Scene1:連絡のない夜に、物語だけが増えていく
「……ねえ」
後部座席から、少し掠れた声が落ちてきました。
「今日も、彼から連絡なくて」
赤信号で止まった車内。
ネオンの光がフロントガラスを滑っていきます。
彼女はスマホの画面を消さずに、視線だけを落としました。
「結婚したいって言ってるの、私だけなんですよね。
焦ってるのも、たぶん私だけ」
「なんで、いつも私ばっかり、こんな気持ちになるんだろって」
言葉は途切れないまま、少しずつ形を変えていきます。
「私がもっと魅力的だったら、結果違ってたのかな」
「連絡こない=大事にされてない、って思っちゃうじゃないですか」
私はミラー越しに一瞬だけ頷いて、また前を向きました。
「最初は、ただ不安になるだけなんですよ」
「でも、その不安に言葉を当てはめちゃうと、止まらなくなる」
彼女は自分に言い聞かせるように、続けます。
「愛されてないとか、結婚無理なんじゃないかとか」
「気づいたら、この不安を消してくれるのは彼しかいないって思考になるんです」
小さく笑いました。
乾いた笑いです。
「で、現実に突撃して、撃沈して」
「また不安になって……ループ」
車内に、しばらく無音が落ちました。
「でもね、最近思うんです」
「これ、現実が原因じゃなくて、頭の中で作ってる話なんじゃないかって」
彼女は窓の外を見ながら、ぽつりと。
「彼が冷たいとか、優しいとか」
「それ自体より、そこから勝手に物語作ってるの、私なんじゃないかって」
少し間を置いて、こちらを見ました。
「ねえ、ドライバーさん」
「こういう時って……どう捉えたらいいと思います?」
「……そうですね」
私はハンドルを握ったまま、すぐには言葉を選びませんでした。
「今のお話を聞いていると」
「感情が先に湧いて、その後から言葉が追いかけてきているようにも聞こえました」
彼女は黙って、続きを待っています。
「不安が出てきた瞬間に」
「愛されていないとか、この先一人かもしれないという名前を付けてしまう」
夜の街を抜けながら、私は静かに続けました。
「名前が付くと、感情は、事実みたいな顔をするんですよね」
「でも、それは感情そのものというより……思考の物語だったのかもしれませんね」
彼女が、息を吸う音が聞こえました。
「物語が膨らむと」
「人は現実を動かして、結論を取りに行きたくなる」
「確かめて、安心したくなる」
バックミラーの中で、彼女の表情がわずかに緩みます。
「でも、安心できないとき」
「やっぱりダメだったという別の物語が、また始まる」
彼女は小さく頷きます。
「苦しいのは」
「彼との関係そのものというより」
「苦しいというプールに、思考ごと浸かっている状態だったのかもしれません」
信号が青に変わります。
「プールから上がれば、水は体から落ちる」
「でも、水の中で泳ぎ続けていると、苦しさは続く」
私は、結論めいた言い方は避けました。
「頭の中のお喋りを止める、というより」
「お喋りが起きていることに、気づいている時間を持つだけで」
「物語は、少し力を失うこともあるのでしょう」
彼女は、窓に映る自分の顔を見つめながら言いました。
「……全部、幻だったのかもしれないですね」
「そう感じる瞬間が、あったのかもしれませんね」
車は、彼女のマンション前に静かに止まりました。
彼女はドアを開ける前に、少しだけ振り返ります。
「答え、もらおうと思ってましたけど」
「なんか……今日は、これでいい気がします」
夜の冷たい空気が、車内に流れ込みました。
私は何も言わず、ただハザードを消しました。
