群青

この世界を綺麗だと思ったことはなかった。
馬鹿が服を着て歩き、知性を自ら捨てて快楽に支配されているのだと、脇道の芥を見てそう思った。身の丈を知らず、いつか死ぬ自分の姿も想像せず、一秒を消費し、殴りつけるように人にレッテルを張り付け、満足する。人が人を笑い馬鹿だという。
俺も同族だ。同族嫌悪だ。それでもいい。死ぬよりはましだ。

死ぬことは何よりも怖いことだった。死の瞬間を想像するたび、脂汗が滲み、呼吸が乱れる。顔に手を当てて、震えを抑える。ひどい悪夢だ。理不尽な現実から逃れるための死がこれほど、恐怖をもたらすものだとは。
朝、テレビで殺人のニュースを見た。二十五歳の女が刺殺された。何の動機もなく、愉快犯だった。共感も恐怖もない、遠くの煙を見ているようで、実感も何もない。いつか小説で読んだような話に思えて、興味深さは少しあったかもしれない。人に殺されることは、寿命と何が違うのだろう。理不尽で確実。生きる権利を奪われ自由に死ぬこともできない。俺にはわからない。

配膳用ロボットは俺の食事を運んできた。いくつもの皿に見せつけるようなきらびやかな食事。貪るように俺は食った。腹を満たすだけで十分。ロボットが数瞬の間に作り上げた料理に欠陥などない。栄養の偏りもなければ、彩もいい。それでもなぜか俺には、つまらないものに見えた。
適当な服に着替え、ドアを開け歩き出す。空は鈍色に覆われ、街は無機質な様相。ここ最近はこんな調子だ。街には、腐るほど人が湧いていた。相変わらずバカみたいな顔だ。子供連れは幸福の虜、高校生は無知の虜。明日が必ず来ることを信じてやまない人種。そういう下らなさをひけらかすように、喧しい声で、何かしゃべっている。耳栓型のイヤホンを貫通して、ノイズは鳴りやまない。
2100年にもなって、技術は進歩したはずなのに、人間のモラルは低下の一途。人は本を読まなくなり、無知も蒙昧も怠惰も、アイデンティティのよう。それが本望であるかのように液晶画面の中で夢を見ている。暗闇しか見えない道の常夜燈に蛾が吸い寄せられるようだ。彼らは自分の愚かさに気づいていない。本当は気づいているかもしれない。為す術を知らないだけかも知らない。自分たちに価値などないと分かっているくせに、更なる価値の低下のために迷惑をかけ続ける。まさに生ける迷惑だ。
そのためかはわからないが、世は消費的な音楽であふれていた。とにかく爆音で思考を奪い、同じようなコードと構成。いつの間にか曲は終わり、次の爆音が流れ始める。
学生の頃、俺は静かな音楽が好きだった。それを話したら馬鹿にされた。主流はこれだとか、誰がこれを褒めていたとか、そんなことを喚く。彼らの顔は不気味なほどに焦っていたのだ。自分は間違っていないとかいう洗脳が張り付く、仮面のような笑顔ともに。

この街の外は、砂漠だ。荒涼とした土地に、何もない静謐か逆巻く風の砂を巻き上げる音が響くばかり。俺はそこに行くのが日課だった。強盗とか犯罪よりなにより、無駄な人生を振り返り、カスみたいな人間を殺したくなる思想を忘れるようにものを考えることの方が有益だろう。
俺はタクシーを捕まえた。車が駆動し始め、人の姿は線形になって流れて行った。
良い気味だ。

目的地はあっても、目的はない放浪。主義も思想もない果てしなさ。それが好きなのかもしれない。わからない。ずっと昔からそうだった。
人間というものの弱さなのかもしれないと思い始めた。自分を半透明に移す窓と薄暗い空空。単調な日常も自分で終えることもできるのだと、自分で考えて怖くなった。だんだん迫る死が目に見えるようで、死神に余命五十年を宣告されて、恐怖の支配の渦中。妄想でも何でもない事実に身が弥立つ。目は嫌に冴えていた。

遠くの空に青が見えた。風のない街に晴天が訪れることはない。少なくとも今日中は。湿気に満ちた空気の中に出る。歩き出す。何も考えないようにした。

砂漠の中を歩きだして、十分が経った。空漠が満ちている世界は、社会よりは綺麗で生きやすい。そう思うだけ、生きることに、疲れているのかもしれない。ずるずる歩いている体に強い意志などない。

少し進んで、いつもの小屋に着いた。車道には車があまり通らないから、俺のお気に入りだった。ここはカフェだった。前は、砂漠の外から来た人間の休憩所で、常連もいたようだ。三年前に譲ってもらってから、毎週、逃避行紛いのために使っている。
中のソファに腰掛ける。外を眺める。夢を見ているように何もない地平を見つめる。俺は空想を始めた。
砂漠の中で駆け回る馬は心臓を高鳴らせて駆ける。自由で自由で自由。生きるべき場所を見つけた彼は、ひどく楽しそうだ。社会の中の孤独も、中途半端な他人との関係も、何も知らない。本当は知っていてほしい。自分もそうなりたいがために、そう考えた。今までの悲劇的景色、惨状と後悔を帳消しにしてほしい。もう一度会って打ん殴ってやりたい。それで帳消しに。全部帳消しに。
もう一度空想を始める。
今度は空の話。雲の上を歩く俺が見える。途中で雲が踏んだところからぼろぼろになっていく。必死に醜い影が走り出して、強く雲を蹴れば蹴るだけ足元は早く崩れだす。途中で走る足に崩壊が追い付いてしまう。体は落ちだした。彼は何か叫んでいるなぁ。まぁどうでもいいか。
空想をやめた。外でびゅうと少しばかりの風が吹いた。砂が巻き上がる。薄汚れた窓からでもなんとか外が見えた。砂の地平と遠くの街。明日は何処。

空想から覚めた。というのも、二階で物音がしたのだ。ドタ、という床板の音。
「…?」
車道からは幾らか離れているし、娯楽も何もない砂漠にわざわざ来る風変わりな奴などいない。誰だ。音はもう止んでいた。
古びた階段に足を掛け、キイキイ鳴る板を、慎重に上りだす。得体の知れないものへの恐怖を感じる。原始人が松明をもって洞窟の中をオドオド歩く。蝙蝠の鳴き声に怯え、化け物の影と錯覚する。残り数段で足を止め、慎重に体を上げる。段々と部屋の中が見え始める。そっと覗き込んだ。その時、部屋のテーブルのそばで白い塊が動いた。こちらに気づいたその塊、不気味に思っていたものの正体は、砂を少し被った犬だった。怯える様子はない。食べ物を求めて来たようではない。野良犬でもないのだろう。ではなぜ…?
瞬間、視界の端で何か動いた。ぎょっとして目を見張る。そこには、この時代に珍しい、ギターを抱えた少女が眠っていた。片膝曲げて、死んでいるのかと思うほど穏やかに寝息を立てて。

不思議に思って考える。こいつは俺が来る前からいたのか?こいつは誰だ?
まぁどうでもいいか。起きたら聞くだけだ。ヤンチャな奴がいたら少し面倒だっただけに俺は安心していた。興味もないし、そこの犬も邪魔そうに俺をちらと見ただけで、伏せたままであったから、対面のソファに腰掛ける。二階はあまり使わないでいたのだ。どうせ埃を被った家具ばかりで、小汚い。そう思っていたのだが、案外、綺麗になっている。この娘のせいか。窓も外が見えないほど汚れがついていたのに。
「…?…!」
起きたみたいだ。こちらを見るでもなく、ぼやけた目で犬を見た。その次に髭面を見たからか、おどろきの表情でこちらを見ている。
「お前は誰だ。どうやってここを見つけたんだ。」
少女は答えなかった。そりゃそうか。敵意も知らなそうな少女が、(彼女にとっては、)強い眼光を向けられているのだから無理もない。俺に敵意はないし、絶対に追い出そうとする意志を向けたわけでもないが、まぁ社会につかれて、死を恐れる哀れな男の眼光が、正常に見えるはずはなかった。
しかし、少女は思ったより怯えてはなさそうだ。ソファに座りなおして、犬の方に既に向き直っていた。…出ていく意思はなさそうだ。
「はぁ、もう一度聞くぞ。お前は誰だ。名前は。」
「そんなに、私の名前が知りたいの?」
「答えたくなきゃ、答えなくていい。ただ、こちらの邪魔はするなよ。ここは、俺の所有物なんだから。」
久しぶりに、真正面にいる人間と喋った。近くの店の店員くらいか。あいつらは結構、横柄だ。あいつらよりは話しやすい。自分本位の語りに方向性はないのだ。会話と呼べるだろうかは怪しいな。
「あなた、結構横柄ね。私、あなたについてきてここを見つけたの。ここに来るまで一本道なのに、あなたは気づかなかったわね。ゾンビみたいな顔して歩いていたから、脱水症状でも起こしてるのかと思った。」
ペラペラうるさいな。脈絡のないことを感想交じりに話すから分かりづらいんだ。
「あなたはなぜここにきてるの?」
俺は答えなかった。薄い目で外を見つめていた。
「あなたは、救いでも求めてるの?」

救い?救い、救済。
珍妙な問いに思考がぐるぐるした。
「何を言ってるんだ。」
本当に何を言ってるんだ、こいつは?
「そういう顔に見えただけ。ね。私も不思議。」
犬が彼女の足にすり寄った。尻尾を振るでもなく寄り添い、彼女が頭をなでる。俺を鈍重な思考の海に突き飛ばしておいて、彼女の周りは明るい空気が漂っていた。日の光が彼女に降り注ぐ。雲でさえ彼女の味方のようだ。
もう一度朝見た馬鹿どものことを考えた。あいつらは、彼らは、死など考えず歩く。この少女から見れば俺は救いを求めて憔悴して歩いているように見えているという。どちらが愚かなのか俺にはわからない。傍観者風情が。仕方ないか。事実。真実。焦燥。
俺は、顔を歪めて身じろいで、まるで喜劇の役者のように、絵画の中の狂人のように頭がおかしくなって知った俺を想像した。彼女は俺を置いて、いった。そう思った。光の中で神様であるかのような薄い笑顔が醜く見えた。
「よし」
少女はギターを持った。何か、いじりだした。仮眠から覚めて、本当の目的を果たすようだ。息苦しくなって窓を開ける。建付けは少し悪く、キイキイ鳴る。風が少しだけ流れた。またソファに腰掛け、俯いた。額に手を当てる。何も考えないよう天井を仰いだ。
微かな声がする。伴奏と同じか小さい声で、何か歌っていた。アナログな生の音楽は初めて聴いた。いつも機械から流れる、液晶越しの音楽だけを聞いてきた。まして、弾きながら歌うのを聞いたことなどない。奴らの爆音よりはましかもしれない。
彼女は、次第に声量を上げ、されど柔らかな?声で歌いだした。俺がいることなど気にしない。犬がちゃんと聞けよというばかりにこっちに寄ってきた。何でもよかったし、興味は端からなかった。しつこいから仕方なしに聞いてやることにした。
彼女の歌は言葉がところどころ聞き取れなかったりした。けれど言葉はなんとなくわかった。まっすぐな声が好印象。なんて、評論家みたいなことは言えない。俺はあいつらが嫌いだった。
少女の歌の中には誰かがいた。誰かの行動とか思考とか空想を組み合わせて、世界を作っているのだろう。雨の中走り出す人間とか、墓標とか花を死んだ人間に例えた陰気な言葉もあった。良し悪しはわからない。評論家気取りが嫌。
死体という言葉が聞こえた。俺のことか?馬鹿が。蠢く悪態の塊に成り下がるつもりはないが、近しい思考を感じた。死への恐怖のために生き続ける俺を馬鹿にしてるんだろう。
三十分ほど死んだように聞いた。少女は満足したみたいで、ギターを置いて犬を撫でだした。三十分間俺は、少しずつ思考を投げ出したのだ。音楽というものの響きは不思議だった。言語化不可能ではあるものの表現したくなるような感を抱いた。また評論家気取りだ。
「どう、いい曲だった?」
…音楽のことはよくわからない。風刺的でも、社会批判的な音楽でないのならよくわからない。感想を言っても仕方ない気がした。物語になっている音楽は初めてだった。
「自分でもいくつか作ってみてるの。別に誰のためでもないんだけどね。」
「そうか。」
大したものなのだろう。一つもわからないものだかろこそそう思った。
「お前、年はいくつだ。」
どうして興味もないこいつに、こんな質問もしているのだろう。今日は、どこかおかしい。
「お前、じゃないわ。」

「メリー、そう呼んで。」

「メリーか。で、いくつなんだ。」
「そんなに私に興味がないのね。十五よ。」
「十五?そうか。」
そうは見えないほど少女は幼く見えた。まぁいいか。不明な質問に意味も不明な回答。不思議な初めての感覚だ。質疑も終わって、再度窓の外を見始めた。段々と暮れ始めた空は鈍色と隙間から覗く橙色が混ざって嫌な色と化していた。
「それで、あなたはなんて言うの?」
不満げに、意地が悪そうにそう彼女は言った。
「俺か。俺はカイル。年は今年で四十二だ。」
「四十二ね。そう見えるわ。」
笑いながら言う彼女に不快感はなぜだかわかない。今まで生きてきた思考ならば、むかついたりした気がする。今日は何故が多いな。嫌にそう思うのだ。
「今日は曇ってて、なんだか嫌ね。」
初対面の俺とまだ話を続ける気みたいだ。遠慮を知らないのか?良くも悪くもか。今までの何もないような人生の中で、こんな奴に会ったのは初めてだった。出ていけ、とは言えなくなってしまった。
「そうだな。」
別に無言でもいいし、何でもよかった。大量の馬鹿と一斉に話すよりかましだろう。また少しばかりの頭痛がした。嫌な雲のせいかもしれない。夕陽と端が少しばかり晴れ始めた空が混ざったように見え、降り注ぐ陽光は失せ始める。
「ねえ、」
「またここに来てもいい?」
少女は笑ってそう言う。回答を見透かしているように。
俺は答えなかった。

今日は嫌に早く目が覚めた。昨日のことを夢のように思い出した。少し音楽に近くなった気がした。彼女の音楽がどうとか思わないが、彼女の音楽の存在を知った。それだけのことが、何か特別に思えた。今までの爆音だけのものよりは綺麗かもしれないな。
今まで通りの朝を送る。ロボットの配膳、着替えをする、窓を開けて陽光に目を細める。嫌になりそうになる時期はもう過ぎてしまった。もう十数年変わらない。自殺も怖い俺にこの生活以外はなかった。嫌だなぁ。
コーヒーを久しぶりに飲む。黒い液体は、胃にどっぷりと注がれた。目を覚まそうとする兆しがした。覚醒間近。
またドアを開けて、歩き出す。仕事場に着く。気の合わない同僚と会釈して、液晶と向き合う。仕事は、十八時に終わった。この時代に人が役に立つ仕事はあまりなかった。俺以外の同僚数人は、酒を飲みに行くという。疎ましい思考の塊が、脳裏に宿った。
酒は俺も時々飲むのだが、大概一人だ。他人との食事さえ、何十年と取っていなかったのだから、心底酩酊した同僚に絡まれるのは御免だったのだ。酒で絶望を忘れるというのも効果的な手段かもしれない。語る夢も、明日への希望も、期待も羨望も何もかも失せた。学生の頃は何かそういうことを思っていたのかもしれない。忘れた。

次の日は、嫌になるほど晴れた。陽光がビルに反射し俺を刺す。思考は熱のためにどろどろした。歩く、歩く、歩く。人の群れがうざったらしい。顔を見ないようにしてさっさと歩き続けた。汗をかいて家について、それだけだった。明日はまた砂漠に行く予定だ。意気揚々と眠りについた。
気づけばビルの上だった。
下には、馬鹿の群れ。五十メートルほどの高さからでは、ただの列状の集合体。ふと見上げた空は綺麗だった。何もなかった。人生を思った。
自分の意志とは無関係に空中に歩を進めた。落ちだす体は無感覚だ。風圧で髪が持ち上がる。あぁ痛い。目が覚めた。
心臓を抑えるような体勢で飛び起き、大汗をかいた。時針が差す深夜二時。嫌に冷めた室内が歓迎した。恐怖から覚めても恐怖は続く。あぁ嫌だ。

太陽の照り付ける砂漠の道を歩いていた。逃げるように歩く癖に、足取りはひどく重いままだった。救済などないことと同じように、生きる意味などない。ここに来るまでにいくつもの馬鹿を見た。どれも同じ顔だ。爆音も喧噪も相違はないのだと思う。俺は抜け出せない。この生活には飽き飽きしているし、希望もないのだから、死んでしまえばいいのだ。
次第に小屋が近づく。泣きつくように、気持ちは逸る。未熟な闘争も思想の海も、すべて無意味だと知ってしまう前に、体を動かした。すべては無に還る。

彼女の歌が、外からも聞こえていた。二階に行く気にはならなかった。それは、別に思想の中に特別居たかったからではないし、彼女の歌を聞きたくなかったからでもない。ただ、感化を恐れたんだ。死を恐れた。何か自分を変える何かがそこに存在しているような気がしたんだった。今は、何もなくありたい。思想も夢も何かにつけて死を思わせた。漂う砂漠の海で浮くことが生きることだろうか。生きるとは。風は止んだり、小屋を揺すったりした。海の中で俺は多分自由だ。ひたすら広いくせに、足に絡まる砂は大量に積もっていた。願うことも死ぬことも、殺すことも生きることもできる。思想を忌避した癖に、結局は思想。もう眠ってしまいたかった。結局的な臨死にまた包まれるのだろうか。

気づくと、犬が足元にいた。もしかしたら、こいつが俺の精神を生と希望に連れていく兵隊の先頭だったのかもしれない。衰弱した精神では、何も見えなかった。モザイクの霧の中、不思議と俺は立ち上がった。階段に吸い込まれるように、体をそちらに向けた。密度が高い気流が俺を阻むようで足が持ち上がるのに、酷く力が要る。視界が霞んで朦朧とするのだ。気を抜けば体の一つ一つの細胞から崩れそうになる。この思考も無駄なほどの、疲弊に包まれていた。扉を開けるのはひどくためらわれた。何か自分の人生が否定されてしまいそうだったし、精神も。犬が乱暴に扉をぶち開けた。その先は新たな自由だろうか。白々しい部屋の中で彼女は歌い続ける。死にたくない俺を置いて。

この前より、歌は強かった。ひたすらにギターは無心で、無遠慮な姿をしていて、歌がその音を乗り越えている。立ち尽くす俺を無視して汗をかいて歌っていた。ただ、歌っていた。それが生きる姿に見えた。それが正しいように見えた。
銃弾のような、ナイフのような声色で、何もかもを嫌うような歌を歌った彼女は、何か満足そうだった。
「あら、いたの?」
今更こちらに気づいた彼女は、気のない顔で、そう言うのだ。
「今のは、お前が作ったのか?」
「お前じゃないって言ったでしょ。ふふ、もうぼけてきたのかしら。」
メリー、そう言ったか。そんなことはどうでもいい。
「私が作ったの。いつだったかしらね。忘れちゃったわ。」
俺は何も言えない。今の歌を素晴らしいとでも思ったのだろうか。雷のような歌に打たれただけだ。今までになかったからだろうか。今までの爆音とも、静かな音楽とも何かが違うのだ。
「お前は、死ぬことを考えたことはあるか?」
おかしなことを聞いたものだ。
「?、んー、そうだなぁ。そこまで考えたことはないけど、嫌になるときはある。別に死ぬほどではないし、今は幸せな気がするから。…おじさんは私よりずっと嫌なことがあったんだろうから。ちょっと疲れているのかもしれないわね。」
犬を撫で始めた。風が窓を揺らす。
「なんだかお前の歌は、違うな。今まで聞いた何よりも。」
「そう!初めてだわ、私の歌を褒めてくれたのは。母親に聞かせても無視、悲しかったな、あの時は。ってそんなことはいいわ。どう思ったのよ、私の歌。」
犬が嫌そうに吠えた。空は鈍色を失った。
「お前の歌は生きてる気がしたんだ。本当の自由ってものはお前だけが知ってるんだろうな。自由?うん、そうだな。俺の生活にはない自由なんだ。」
満足そうに彼女は頷きながら聞いていた。
彼女にとって生きることは何も難しくないことなんだろうな。生きているのだから、いつか死ぬことを知っているんだ。それでも激しく生きるのだろう。羨望が脳に湧いた。嫌な黒い視線が自然と彼女に向いた。そんなことは止めるべきだ。それでは仕方ないのだから。
「あなたの人生を知らないから、私はこんなことを言えるのだけど、あなたは愚かしいことを自分に縛り付けているように見える。それは推測だし、何か感じただけなの。私は、たぶんだけどあなたより世界を愛してるから、変なところにあなたが見えているの。」

「うーん、あなたにつられちゃったわ。少し今日はセンチメンタルになってるわね。まぁ今日くらいはいっか。」
事もなげに、普通のトーンでそんなことを言う。彼女が言ったことはおそらく合っている。間違っていてもどうでもよかった。神格化した思想で居たいとなぜか思ったのだ。
「私はね、死ぬことはどうでもいいの。音楽も一番やりたいことかはわからない。それでも汗をかいて、声がしゃがれることは、たのしいの。生きていることが今は楽しい。この子と生きていることも、私の責務かは、わからないし、それが自然で、私の音楽も生き方も馬鹿にする人もいるけど、雨を気にしないのと同じくらいのことなの。」
「私の人生を誰も変えられないし、私は私しかいない。意識なんて必要ないの。」
涙が零れた。自分の過去を考え始めた。記憶の箱の中に真白の液体が注がれ始めた。ひたすらの孤独を埋めるのだ。彼女の言葉で、彼女の生き方で簡単に俺は壊れる。そもそも、馬鹿を見始めて、死に恐怖することが俺の孤独を埋め、猜疑が俺を生きさせた。そのために生きた。これから俺はどう生きればいいのか。破滅的な生き方と爆音で包まれて、それで?俺が見て来た馬鹿と同じになるのだ。結局そうなんだ。俺は馬鹿よりはまともに生きているのだと思っていた。思想もすべて無駄だったんだ。生きている罪悪感で生きて、何もないのだ。償いのために生きるために罪悪を設けたんだ。思想は嘘じゃないし、こいつは生きているんだ。何を言っているんだ。何を、何も。なにも。
「お前は、一人なんだな。その犬以外は。」
「そうよ。別に寂しくないとは思っているわ。でもあなたが居れば少しは賑やかになるかも。あなた優しいしね。」
汚い言葉を俺は吐き続けた。泥みたいに俺は俺の思想をぶちまけた。無秩序なこいつの歌の感化を乗り越えるように、罵声で窓を割ってこの世を脅かすように、思想を言葉に、言葉を声に変えてぐちぐちつぶやいて浴びせた。彼女は時々笑いながら、俺の言葉とも言えないものを聞いた。内容は覚えていない。空想の話と空想の人生で塗り固めた嘘を言った。それでもう十分だった。

散々言い散らして、彼女は立ち上がった。俺はソファでうなだれたままで、そっちを見なかった。心が晴れて何かが生まれたわけではなかった。心の薄黒をただ破壊し尽くして、その破片が心の側面に刺さっただけなのだ。
「あなたの空想、気に入ったわ。また聞かせて欲しい。あなたは、生きる意味を持ってなくて、仕方ない人生かもしれない。私のために生きろなんて言わない、でも少しくらい死ぬのが怖くはなくなるんじゃない?ふふ、」
いたずらに少女は笑う。そよ風で空気がふわりとなびいた。

空に満ちた群青が打ちのめされた俺を笑った。
他人というものへの猜疑で歩いてきた俺からすべて奪った癖に、晴れ上がった空には憎しみを感じなかった。それが心地良かったからかもしれない。
初めてかもしれない、こんな風に空を見上げるのは。

それからの日々は単調だった。今まで通りの日々は、靄が晴れたようになった。死ぬ夢を多少なりとも見なくなったし、死ぬことを考えなくなった。それが良い変化なのかは不明だが、世間から見た健やかな日々になっていっている気がするのだ。
小屋へ通うのは週に一回だったから、空想を日常の中で溜めておくのが習慣になった。馬鹿にされた古い静かな曲も聞くようになった。彼女のライヴより果てしなく劣ってはいるのだが、爆音をかき消すには充分であった。
ある時から、彼女は俺の空想を歌にしだした。それは数奇な感覚で、涙が出そうになった。俺の頭の中の情景は、彼女の歌の中で昇華され、まるで、天国を仰いでいるかのようだ。夜の砂漠を走る馬、雲の上で舞う月兎。時には、人間を空想した。必死に走って空を飛ぼうとする子供や、雨の中で誰かを想う女、ピアノをかき鳴らすサラリーマン(こんな言葉はもう古いだろうか)。すべて俺の空想だ。それだけだった。
彼女と出会ってから、もう三か月が経とうとしていた。変わらない砂漠もすべてが見違えるように光っていたのだ。
ふと、彼女は言ったのだ。
「あなた、詩を書く気はないの。」
俺は彼女から音楽を教えてもらったようなものだから、自分で歌を書くというのはよくわからないし、難しいと思っていた。
「俺ができるとは思わないぞ?」
「いいや。あなたには詩の才能があると思うの。大体、私が書くよりあなたが歌った方が良い歌になると思うわ。所詮、私の歌は、あなたの空想を私のフィルターを通して解釈して、自分好みの作り方でまとめ上げたものに過ぎないの。あなたは、何か鋭利な洞察眼というかそういうものを持っていると思うの。」
そういうものだろうか。
「じゃあ、どうやってお前は歌を書いているんだ?」
「うーん、そうね。」
それから彼女が言ったことの全ては意味不明だった。ガラス窓に吸い付く水滴がどうとか言っていたがほぼ理解は追い付かなかった。まるで月世界の住人のようだ。
「まぁとりあえず、一回作ってみてよ。」
適当なことを言うなと思ったが、感化され尽くしたような俺は、一人の家に帰ってから、机のパソコンをどかしてペンと白紙のノートを取り出した。彼女がただ一つまともに言ったことは、手書きで詩を書くことだった。今時、ノートなど必要もないから、帰りに買っていった。夜の静寂の中、俺は書き始めた。

最初は、今日みたいな夜のことを書き始めたのだった。月は肉に突き刺さりそうなほど鋭利にとがり、雲を蹴散らすような気配を放っている。澄んだ気配の中で、月の窓辺で俺は書いていた。
最初書いたことは救いのことだ。あいつが俺に突き付けた言葉で俺は消滅させられてしまうほどの衝撃を与えられたのだ。月に救いを求めるような人間と少女だ。それは死に怯えている俺の客観視でもあるのだった。夜の静寂、静謐は死を彷彿とさせるのだ。その夜をどう超えるのか、月下の人々が夜明けの光を目指して月に願うのだと、ありきたりなことをぐちゃぐちゃ書いたのだ。満足ではあった。正確には、満足しながらその心が拡張され続けて、延々と描いているのだ。月の下の世界の人々の微かな、隣人にも聞こえぬほどの矮小な声で、願い。それを書いた。月の裏のことも夢想した。彼の砂漠のような荒涼とした地平などがあるばかりだろうか、月の住人などもいるだろうか。俺はなにも知らないが、勝手な推測を続け、何も知らないからこそ夢想は生まれ、創作は続けられるのだ。月の調べとも言うべきか、俺は操られているようなまでの必死さで書いていた。創作は、神秘であるのかもしれない。あいつはそれを独り占めしているのだ。そう考えていた。恍惚の前には何も無意味であったが、あいつはそれについてもっと知っているのだと、俺は同じに少しでも慣れているのだと、馬鹿のように考えた。馬鹿のようにだ。
あの馬鹿どもは、この創作の魔力とも言うべき精神性を知らないのだ。それは覚悟というものだろうか。死ぬと分かっていながらも、まるで自分は死を知らないとでも言うように、夢中で書く。創作をするのだ。奴らは、おそらくだが、自分が死ぬこともわかっているのだ。爆音で耳を塞ぎながら、他人との交流で暇をつぶす。人生は八十年ほどの余白で、何もかも描くことのできる余白であるというのに、真白が塗りつぶしているのだと考えているのだ。ただ、俺もあいつに会う前は、奴らと同じだったに違いない。夢想という漠然とした消えていく波のようなもので頭は満たされていたし、憎悪は絶えなかった。それで日々を埋めた気になっていたのだ。空白で満ちた日々は、通り越せぬほどの頭痛に塗れ、過去を想起することなくすべて忘れてしまうほど退屈なのだ。退屈のための退屈が日々、毎朝用意されているのだ。
俺は創作とともに過去を思い出そうとしていた。俺が昔住んでいた田舎のことだ。大改修によってそのほとんどは失われてしまったが、確かに俺は住んでいた。砂漠に囲まれたこの都市に出てきたのは金のためだ。あんな単純な作業だけで十分な金が手に入るのだ。あの田舎町を過去として、父母を捨てて(もっとも、彼らはそれを望んでいたのだが)働き始めたのはそれが一番大きいのだ。我が父母に心入れなどない。愛を受けることもなかった上、機械はどこにだってあるのだから、それは必要なかったのかもしれない。
俺の心の中で光る記憶はその風景一つであった。絵画のような記憶。カワセミが舞い、草木は流体のように揺れ動き、ざわめき立てた。叔父によく連れて行ってもらっていた、山の中の記憶である。夏の終わりのわびしさとも言おうか、そんなようなものを掻き立てられるのは間違いかもしれないが、そういうものが湧きたつ情景であった。すべてが想像で動き出し、創作に意のままに操られて動いているかのようだ。すべての血管、葉脈、風の流れに、川の流れ、羽音と葉音もすべてに創作の息吹が宿り、音楽として露呈した感情と合わさって、俺の脳内で蠢いた。
今までの、彼女と出会う前の脳味噌では、すべてが無意味に思えたのだろう。
どうしてだろうか。

月の夜は、群青に支配されているように思えるのだ。
どこかの強盗が朝日を盗んだようで、ぎこちない。
祈りの鐘が響いた。夜を割るように。月の窓辺の俺を殺すように。
いい加減な詩ばかり。創作の中で、可憐さが躍る。
創作の中で、精神は紡ぐ。創作の中で、彼女は生きて、
創作の中で、彼女は死んだ。

全てがありきたりに思える。そう作った後に思い立った。夜明けまでは、二時間半。窓辺の俺は一人だ。

全て書ききった俺は、救いの呪いから抜け出していた。正確には、創作に支配され、創作に思考を奪われ、創作という思想そのものになっただけだ。それでいいのだとその時は感じていた。俺はどうしようもない馬鹿だった。今だってそうだ。彼女の死体を群青の下で見つけても、俺は創作のことしか考えていなかった。すべては、俺を馬鹿にするために存在しているのだと本気で思い始めたのはその時だ。

夜明けになってから、俺は何時間か眠った。起きたのは十二時だったから、正確には六時間ほど。今思うと、それが四時間だったら彼女を救えたのかもしれない。今思えば、そんな考えばかりだ。
憔悴してまでぐちゃぐちゃに書いて、出来上がった詩は、傍から見れば愚かしい無意味なメモでしかなく、狂人の戯言なのだ。俺が馬鹿で狂人であることは今に始まったことではない。救いによって開けた思考と視界では、自分を高次元的に客観視できていた。そのはずだ。
それを彼女に見せに行こうと、ふと思い立ったのだ。昨日の今日で、彼女はいないかもしれなかったが、俺には確信があった。
音楽にすればよいのだということは、安直な考えで、俺は音楽にそういう願いのようなものを持っていた。筆舌し得ない感覚や、共有し得ない情景を何もかも表現してしまうのではないかという、馬鹿みたいな期待のような感覚だ。
歩き出した地平は、うねるような熱さを抱えていた。そのせいで、汗が少しだけ滲むのだ。期待からか、早歩きになった。俺は少しおかしかった。
街から出て、砂漠の道を歩き出す。群青と砂色がくっきり分かれている地平で、俺は一人創作を終えた熱を抱えて歩く。脳味噌の中は空っぽだった。思想を枯らした俺には予感があった。楽観を背負って歩く喜劇の主人公のようである。小屋はもうすぐ。気取って歩く俺は、創作の中で閉じこもっているべきだった。着くべきではなかった。

鉛のような霧が、夜道に満ちていた。すべては空想のままで、夢の中、空を泳ぐような気配。暗闇の中、くねる砂煙が立ち上った。誰かの殴り合いの音が聞こえる。ギターの叫びが聞こえる。弱者のうめきが聞こえる。風の喧騒が聞こえる。誰かが大きめに鳴らした鐘の音が響く。俺の視界は俺にしかないものだ。
群青は、月夜は無視した。
全てを、全ての者を。一つ残らずだ。それでいい。

小屋の中は静謐で満ちていた。風の窓を揺らす音もしない。風の止んだことのないこの砂漠では異常だった。彼女はいないのだろうか。少しの思考の後、俺は窓辺の席に座った。俺はずっと遠くのことを考え始めた。ずっと遠くの田舎のことだ。夜は美しいのだろうか。星と月だけの世界はあるのか。俺には考え付かない。もう一度あの場所へ帰ったっていい。彼女も連れて行けばもっといい音楽を思いつくのだろうか。
ふいに軽い足音が聞こえた。あの犬だと、即座に気づいたのだが、姿が見えない。俺は、外にいるのだろうかと訝って、席を立った。うるさい日差しにイラつく俺は、惨状には未だ気づかずにいた。犬の姿は見えないが、足跡があった。それを愚直に追うのだった。今更、なぜだろうか。
小屋の裏手まで続く足跡をさらに追った。今思えばそれは不思議だった。いつもは二階の埃臭い部屋で眠っているはずであったし、裏手には暇をつぶせるようなものは何もない。その時は何も考えない。頭が空っぽだったからだ!
角に差し掛かるところで犬の尻尾が見えた。徐々にその全貌が見え始める。小屋の角を過ぎて、視界に少女の姿が見えた。仰向けになっている彼女をみて俺は楽観した脳味噌で近づく。その時だ。その時初めて、少女の心臓にナイフが突き刺さっているのに気が付いた。彼女の白いワンピースは、胸のあたりが赤く染まっていた。汗が異常に噴き出す。喜劇的な男は、群青の下、悲劇に遭遇したのであった。

何故、なぜ。ナゼ。何のために?何のために!
彼女の目に光はなかった。俺は彼女の手を跪きざまに確かに握った。確かに、彼女の体はここにある。それだけが分かった。今この時、この男から、魂のようなものが浮き立つ蝙蝠になってバサバサと飛び立っていったのだ。色が失せた体から、号哭のようなものが響いた。彼女の手は、初夏であるのに酷く冷たい。創作の真白さとは異なる世界に彼はいる。黒と白の真綿がキュウと頭を圧迫して、視界を朧げにした。
「俺は、俺は書いたんだ!初めて、創作をしたんだ。お前のためだ!お前のせいだ!」
何も返事などない。
「起きてくれ!」
少し、言葉に詰まる。汗は流れるままに、彼は泣き続けていた。なぜだろうか。彼は死体となった少女を愛していたのか。音楽を彼女から知って、感化されて、彼女のおかげで死ぬことから離れ始めた。変化といえばそれだけなのだ。傍から見れば何も変化などはなく、普通の生活が続いているように見える。しかしながら彼の中で大きく変化した情熱は、彼を真っ新に変えてしまった。死に怯える薄い色の顔が、見違えるようになった。もはや別人。創作によって変貌をしたはずだったのだ。
彼は、もう思考を止めていた。犬が近くで座っていた。こうして、彼の創作は散り散りになった。悲劇と喜劇の狭間に男はいた。創作の果てで彼は涙に溺れているのだった。

彼女を殺した犯人が見つかったのは、それから、二週もたった頃だった。いつか聞いた殺人のニュースと同一犯だった。過激な思想を持った、自分を正義の使者と疑わない人間だった。彼女は犯人に襲われて逃げた所にナイフが突き刺さったのだ。恨みなど考えても仕方ないのだ。もう奴は自殺してしまったのだから。
彼女は、十人目の被害者だった。
後から、彼女の両親はもう死んでいるのだと知った。保護施設では、墓を建てる金すらないのだという。代わりに俺が建ててやった。何もかももう遅い。群青の下で肖像となってしまった彼女を今でも夢想している。
後を追って死んでしまうことも考えた。俺はいつまでも悲劇を夢に見た。汗をそこら中にまき散らしながら走る彼はまるで喜劇王だ。どうして俺は、生きるのだろう。創作は生きがいになるのか。どうせ、生きてても仕方ないことも俺はわかっている。下らない唐突なバッドエンドは、どこにだってあるのだろう。彼女の墓前でそんなことを考えていた。死は不思議なものだ。神が適当に投げたナイフが突き刺さるようなもので、誰も視認できない。今更の論理だ。彼女も例外ではない。そんなことわかりきっていた。
俺は仕事を辞めた。金ももう意味がない。何に使うでもない金でずっと生き続ける。もはやこの生に目的は無くなった。元よりそんなものはなかったのかもしれないが、俺が馬鹿にした奴らの生もこんな風なものなのだろう。
不意にベッドの上で目を閉じた。

涸れた砂漠の中で俺は歩いている。
どこで踏み外すかなど、神も知らない。
空白の脳味噌で創作は踊る。
それでいい。
喜劇のように自由になったのだ。
死んでしまってもただそれだけのことだ。
風の中で彼女は群青に掻き消えた。

言い得ぬことばかりの世界は透明にも不透明にも見えて、煩わしい。
夏の終わり、換気扇の音だけがこの家に響いていた。

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