見出し画像

器を広げることと我慢は違う

器の大きい人って
どういう人なんだろう?

最近よく考える。

人との関係の中で、境界線を
意識する出来事があった。
その中で、自分の中にある
〝自我〟にも気づいた。

刺激を受けている時、少なくとも私は
どうしても自分の視点が中心になる。
それは悪いことではなく
自然な反応だと思う。

でも時間の経過とともに
相手にも相手の景色があったことに
気づく───────

そこに気づく時間をもたなければ
「私が我慢すればいいんだ」
「もうこのことには触れない」
「なかったことにしよう」
このような感情に支配される。
これは「器」ではなく
「我慢」なんだと思う。


境界線を引くことは
相手を拒絶するものではない。
自分を守るためでもあり、
相手を正しく理解するための距離
でもある。

相手にも、相手の景色がある。
そのスピードも
言葉の選び方も違う。
その違いを「正しい・間違い」で
見るのではなく
「違う景色を持っている」
捉えられるようになった。

境界線を持つことは
心を閉じることではない。
むしろ、自分と相手の両方の景色を
見るために必要なものだと思う。
相手を1人の人間として見られる
距離を作るためにあるのだと────

「器を広げる」とは
「我慢を増やすこと」ではなく
境界線を持ちながら
世界(視野)を広げることなのかもしれない。


時間の経過とともに
昇華されていく私の想いだった。

いいなと思ったら応援しよう!