『インセプション』の考察。主人公のトーテムはコマではない?
『インセプション』コブの本当のトーテムは、コマではない?

「嘘」の独特なとりあつかいが、それを拒絶したり嫌悪したりしないという点で、ノーラン監督作品のすばらしい特徴の1つである。
『インセプション』でも。監督は意図的に、観客に現実と非現実の間を往来させる。
観客は作中のキャラクターたちとともに、夢の世界へと旅をする。物語・フィクション・夢……さまざまな嘘へのダイブであり没入である。

現実と夢を見わける道具として作中に登場する、トーテム。イカサマ・サイコロ、チェスのコマ、ポーカー・チップなど。


それぞれのトーテム。
主人公コブの使用するトーテムは回転するコマ。もともとは、亡き妻モルのトーテムだった。
『インセプション』のエンディングについて、今までに多くの議論がかわされてきた。
その中に、コブのトーテムはコマではなく指輪であるーーという説がある。
彼は、夢の中では結婚指輪をしている。現実ではしていない。


このことから。指輪がコブの本来のトーテムで、妻の死後にモルのトーテム = コマを使うようになったのではないかと。
コマで二重に確認をしている?コマは精神安定か何かのためにまわしているだけ?
「問題の」エンディングでコブは指輪をしていない。よって、彼は子供たちとの再会を果たせたのだと。あれは現実世界だったのだと。
(本作を観た人で「問題のエンディング」の意味がわからない人はいないため、説明はしない。観てもいない人がこのタイトルの文章を読まないだろ)


私個人は。夢ではまだ結婚指輪をしているのは、主人公が大切な人の死を受け入れられていないことを表しているのだ、と思っていたのだが。
この説を知ってから、わからなくなってきた。どうなのだろう。もう少し追求してみよう。
ディカプリオ氏は、かつてインタビューに答え、僕も結末を知らないんだよと言っていた。また。あるポッドキャストでは、ラストの解釈は見る人の目によるのだから、それでいいのだと言っていた。
自分が演じたキャラクターがどうなったのかわからないままでいいと。わからないままがいいと。
ノーラン監督は、と言うと。インタビューに応じた時にこのように述べていた。(2011年のこと)
「最後に回転するコマについて、最も重要な感情的なことは、コブがそれを見ていないということだ。彼は気にしていない。コブは子どもたちのもとに戻った。それが現実であろうと夢であろうと、それでじゅうぶんなのだ」
なるほど。実に、ノーラン監督らしい見解だ。
僕や私が抱いているこの気持ちは「ホンモノ」か。彼や彼女が本物だと表明する気持ちは「ホンモノ」か。これらはとても楽しい問いだ。そして同時に、永遠に答えの出ない問いでもある。
私は個人的に、このような輪郭のぼやけた話が好きだ。境界のあいまいさであるとか、正誤の決められなさであるとか。そういったことに、とてもリアリティーを感じるからだ。
ハッキリとした色と色の間にある無数のグラデーション。それこそがリアルだと感じる。
ウィリアム・ターナーの作品が好きだ。


ウィリアム・ターナー 1844年
考察(考えること)は楽しいものだが。必ずしも、答えにたどり着かなくてもよい。物語に限った話でもなく。人生とはそんなものではないだろうか。
ずっと途中経過のストーリー。死が END であるかどうかもわからない。
作中、指南役・建築家・偽造者・化学者などで構成されたチームが、ミッションに取り組む。

まるで映画の製作チームのようだ。

『インセプション』はチーム・ワークの話でもある。

それでも、物語の本質は主人公の旅なのだ。私たちのそれぞれの人生と同じく。

主人公と自分には重なる部分があると語る。
結局。エンディングでコブが居るのは現実か非現実か、わからないが。1つだけたしかなことがある。それは、「彼は彼の見たいものを見ている」ということだ。
主人公は、妻を死なせてしまった自分・法から逃げ続けている自分・我が子をおき去りにした自分を許したがっている。壮絶な旅を乗り越えた自分には、ハッピー・エンドがおとずれてほしいと願っている。
彼だけの願望ではない。観客の願望でもある。多くの人たちが、コマが倒れることの方を期待しただろう。
この話におけるハッピーなエンディングとは、どんなものか。主人公と一緒に2時間半の過酷な旅をした私たちは、すっかり主人公に同調している。

Sympathy 人類のもつ大変すばらしい能力の1つだ。最後の希望と言ってもいいくらいだ。
日本語検索の方はダメだ。同調でよい画像を探そうとしたら、同調圧力というのばかり出てきた。暗いだけではない。こればかりは、てんで、わかっていない。さけたいのは圧力の方だけだろうが。本当、よく考えろよな。
ノーラン監督が『インセプション』で用意したのは、大勢が共感しやすい内容だった。
過去のトラウマや罪悪感から解放されたい。努力が報われたい。
幸せになりたい。共感ランキング世界一の感情だろう。
いや、どう意地をはっても逆張りを試みても、人は「幸せ」になりたいだろう。
数々の複雑なディテールの中心軸には、このようにいたってシンプルな感情が設置されていたのだ。

眠って見る夢のことだけをさすのではない。
現実逃避の夢とその真逆の夢が両方描かれている。



イームス「植えつけるのは、単純で自然に育つものでないと」
コブ「最も回復力のある寄生物は何か。バクテリア?ウイルス?回虫?アイディアだ。感染力も強い。完全に形成され完全に理解されたアイディアは、脳につきささる」
私はよく、クリストファー・ノーランという人が私たちの心につきさそうとしてくれたものについて、考える。
自分の座標を確認するトーテムというものが、あるとして。それはコマでも指輪でもイカサマサイコロでもなく、自分自身の願望や熱意なのかもしれない。
そんなことを思うわけだ。『インセプション』は、私にとっては、そういう作品である。

