実は…写真のせいで【感動】できない?
ふと思った。
現代人の旅行って、江戸時代とかの人に比べて旅の【驚き】と【感動】が半減しているよね
と。
というのも、「旅行へ行くぞ!」ってなった際…普通の人はまず何をするだろうか?
そう…「下調べ」だ。
旅をする前…というか目的地を決める際に、現代だと『るるぶ』とか『地球の歩き方』的なガイドブックを見たりインターネットを使ってリサーチするよね。
「雲海を見たくない?」
「うわ〜、この温泉の絶景すごそう!」
「旅館の雰囲気も、料理もいいよね!」
社会人ともなれば、せっかくの休暇を「ハズレ」で終わりたくない。
なるべくなら自分が見たい場所、行きたい場所、食べたいグルメを揃えた旅行にしたい。
だから調べてから旅行へ行く。
でも、それって…。
ガイドブックやネットに載っていた写真を確認しにいくだけの作業
じゃないのかな、、と思ったのだ。
既に「それがある」のは分かっている状態で確認しに行き「あー! (ガイドブックの写真と同じものが)あった!」というのは…果たして嬉しいものなのだろうか?
最悪、グルメはガイドブックでは「美味しさ」が分からないので良しとするが。
景色を見て…プロの写真家が撮った写真と同じものを撮影し「いい思い出になったね」というのは、なんか微妙〜に違くないか?
そう考えると、写真が無かった時代の人は…。
例えば江戸時代とかを生きた人は、旅先で出会った感動をそのまま味わえたんじゃないかな〜と。
俳諧師として『奥の細道』などを残した松尾芭蕉。
彼は東北とかいろんな場所を自分の足で歩いて、俳句を詠んで…。
それって
すげー楽しかったろうな
と思ったりする。
未知との遭遇! 新しい発見だらけ!
そりゃ想像力が掻き立てられて、俳句を思いつきまくりだろう(笑)。
栃木県の那須塩原で柳の木を見ただけで
田一枚植て立去る柳かな
って詠んじゃうくらいだし。

これが実際の「遊行柳」が立っている現場だけど、ほんと…田んぼの中に柳の木(?)がポツンとあっただけ。
あんな場所でも心が動いて俳句を詠めるってのが、本当にすごいんじゃないのかな、ってね。
だから旅好きの中で、一定数の人が予定を決めない「あてのない旅」をするのかもしれないな〜と思う。
行き先や食べるものを決めて回るんじゃなく、その場その場の出会いを大切にするタイプの旅行の楽しさを満喫しているんだろうなぁ。
まぁ、そこまで時間がユルユルな人もそんないないとは思うけど。
ただ…グルメに関しては徹底リサーチした方がいいのかもしれない。
以前、行き当たりばったりの【グルメ・ウォーキング】をしたら、何も満足するものに出会えなかったこともあったし(苦笑)。
味覚というのは写真で見ても味わうことができないので、事前にビジュアルを知っていても口の中に入れた時の感動はひとしお。
むしろ、コッチは調べておかないと大変になるのかね?
料理(メニュー)の選択肢が多い世の中になりすぎて、こればかりはある程度絞っておかないとあとあとに後悔することになるかもしれないから。
だから、いつ全国どこに出かけてもいいように、インスタとかに流れてきた「美味しそうなグルメ」をチェックする作業だけは日々の日課にしている。
