無意識に選んだ天丼、意識し始めた彼女
藍色の暖簾をくぐった瞬間、
一年前の自分と、目が合ったような気がした。
用宗の駅を曲がり、海へと向かう道すがら。あの日の僕は、少しだけ緊張していた。二人の未来のはじまりとなる「ファーストデート」になるとは、露ほども思わずに。ただ、目の前の彼女と過ごす時間が、緊張よりも楽しさの方が勝っていたことを覚えている。
食事というのは、鏡のように確認する時間でもある。
何を選び、どんな速さで、どんな表情で咀嚼するのか。カウンターに並んで座り、横顔から伝わってくる彼女の輪郭を、ぼくは一つひとつ、大切に拾い集めていた。「美味しいね」と笑う声。 湯気の向こう側で解けていく、柔らかな空気。今思えば、あの場所で交わした何気ない会話の断片が、今のぼくたちの土台になっていたのだと、一年後の僕は静かに確認する。

たこ、しらす、まぐろ(だったかな)、のり。新鮮で美味しい味わいだった。
「まだ、ありますよ」
店員の穏やかな声に導かれ、"限定二食"のハゼの天丼を注文した。 運ばれてきた丼を眺めて、小さく息を呑む。整然と並んだハゼの天ぷらは、まるで水面で息を合わせるシンクロナイズドスイミングの選手たちのようだ。その潔いまでの美しさに、記憶の糸が繋がった。 あぁ、あの日も。僕は無意識に、この天丼を選んでいたんだ。

ハゼの天丼を頼んだ後に思い出し、写真を見返したので、自分でも驚きだった。

箸を入れれば、衣の下から現れるハゼの白身が、淡雪のようにホロリとほどける。 甘すぎないタレが染みたご飯を頬張り、脇を固める冬瓜の煮物の、ひんやりとした出汁に寄り道が長くなる。きんぴら、香物、うずまき麩の入った温かい手作りの味噌汁と、小鉢の隅々まで行き届いた手仕事に触れるたび、一年前、このカウンターで美味しいねと言い合った光景が思い出される。

もし今、目の前に彼女がいたなら、「ひと口、食べる?」と、この瑞々しいハゼを分け合っていたと思う。食のシェアをあまりしたくなかった自分が、初めてシェアしてもいいかなと、思えた相手だったから。
店を出ると、用宗の夏特有の、潮の香りを含んだ爽やかな風が頬を撫でた。 あの日、この風に背中を押されるようにして、貴乃の暖簾をくぐったあと、山あいのテラスへと向かった。 眼下に広がる茶畑の深い緑と、遠くに見える街の景色。 そこでお茶を飲みながら過ごした穏やかな時間が、今のぼくたちの記憶に残っている。

再び暖簾を見上げたとき。 ここには、過去を呼び覚ますだけではなく、その続きを描くための「食の引力」が満ちているのだと感じた。
次は、ひとりでの「ごちそうさま」ではなく、またあのカウンターに二人で並んで、この言葉で笑い合いたい。
美味しかったね、ごちそうさまでした。
アイスクリームが溶けぬ前に #47 貴乃(静岡・用宗)
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