#29 『バリ山行』松永K三蔵 (著) 読書感想ノート〜「まぼろし」と「実体」と「死(デス)」の話です。
松永K三蔵さんの『バリ山行』、 芥川賞受賞作品を読みました!
やっと感想を書きました!

ずっと感想が書けなかった。
(簡単なあらすじ)
会社員の波多(はた)が、孤立した同僚・妻鹿(めが)に誘われて、整備された登山道を外れる危険な山歩き「バリ」に踏み込んでいく話。
リストラの不安を抱える日常と、一歩間違えば死ぬ山の中と、どちらが「本物」なのか。
※「バリ」=バリエーションルート
読み終えたとき、「いい作品だな」と感じました。
登山の描写は手に汗握る感じで。
そしてなんだか、身につまされる。
中年男性のリアリティみたいなものがある。
これはいつか読書感想ノートを書こう、と思ったのですが。
そこから感想記事がずっと書けなかった。
良い作品だったな、という気持ちはあったのに、言葉にすると何かが違う気がした。
まあ、じっくり書きながら考えましょうという感じで今、書いています。
そんな時間もありってことで。
妻鹿(めが)さんの言う「まぼろし」
まぼろし〜!!
…はい。すみません。
妻鹿(めが)さんという人物が出てきます。
主人公の波多(はた)の同僚で、一匹狼みたいなキャラの人です。
ひょんなことから、波多は妻鹿さんが一人でバリ山行を趣味にしていることを知る。
それで一緒にバリ山行に連れて行ってもらうことになる。
波多の会社は経営が不安定のようで社内ではリストラが始まるという噂がある。
彼もその中で不安を感じているという状況がある。
そんな中で、妻鹿さんはこんな言葉を吐く。
「会社がどうなるかとかさ、そういう恐怖とか不安感ってさ、自分で作り出してるもんだよ。それが増殖して伝染するんだよ。今、会社でもみんなちょっとおかしくなってるでしょ。でもそれは予測だし、イメージって言うか、不安感の、感でさ、それは本物じゃないんだよ。まぼろしだよ。だからね、だからやるしかないんだよ、実際に」
この言葉。
妻鹿さんという人らしさがでています。
羨ましい。
こんな吹っ切れて言い切れるのが。
でも、会社がどうなるか、そういう日常の不安って「まぼろし」なんだろうか。
主人公も、そして読者の僕も、同じ問いのなかで呆然とする。
作品を読み終えても、僕が中々感想を書けなかったのは、
きっと、この問いに対しての僕の答えも簡単じゃないからだ。
去年、僕もトレッキングなどに行った。
テレビでもよく「熊が出る」ニュースが賑わっていた。
何となく「熊に出会ったらどうしよう」と思った。
熊鈴を持っていったり。
熊スプレーって効くのかなと思ったり。
出会ってしまって、うっかり死ぬのは嫌だな。
怪我もしたくない。
家族に心配もかけたくない。
熊じゃなくても、うっかり遭難したり。
山で怪我して立ち往生…そんなのも嫌だ。
根がインドアだからか。
妻鹿さんのようにはなれないなと、僕は思った。
僕が軟弱だからなのだろうか。
日常は本当に「まぼろし」か
僕も、每日10時間以上、仕事場で過ごす。
それなりにヘトヘトになる。
プレッシャーを感じるときもある。
どうにもならないことで四面楚歌みたいな気分になるときもある。
それでも給料を毎月もらっているから生活が成り立つ。
それを「まぼろし」と言い切れるか。
時間もエネルギーも使っている。
身体性が無いとは思えない。
妻鹿さんは、ナタを握って藪をかき分け、一寸先は闇の中を突き進む。
僕は、マウスを握って、ディスプレイを睨み、疲れ目と肩コリに悩む。
作品では、波多が妻鹿さんに憧れる形で、その実存に近づいていく。
僕は、そこに完全に同一化はできない。
「なんかねえ、バリをやってるといろんなことを考えちゃうんだよ。で、それでも確かなもの、間違いないものってさ、目の前の崖の手掛かりとか足掛かり、もうそれだけ。それにどう対処するか。これは本物。どう自分の身を守るか、どう切り抜けるか。こんな低山でも、判断ひとつ間違えばホントに死ぬからね。もう意味とか感じとか、そんなモヤモヤしたものじゃなくてさ。だからとにかく実体と組み合ってさ、やっぱりやるしかないんだよ」
妻鹿さんの言葉には「確かに…」と思わせるものがある。
それなのに、僕はどこか納得がいかない。
何が気にいらないのか。
よくわからない。
計画された「外部」という転倒
たぶん。
僕も、妻鹿さんは、たしかに理想的な存在だとは思う。
主人公の波多が憧れるのもわかる。
男ってある時(男じゃなくともたぶん)、自分の中のロックスターを誰かに投影し見出すときがある。
先輩だったり。
師匠的な人だったりする。
例えば、夏目漱石の『心』だったら。
「先生」みたいな存在に驚き、理解しようとして近づく。
それは「恋」と同じことだ。
妻鹿さんは、日曜日や振替休日にバリ山行をする。
彼にも職業があり、社会生活がある。
収入があり街に住む。
でも、その外部が山のなかにあり。
バリルートに入り込めばリアル(実体)があると感じている。
だから、日曜日に意図的に、計画的に、自分をそこに持っていく。
そこ、とはどういう場所か。
「判断ひとつ間違えばホントに死ぬからね」の場所である。
妻鹿さんは「死」を意識して感じることを通して「実体」を感じている。
ただのスポーツの趣味ではないのだ。
ハイデガーの実存哲学的に言えば、「死への先駆(先駆的投企)」だ。
ハイデガーは、世間の常識や噂話に同調して生きている状態を「非本来的な生き方」と定義づけた。
妻鹿なら「まぼろし」と言うだろう。
ではどうすればいいの?
はい。
「誰にも代わってもらうことのできない、自分自身の死の可能性」を直視すること。
「死への先駆」、というハイデガー哲学と全く同じことを妻鹿さんはやっている。

妻鹿さんの登山アプリのアカウント名は「MEGADETH(メガデス)」です。
メタルバンドの名前から文字ってますが。
「MEGADETH(メガデス)」の由来、元々は「Megadeath(大量殺戮)」から来ているようだ。
要するに、何が言いたいかというと妻鹿さんは、「死ぬこと」を使って生き生きしたがっている、ってことなんじゃないか。
この感覚について僕は部分的に「分かる」と思いつつ。
嫌だなとも思う。
なぜかよくわからないけど、少し欺瞞的に感じられるからだ。
それはドラッグを摂取するように、死を摂取しようとする生ではないか。
「日常=まぼろし」「山=実体」——このラベル自体がまぼろしの構造ではないか。
もっと言えば。
妻鹿さんは、妻鹿さんらしくないほど言葉が達者だ。
まるでハイデガーか三島由紀夫みたいなことを、饒舌に語る。
バリの最中にだ。
僕にはそれが、「実体」と言いながら、「死の観念」を使いこなしている人にも見えてくるのだ。
「──感じるんだよ。崖とか斜面を攀じ登った後ってさ、全身が熱くなって昂ってね。墜ちたら死ぬような危ないところだと特に。で、そういう後で、誰にも会わずに淡々と、ずぅっとこんな径を歩くとさ、聞こえるのは山の音だけで、あとは自分の呼吸と足音。それが混ざって、なんか気が遠くなって、ボーッとしちゃって。そしたら感じるんだよ。もう自分も山も関係なくなって、境目もなくて、みんな溶け合うような感覚。もう自分は何ものでもなくて、満たされる感じになるんだよ」
妻鹿さんの言う通りだ。
確かに、そんな状況のとき。
血が沸き立つ感覚がある。
間違えたらマジで死ぬ、というアレだ。
そしてそれは快感になる。
だから、僕はそれがドラッグみたいだと思う。
でも、人間ってそんなふうに生きなきゃ、生を全うできないのだろうか。
快感を求めてバリに入る。
バリから帰って家に戻る。
家の中の部屋はどこなのか。
まぼろしか。
血が沸き立たずに生きている身体は実体ではない?
死の影を感じない時間は実体でははない?
でも本当にその時、死の影が全く無いと誰が言えるだろう。
僕にはまだ、明確な答えはない。
問いだけがある。
