「どうぞ、どうぞ」とゴミ箱を勧めるヒト
研究者なのに(本人からすれば、何が『なのに』なのかよくわからなかったけれど)小説を書く人、というレッテルが貼られると、社内で近くにいる人はいずれも迷惑そうであり、遠くにいる中には好奇心を持つ人が現れる。
以前、別アカウントのマガジンにも書いたことがありますが、そんな中のひとりが資料課の課長でした。
趣味の話題ですから、昼休みにでもしてくれればいいのですが、その時間は、英語論文添削のために会社に来てちゃっかり昼メシを食べて帰る米国人と食堂で駄弁るので忙しく、彼にとってより暇な勤務時間中に網を張り、そのフロアの片隅に姿を現すと遠くから名を呼ばれ絡め捕られます。
何か用か、いや、用などあるはずないか、と思いながらその席に行くと、
「ま、どうぞ、どうぞ」
── どうぞと言われても、そこに折り畳み椅子があるわけでもなく、彼の手の先には、直径30センチほど、高さ50センチ足らずのスチール製とおぼしき円筒があるだけ。
もちろんその中は丸めた紙屑で半分ほど埋まっている。
課長席専用の『ゴミ箱』に間違いなかった。
ためらっていると、さらに、
「ま、どうぞ、ここに!」
仕方なく ── お尻がすっぽり中に落ちないよう気を付けながら ── 腰を下ろす。
「どうですか、忙しいですか?」
見上げれば、── 当時、50代前半だったろうか ── 白髪交じりの頭髪を丁寧に撫でつけ、けれど鼻毛がかなりの剛毛となって鼻腔からはみ出していた。
(こんなに出ていて……見てくれはともかく、彼自身、不愉快ではないのだろうか)
彼は何か ── どうでもいい内容ではあるが ── 話し始めるのだが、『剛毛』に気を取られているので頭に入って来ない。
どうでもいい内容の多くは、当時労組がなかったその会社で労組もどきの親睦会機関誌に、私が入社直後から毎月連載していたエッセイやショートショートに関するコメントだった。
たとえば、この話も『初出』はその機関誌である:
「あの、『三つめの願い』感動しましたよ! よくできた話ですねえ」
「……あれ、実話なんです……私の成人の日の……」
「ホントですか! すごいね! で、あの女性とはどうなったんですか?」
「まあ……その……いま、私の奥さんになっていますが……」
「ほう!」
── といった具合に続く。
とても人あたりがよく、言葉つきも丁寧なのだが、何せ、仕事とは関係のない話題である。入社して間もない私があたりを憚って、
「では……」
とゴミ箱から腰を上げる ── いや、尻を抜こうとすると、
「まだ、いいじゃないですか! 忙しいの? 私なんかと話している時間はない?」
── 冷たくすると拗ねるのである。
けれど当然、彼の部下を含め、周りは仕事中である。そして私は小心者である。
やれやれ、また課長が ── という部下たちの視線を、そして、隣の課からも迷惑そうな気配を感じる。
彼の部下にしっかり者の女性係長がいて(鼻毛おじさんの役職定年後に課長に昇格した)、
「課長! もう! 谷さん忙しいんだから! 課長みたいに暇じゃないんですよ!」
笑いながら助けてくれる。
「お、これは失礼!」
課長は頭を掻き掻き、ようやく解放されるのだった。
……けれど、ジジイになった今ならわからなくもない。
工学系など理系技術系ばかりのその会社で、文系学歴で事務系として採用された彼は、けっこう孤独だったのかもしれない。事務系の管理職ポストにも研究系から横滑りに人材は流れてきて、純粋事務系は総務・経理畑を除けば彼くらいだったのかもしれない。
(蛇足だが、彼が総務・経理に向かないことは言うまでもない)
そこに現れた、研究系だけれどカキモノをする『珍獣』に興味を持ったのだろう。
