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共依存する私たち どこまで行ける

人様の文章でスタートして申し訳ないが。様子が目に浮かぶ感じがよく、イントロにお借りする。

こちらからお借りした。

私は私で、また違う書き方で解説していく。

さすがに共依存が何かは知っている。こんなによく聞く言葉・みんなが知っている言葉なのだからと思った人へ。I know の理由にそれらが脳裏に浮かんだ場合、おそらくわかっていない。

念のため、一度言っておくけれど。私がこういう言い方をする時、知らないことをミリも責めていない。どの立場で「責める」んだって話だし。この言葉の成り立ち(発生当時から今までの変化)は、やや複雑だからね。


“ What's in a name? ” の話をする。つながりは後でわかる。

我が敵は汝の名前のみ。モンタギューとは何か。手でも足でも腕でも顔でも、その他どの部位でもない。名に何があると言うのだ。我々がバラと呼ぶものは、どんな名前で呼んでも、同じように甘い香りがするではないか。

この一節が好きだ。

『ロミオとジュリエット』では、憎しみの対象を「名前」に限定しようと試みるヒロインを用いて、思春期の人間がものの本質を見極めようとする姿勢が描写されている。

今まで親や世間が自分に説いてきたとおり「モンタギュー」(つまり、これは一例である)が敵だとしても、自分がこの青年に恋をしていることはゆるぎない事実だと。実体験で世界を学び直したのだ。ロミオと出逢い情熱的なロマンスを経験し、名前と実体とは別物であるということを発見した。

ジュリエットは賢明な人だ。


フリードリヒ・ヘッベル曰く、「1つの嘘で1つの真実を失うことになるのではなく、真実を失うことになる」

私が嘘を絶対につかない時、これと同じことを考えている。全身全霊をかけなくては到達できない・かけたとて届くかわからないものがある。嘘などで見に行けないなんて割にあわない本当に美しいものが、この世には存在する。要するに、私は嘘をつく時は嘘をつく。自分が身勝手に、どうでもいいと感じたものに対して。この感覚は私に、自分の道徳心は並みレベルであると、よくわからせてくる。

T.S.エリオット曰く、「詩人の仕事とは、新しい感情を見つけることではなく。ありふれた感情を利用しそれを詩に仕上げることで、実際の感情には全くない感覚を表現することである」

宮沢賢治レベルの人間に対する感謝が改めてわいてくるような、そんな言葉だ。こんなふうに考えていたエリオットもすばらしい。おっしゃるとおりだと思う。


共依存の話まだ?まだだ。

Apologetics(弁証学)
宗教の教義や信仰を擁護し説明する分野。

「人間は考える葦である」「ヘクトパスカル」などで世界中の人々から知られているパスカルが企図していた、キリスト教弁証論。(人間の悲惨さからの神の必要性、その論理的道筋を説こうとしていたと推測される)

その準備として彼が思考を書きとめておいたメモ類が、後にまとめられた『パンセ』で。

理性の欠如や判断力の欠如をさす「盲目」という言葉が、人間の現状を表す重要な表現の1つとなっている。パスカルは、盲目と光の獲得という2種類の状態の人間について、説明しようとしていたようだ。

ヨハネの福音書9章の、見える人/見えない人あたりね。当時でも今でも解説が要るよ。

わからないでしょう。
初見・補足説明なしでわかる人なんていないよ。

言うて『パンセ』の内容は難解であるため、現代の牧師さんから聞いた方がわかりやすい。

こちらからお借りした。

宮沢とパスカルには通ずるものがあるよな。

デカルトは、ペルゲのアポロニウスの円錐曲線論に関する秀れた論文を書いたのが16才の少年であることに驚愕し。その他大勢が、『パンセ』を(構想段階のメモ書きだったのに)思想史上最も深遠な人間性に関する考察だと評した。

37年と39年ーー2人とも、短い生涯で多岐にわたる数々の偉業を成しとげた。2人とも、信じた道を常につき進んだからだ。

父親の税務管理の仕事を楽にしようと、機械式計算機の設計に昼夜を問わずとりくんだことから、元々虚弱体質だったパスカルはさらに健康を害してしまったが。

そんな彼の代わりに、気圧計をもって山へ登りさまざまな高度で調査をしてくれた、義理の兄弟がいた。

フランスの火山だ。
今は、観光地で登山道が整備されているようだが。
1600年代に絶対そんなものはなかった。

互いに深く思いやりあい思想を刺激しあえる、最愛の妹もいた。

強烈な神秘体験を経て「決定的回心」をしてからは、宗教的思索に全力でとりくんだ。心をうたれたことを追いかけるのって、カッコイイよ。

「パスカルの賭け」については、動画をお借りする。短い動画だ。端的にまとまっているから選んだのでなく、こちらが本質をとらえていてよかったから選んだ。

パスカルと彼のファミリーが力をあわせたことは、今回の話に関係ある。


誤解や誤用されてきた他の心理学的表現のように(以下参照)、共依存という言葉も独り歩きしているのだろうか。

起源をたどってみよう。

1920年代まで。アルコール依存症は、個人の意志の弱さや、(それをやめる)個人的な動機の欠如に起因すると考えられていた。

1930年代。アルコール依存症は、個人がほとんど~全くコントロールすることのできない病気として、再定義された。

ここまでをこのように↓言ってもよいかと。

本人の意志の弱さが主な原因とされていた = 医者がどうこうできるようなものではないという認識に近かったものが、専門家により病気として認定されてからは、医療化されるようになった。

1970年代。アルコール依存症治療の提供者らが、医療モデルの一元性に限界を感じはじめた。治療をほどこすと改善は見られるのだが、それ以上よくなることはない的な。そこで。社会的ネットワークや家族関係の文脈の中でアルコール依存症を治療する、という新しい方法がとり入れられた。

新しい治療方針はどこからきたの?と気になるだろう。時系列を少し戻す。

1935年。米国東部にて中流階級の白人男性のアルコール依存症者たちが、自らの回復をめざして、宗教的かつ秘密結社的な集まり Alcoholics Anonymous(AA)を創始した。関与した数名の学者らによって示された12ステップの治療法は、実際、かなりの効果を発揮した。

1951年。その学者らの1人の妻が、アルコール依存症者本人とその家族のための回復プログラム(12ステップの治療法にもとづく)Al-Anon を開始した。アラノンと読む。ちなみに、今では一般的に知られている、悩みや苦しみを当事者らが打ち明けあうタイプのものだった。

これらの自助グループの独自の提案が、それまでよりベターな結果(再発率が低下したり・禁酒期間が延びたり)を出したため、1970年代のような流れになったのだ。

この段階で、アルコール依存症者のパートナーや家族が治療プロセスにくみこまれたのが、わかるだろうか。


1980年代。薬物依存症とアルコール依存症に複数の共通点が見出されると、化学依存という用語が採用された。2つの類似点をより適切に反映する用語だと。ぶっちゃけて言うと、アル中とヤク中をまとめて呼ぶとしたらこうだろうと。

「共〇〇依存」という言葉は、当初、〇〇に依存するパートナーとの関係に強迫的な偏愛を抱くことをさしていた。つまり、〇〇依存者依存症という感じであって。つまり、「アル中と一緒に生活する人も、人生がアルコールによってむしばまれているという点では、同じだろ」こうではない。

医療現場で、アルコールや薬物といった〇〇の部分がそぎ落とされ。いつしか、「共依存」という呼び方に変わっていたと言う。

総じて発音しづらかったため、という解説を読んだことがあるのだが。co-alcoholic が co-dependency より発音しづらいか?笑。co-alcoholic dependency と言っていたのだとしても、co-alcoholic に短縮すればいいだけでは?先ほど書いた、まとめて化学依存、のような流れに近かったのではないかと推測する。

それならわかる。対象物の違いで区別する必要性を感じないほど、問題点などが似ているのだろう。

アルコール依存症の人と恋愛関係や結婚関係にある人・両親や祖父母の内の誰かがアルコール依存症である人などが、この共依存というカテゴリーに分類された。


次第に明らかになっていったことがあった。

それは、同じ症状に苦しむ他者との交流のように、家族からの隔離もアルコール依存症からの脱却に効果的であるということだった。

治療(おそらく入院を含むもの)を経て回復のきざしの見えた患者らを、家族関係の中へ戻すと。シラフのままでいることが再び困難になってしまう。そういう結果が相次いだのだ。

どうしても開放感を感じてしまうのだろうな。家庭がリラックスできる場所なんだね・よかったねと、言いたいが。アルコール依存症を治すのが第一目標だもんな。

あらゆる依存症が治るかどうかにはその家族が関係してくる、という認識がさらに高まっていった。さまざまな依存症を人間関係のコンテクストの中で把握する傾向が、一層強くなっていった。

雰囲気だけの話ではなかった。

機能不全的な態度や行動を示していたのは、アルコール依存症者本人だけではなかったこと。アルコール依存症者の周囲には、高い確率で、依存症者の依存心に依存するというかたちで、この病気に「手を貸してしまっている人間」が存在すること。こういったことがどんどん確認されていったのだ。

通常、依存症者の配偶者であった。


あるあるのよくない流れらしいけれど(Wikiに書いてあった↓)。私も、あまり悪い話には思えないのだよな。

それ共依存だよ!ヤバいよ!などと責め立てると、
よけいにその傾向を強めてゆくとある。へー。

こういう曲を聞くとわかりやすいが。この一連のことに関して、真逆に近いくらいの視点や価値観で世界を見ることは、可能なわけで。

共依存ヤバいとか、鬼の首をとったかのように誰かを責めている奴なんて、まぁそのレベルだよなと。(用語の意味を知らないことを全く責めていない時とは違って。今私は、ハッキリとある種の人らをバカにしている。イマジネーション能力の乏しい奴らだなと)

彼ら彼女らは enabler と名づけられた。

また記号か。私的にメタ分析の嫌さに似ている。濁音のせいか、なんか怪獣みたいな響きだし。まぁ、便宜上、必要だよな。

二重の意味をもつ用語。否定的な意味では、enable は問題行動の文脈で使用される。支援を意図したアプローチが、実際には、問題を永続化させる可能性があることをさす。enabler 無しに長期間中毒者でいることは非常に困難。定義系にこんなコントラバーシャルなこと書いてあってびっくり。それほどよくあるってことなのかね。
enable は本当は、可能・できるの方の言葉だよ!

(イントロにお借りした文章にあったような)二日酔いで朝起きれない人に代わって会社に連絡を入れるだとかが、イネイブリングの例ね。

責任を肩代わりすると、本人が感じるべきだった後悔などを軽減してしまう。喉元すぎればーー状態になりやすい。あやまちをくり返しやすいと。患者がアルコール依存からぬけ出すには、イネイブラー側の変化も重要であるという見解が示されるようになった。

じゃあ、これもダメだろ。

私のお気に入りポイント、
社畜由来であろう「シャチくん」😂

少し個人的な話をはさむ。

身近な人に心を鬼にして、酒が原因で起きた失敗をカバーして失敗ではなくしてあげることを極力しないよう、努めている。最終的に相手が落ちることにつながる、という説を知ってから。絶縁するとかではない。その時その時、ほうっておく~つきはなすようにしている。


イネイブラーたちを深く見ていくにつれ。アルコール依存症を続けさせてしまうという位置づけでは済まされない、また別の問題がそこにあることが判明し。イネイブラー自体、深刻な病理を抱えた存在としてあつかわれるようになった。

依存症治療センターなどは、イネイブラーと呼ばれる人たちに対しても、定期的に治療や支援サービスを提供するようになった。いわゆる、共依存治療である。

出た。「今日はみんなに、このクラス:病気の新しい仲間を紹介する。これから仲良くするように。共依存さんだ」

1990年代に近づき。「共依存」という言葉はより広い意味をもつようになっていった。

例として。利己的な人やナルシシストに、習慣的に惹かれること。他人を犠牲にしてでも、反射的に人の世話をしようとすること。

カラヴァッジオの『ナルキッソス

このような人々が、さまざまな嗜癖者(しへきしゃ)の周辺に共通して見られることが明らかになると。「嗜癖者との関係にコミットして生きた結果として、自分の人生が手におえないようになった人」というような意味あいに。

嗜癖者との関係性の病理を表す言葉としても、共依存という概念が成立するにいたった。

これで、一通りの解説はできたと思う。


パートナーの存在以外に自分の人生に美徳を見出せない・パートナーがいなければ自分には何もないと言うのは、パートナーがいてもいなくても、そもそも僕には私には「なんの価値もない」ということだ。

エクスキューズではなく本当に、私が他人にそう指摘しているのではない。当人たちがそう思いこんでいる。

『人間磁石症候群:なぜ私たちは自分を傷つける人を愛するのか』の著者は、共依存について以下のように語る。

・共依存とは、依存症や病的な自己愛におちいった相手に権力や支配権をあけわたす、問題のある人間関係の傾向である。

・共依存の根底には自己愛の欠如がある。

・共依存者は、相互関係や互恵的な関係への関心や意欲が見られない人に、習慣的に惹かれる。そのため、共依存者のパートナーは、利己的かつ自己中心的である傾向が高い。

・共依存者は、パートナーから軽視や過小評価をされていると感じていることが多い。関係における不公平さに憤りや不満を抱く一方で、それを変える力がないと共依存者は痛感している。


これも完全なガイドブックとは言いがたい(主観)。人々はそれぞれ、共依存度スケールの異なる地点にいることが予想されるからだ。

現代社会の本当に大勢が(拡大された意味での)共依存状態にあるため、これはもはや普通のことであると見なされはじめている。現代のこの人間関係は共依存にあてはまるという文脈で、単語を明記する勇気がない。あまりにも多くの人をけなすことになりかねない。

たとえば前回、こんな感じの私がだ。別に毎回そうだが。傷つけることは全くもって本望ではない。

人間の悲惨さからの神の必要性を説こうとしたパスカルさながら、盲目であることの意義や重要性についてさえ考えはじめる。それは、時に、救いだから。どんな時?選択肢がない時だ。


それでも。私の中にあるのは、私たちはどこへ向かっているのだろうか的な気持ちではない。違う。私たちはどこまで行けるのだろうか、だ。

あまりこういうことはないのだが、〆に書く内容がこれ以上思いつかない。と言うか、自分の心をうまく言語化できないのだと思う。どうしよう。

できるだけそれに近い気がする作品をお借りする。才能あふれるアーティストさんたちは、言葉などをつむぎ出して伝えることができて、本当にすごいよ。私からしたら、みんな鳥のようだ。

北斎の過去回で、みんな海でつながればいいじゃあないかとか、そのようなことをくり返し書いていた。私は、波長か何かの話がしたいのかもしれないな。