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【小説】Bar Qの夜 第一夜 「原点」

副業や起業は、始めたあとに「何のために始めたんだっけ」と見えなくなることがあります。

これは、そんな夜の話です。


「もう一軒だけ、寄りませんか」


二軒目を出たところで、久遠さんがそう言った。

高瀬亮介は、少し意外そうに久遠さんを見た。

時計はまだ、終電を気にするほどの時間ではない。
けれど、明日のことを考えれば、そろそろ帰ってもいい頃だった。

「まだ行くんですか?」

高瀬は、そう苦笑いしながらも、上着のボタンを留め直した。

「しょうがないなあ。久遠さんだからですよ」

久遠さんは、少しだけ笑った。

「私のお気に入りのお店があるんです」

高瀬は、その誘いをむげにはできなかった。

久遠さんは、ただの飲み仲間ではない。
これまでに何人も客を紹介してくれた。
そのうち何人かは、高瀬から高級外車を買っている。

一台ではない。
数台だ。

外車ディーラーの営業として、久遠さんの紹介はかなり大きかった。

それに、久遠さんがこうして別の店に誘うのは珍しかった。

だから高瀬は、少しだけ気になった。

「お気に入りって、どんな店なんですか?」

「小さな店です」

久遠さんはそう言って、細い路地へ入っていった。

表通りの灯りが、少しずつ遠くなる。
飲食店の看板も、人の声も、後ろに置いていくようだった。

「お気に入りって、こんな奥なんですか」

高瀬が言うと、久遠さんは振り返らずに答えた。

「ええ。少し、わかりにくい店で」

路地の奥に、古い木の扉があった。

看板はない。
ただ、扉の横に小さな真鍮のプレートがある。

Bar Q

それだけが、薄い灯りに浮かんでいた。

「……本当にやってます?」

高瀬が言うと、久遠さんは少しだけ笑った。

「今日はやっています」

そう言って、久遠さんは扉を開けた。

中は、思ったよりも狭かった。

カウンターに席が四つ。
テーブル席はない。
壁には余計な飾りもない。

流行っている店には見えない。

けれど、不思議と荒れてはいなかった。

カウンターは磨かれている。
グラスは曇っていない。
酒瓶は多すぎず、少なすぎず、必要な場所に収まっている。

どう見ても繁盛店ではない。
でも、潰れそうな店にも見えなかった。

カウンターの奥に、男がいた。

五十代半ばくらいだろうか。
白髪が少し混じっている。
白いシャツに、黒いエプロン。

声を出す前から、静かな人だとわかるような佇まいだった。

「ヒデさん」

久遠さんが呼ぶと、男は小さくうなずいた。

「こんばんは」

「こんばんは」

ヒデさんは、それだけ言って、グラスを二つ出した。

久遠さんは、カウンターの端から二つ目の席に座った。
高瀬は、その隣に座る。

残りの二席は、空いたままだった。

店が空いているからというより、最初からそこには誰も座らないように見えた。

「軽いものでいいですか?」

久遠さんが高瀬に聞いた。

「はい。もうけっこう飲みましたし」

高瀬がそう言うと、ヒデさんは特に聞き返さなかった。

しばらくして、薄い琥珀色の酒が出てきた。
高瀬は一口飲んで、小さく息を吐いた。

「いい店ですね」

「ありがとうございます」

ヒデさんはそう言って、またグラスを拭き始めた。

少し沈黙があった。

その沈黙を埋めるように、高瀬が話し始めた。

「実は、けっこう大きな話が進んでたんですよ」

久遠さんは、何も言わなかった。

高瀬は続けた。

「僕、外車のディーラーで営業をしてまして。ありがたいことに、けっこう売る方なんです。高い車を買うお客さんも多いので、まあ、富裕層の知り合いはそれなりにいます」

言い方は軽かった。
けれど、自信があることは隠していなかった。

「妻がDIYが好きで、家具を作るんです。棚とか、台とか、収納とか。すごくセンスがあるんですよ。僕はずっと、これは売れると思っていて」

ヒデさんは、黙って聞いていた。

「で、ある日言ったんです。君の家具、俺が売るよって」

高瀬はそこで少し笑った。

「妻、泣いたんですよ。そんなこと言ってくれると思わなかったって。自分の作ったものをそんなふうに見てくれてたんだって」

グラスの氷が、小さく鳴った。

「だから、僕も本気になりまして。知り合いにも声をかけたんです。そしたら、こういうものを作ってくれるなら買うよって人が何人もいて。高級車のお客さんって、家にもこだわる方が多いんですよ。既製品じゃなくて、自分の暮らしに合わせたものが欲しい人も多い」

高瀬の声に、少し熱が入った。

「これはいけるなと思いました。AIも使って事業計画書を作りました。市場規模も調べて、ターゲットも整理して、初年度の売上も見込みました。うまくいけば一億は見えるなと」

久遠さんは、グラスに口をつけた。

「金融機関にも相談しました。反応は悪くなかったです。むしろ、これならいけそうですねって。僕は営業できますし、顧客もいますし、妻は作れる。かなり現実的な話だったんです」

高瀬はそこで、少し黙った。

酒を一口飲む。

「それで、融資が決まりかけた直前に、妻に事業計画書を見せたんです」

ヒデさんの手は止まらない。
布巾が、グラスの縁をゆっくりなぞっている。

「そしたら、妻の顔が変わったんです」

高瀬は、視線を落とした。

「最初はあんなに喜んでたんですよ。僕が売るって言った時は、泣いて喜んでたのに。事業計画書を見せて、融資も決まりそうだよって言ったら、思い詰めたような顔をして」

グラスを持つ手に、少し力が入っていた。

「少し考えさせてって言われました」

久遠さんは、高瀬の方を見なかった。

「その翌日に」

高瀬は、笑おうとして、うまく笑えなかった。

「やっぱり、やりたくないって言われました」

店の中が、少し静かになった。

外の音は、ほとんど聞こえない。

「意味がわからないんです」

高瀬は言った。

「だって、売れるんですよ。買いたいって言ってる人もいる。金融機関も前向きです。初年度から一億円も見込める。妻の才能も活かせる。僕も本気でやるつもりだった」

そこまで言って、高瀬は少し首を振った。

「何が嫌なのか、本当にわからないんです」

ヒデさんは、磨いていたグラスを棚に戻した。

そして、少しだけ間を置いた。

「奥さんは普段、どんな家具を作るんですか?」

高瀬は、すぐには答えなかった。

さっきまで滑らかに出てきた言葉が、急に止まった。

高級車の顧客。
見込み客。
事業計画書。
融資。
初年度一億円。

その話なら、いくらでもできた。

でも、妻が普段どんな家具を作っていたのか。
そう聞かれると、高瀬はなぜか、すぐに言葉にできなかった。

「ええと……」

高瀬はグラスを見た。

氷が、ほとんど溶けかけていた。

「小さい棚、とか」

ヒデさんは、うなずかなかった。
ただ、聞いていた。

「子どもの荷物を置く台とか。キッチンの隙間に入る収納とか。友だちに頼まれて、玄関に置く細い棚を作ったり」

言いながら、高瀬の声は少しずつ小さくなっていった。

「あと、古い家具を直したりもしてました。捨てるにはもったいないって言って」

久遠さんは、何も言わない。

ヒデさんも、何も言わなかった。

高瀬は、もう一度グラスを持った。
けれど、飲まなかった。

「そういうのを、作ってました」

ヒデさんは、小さく言った。

「そうですか」

それだけだった。

その夜、高瀬はそれ以上、事業の話をしなかった。

しばらくして、久遠さんが会計を済ませた。
ヒデさんは、いつものように静かに頭を下げた。

店を出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。

高瀬は、路地を歩きながら言った。

「変な店ですね」

久遠さんは笑った。

「そうですか?」

「もっと何か言われるのかと思いました」

「何か、ですか」

「いや、妻を説得する方法とか。事業の進め方とか。もっと小さく始めろとか」

久遠さんは、少しだけ前を歩いていた。

「必要でしたか?」

高瀬は答えなかった。

表通りの灯りが、近づいてくる。


高瀬はふと、妻が作っていた細い棚のことを思い出していた。

玄関の隙間にぴったり入る、靴べらと鍵を置くための棚だった。

あれを作った時、妻はたしか、寸法を何度も測っていた。
友人の家の玄関の写真を見ながら、そこに置かれる傘立てやベビーカーの位置まで気にしていた。

売れるかどうかの話ではなかった。

誰かの暮らしの中で、邪魔にならず、ちゃんと使われるかどうか。

たぶん妻は、そういう顔をして作っていた。

高瀬は、何も言わずに歩いた。

久遠さんも、何も言わなかった。


数週間後。

久遠さんは、いつもより少し早い時間にBar Qへ来た。

片手に、細長い包みを抱えている。

「今日は、ヒデさんにプレゼントを持ってきたんです」

カウンターの奥で、ヒデさんが顔を上げた。

久遠さんは包みをほどき、小さな木製のカトラリーボックスを取り出した。

フォークやナイフを入れるには、少し浅い。
けれど、バーで使うマドラーや小さなスプーンを並べるには、ちょうどよさそうだった。

木目はきれいに残されている。
角は丸く削られていて、手に取っても引っかからない。
底には、古い家具の一部だったらしい小さな傷が残っていた。

「この前の彼の奥さんが作ったそうです」

ヒデさんは、その箱をしばらく見ていた。

「店のものですか」

「ええ。Bar Qに合いそうだからって」

久遠さんは、少し笑った。

「最初は売り物じゃなかったそうです。でも、作ったあとで値段を聞かれて、初めて自分で決めたそうです」

ヒデさんは、小さくうなずいた。

「そうですか」

そうつぶやくと、カトラリーボックスをカウンターの端にそっと置いた。

それはまるで最初からここにあったように見えた。


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