり」と「これしかない」を、どちらも納得させる二枚舌。ポストモダニズムとモダニズムは、二層を生きる。
「ゲーム」の中で、「モダニズム」を展開させること。それが「ゲーム的モダニズム」と思いつきで名付けたものの内実だ。「限定的進歩主義」と呼んでも構わない。では、どうやったら「ゲーム」は成立するか?それはまた、気が向いたら考える。「批評の役目」と、言うのは簡単だけど。
