【ネタバレあり】『シラート』をもう一度考える──これは絶望の映画ではなく、「死ぬ前に死ぬ」ことで救われる映画だった
※この記事は映画『シラート』の結末まで触れています。
映画を観た直後、私は「とんでもない映画を観た」という感覚しかありませんでした。圧倒的な音楽、レイヴカルチャーの異様な没入感、そしてようやく訪れたカタルシスを一瞬で地雷が吹き飛ばしていく衝撃。その体験だけで十分に満足していました。
実際、最初に書いたレビューも、レイヴという空間が持つ熱狂や、観客までパニックへ巻き込む映画体験について書いています。
ところが、その後に様々なレビューや解説を読み、自分の中でこの映画の見え方が少しだけ変わりました。
この映画は「レイヴ映画」ではなかった
映画評論家・町山智浩さんの解説では、『シラート』はスーフィズム(イスラム神秘主義)を背景にした宗教映画として読み解かれていました。まぁまぁレイヴってそういうところあるよねと思いつつ、読み進めるうちに「ああ、だからあの描写だったのか」と腑に落ちる部分が次々と出てきました。
特に印象的だったのが、「死ぬ前に死ね」という考え方です。肉体が死ぬ前に、一度、自我を死なせる。そのことで初めて、本当の意味で自由になれる。この考え方は、実はレイヴカルチャーにもどこか通じているように思いました。
レイヴは、自我を壊す場所でもある
私はレイヴへ行った経験があります。だから、この映画で描かれていた感覚はよく分かります。
音楽に何時間も身を委ね、極限まで疲れた身体で踊り続ける。そこでは、自分が積み上げてきた価値観やプライドが突然崩れることがあります。時にはドラッグによって、自分でも見たくなかった感情と向き合う人もいるでしょう。
「あの時の自分は間違っていた」「今までの生き方は何だったんだ」。
そんなふうに、自分自身が一度壊れる。あれは単なる気づきではなく、精神的な死と呼んでもいい体験だと思います。だから町山さんが、レイヴとスーフィズムを重ねて語っていたことにも、とても納得しました。
ルイスはすべてを失って、自我も失った
主人公ルイスは、息子を失います。あれ以上の絶望はないでしょう。自分のせいで大切な存在を失う。その後悔は、自我を粉々に砕くには十分すぎます。
だから終盤、音楽に身を委ねて踊るルイスは、悲しみを忘れていたわけではない。悲しみを抱えたまま、自我だけが消えていた。あのダンスは、レイヴの高揚感というより、自我から解放された瞬間だったのかもしれません。
一番好きなシーンは、やっぱり地雷だった
それでも、一番衝撃を受けたシーンは変わりません。
ルイスが踊り始め、それを見たジャドが最高の笑顔で盛り上げる。「ああ、これだ」。レイヴを知っている人なら、あの瞬間の高揚感は痛いほど分かると思います。
もっと上がれ。もっと踊れ。もっと解放されろ。
そんな空気が最高潮まで高まった、その瞬間、地雷が爆発する。
正直、笑ってしまいました。もちろん悲劇です。でも映画としては、「そこか!」という最高の裏切りでした。カタルシスをここまで積み上げて、一瞬で破壊する。しかも観客ごと。あの大胆さには拍手しかありません。
本当に伝えたかったのは、その先だった
最初の私は、そこで映画が終わったような気になっていました。でも違いました。
本当に重要だったのは、その後です。
地雷原を越えたルイス。そして最後、列車の中で見せるあの穏やかな表情。レビューを読むまでは、「疲れ切った顔」くらいにしか思っていませんでした。
でも今は違います。
あれは救われた人の顔だった。
息子を失った悲しみは消えていない。それでも前を向ける。肉体の死を迎える前に、自我の死を経験した。だからもう恐れるものがない。あれは絶望ではなく、再生だったのだと思います。
救いは、最後にちゃんとあった
『シラート』は無慈悲な映画です。何度も希望を裏切り、何度も観客を突き放します。だから最初は、救いのない映画だと思いました。
でも今は逆です。
この映画は、救いがない状況でも、人は救われることがあると描いていた映画だったのではないでしょうか。
自我が壊れた先にしか見えない景色がある。悲しみを消すことはできない。でも、その悲しみを抱えたまま前へ進むことはできる。ルイスの最後の表情は、それを静かに教えてくれました。
観終わった直後より、少し経ってからの方が、この映画は心に残っています。爆発の衝撃よりも、その後に残った静けさの方が、今ではずっと大きく感じています。
だから『シラート』は、レイヴ映画でもロードムービーでもありません。
私にとっては、「死」と向き合うことで初めて「生」を取り戻す、その精神の旅を描いた映画でした。
