思考とは何か─その起源と科学技術との関係をめぐる探求:前編
プロ雑用です!
わい時々考えるんですよ。人間って本当に「考えている」のだろうか?と。それとも、考えているつもりで、なにか別のことをしているのかな、と。なので、今日は人類における“思考”の起源をたどりながら、AI時代の「考える」とは何かを考えてみました。考えると考える。禅問答じゃないよ。スマホやAIなど、便利な道具に囲まれた今こそ、この問いを考えてみます。
そもそも「思考」とは何なのか?
最近、自分ではすんぎ考えてる時間が増えた気がしているんですが、逆説的に、「考える余白」が減ってきているんじゃないか、とも感じています。
調べごとはスマホでググったりAIに聞けば即答してくれるし、予定は全部カレンダーが覚えてくれるし、連絡先も同様。わざわざ悩まなくても、AIが“それっぽい答え”を出してくれますよね。便利。圧倒的に、便利です。
でも、ふとした瞬間に考えるんですよね。
「これは考えているのだろうか?」と。
それじゃぁ、そもそも、人類はいつから「考える」ようになったのですかね。言葉を手にしたとき? 道具を使い始めたとき? それとも、死を意識したとき?
人間にとっての「思考」とは何かという問いを軸にして、発達、進化、テクノロジーとの関係をめぐって、ゆっくり深く考えてみます。便利さと引き換えに、私たちは何を得て、何を失ってきたのかみたいな。
「考える」って、何だろう。
考える、は誰もが当たり前のようにしている営み、とされています。でも、いざそれを言葉にしようとすると、意外とうまく説明できないですよね。たとえば「ご飯、何にしようかな」と迷っているときも考えているし、「私はなぜあのとき、あんなことを言ってしまったのだろう」と自問しているときも、やっぱり考えている。でもそれって、同じ“思考”なのか?
まず私たちは、思考というと「脳の中の活動」として捉えがちですが、脳があって、そこに情報が流れ込み、計算や判断が行われ、意思決定が出力される─そんな「情報処理装置」的なイメージありますわね。
たしかに神経科学の観点からも、脳の前頭前野が意思決定や問題解決に関わっていることは明らかになっているわけですが、でも、それで「思考のすべて」を語れるかというと、どうにも物足りない気がする。それ、思考っていうか反応じゃね?
言葉とともに生まれる思考
ここで登場するのが、ソビエトの心理学者レフ・ヴィゴツキーさん。彼は『思考と言語(1934)』という著作の中で、子どもは発話を通じて言語を獲得し、その言葉が内面化されることで思考が発達すると述べています。
言葉を外に出して話す(外言)ところから始まり、やがて子どもは声に出さずとも自分の中で言葉を使い始める(内言)。それが、自分との対話=「考える」ことの始まりになると主張しています。つまり、思考とは言葉の内側で行う対話であり、それは後天的に獲得されるスキルであると。
なるほど、わかる。なぜなら、「考える」というのは生まれつき持っているものではなく、育つもの・訓練されるもの・外界との関係性の中で身につくものだということは、僕の実感値としてもありますからね。
思考は身体と切り離せない
さらに一歩踏み込むと、思考は「脳」だけで起きているわけでもないと主張する人もいます。たとえば哲学者モーリス・メルロ=ポンティは「知覚の現象学」の中で、「私たちは、身体を通じて世界を知る。身体とは、世界とつながる出入り口である。」と述べています。
彼は、「世界の意味」は言葉の中ではなく、身体と感覚を通して形成されると考えていたようです。足の裏で地面を感じ、光の加減で時間を知り、手のひらで器物の形を覚える──そうした五感による知覚の経験が、抽象的な意味理解や思考の土台になる、と。なるほど、これもなんとなくわかる。たとえば「時間が流れる」という感覚も、川の流れや太陽の移動という身体的・視覚的経験に根ざしているし、僕自身もこういう比喩をよく使いますから。
こうした思考のメタファー的構造をジョージ・レイコフとマーク・ジョンソンという人たちが研究していました。彼らは『私たちはみなメタファーで考える(Metaphors We Live By)』の中で、抽象的な思考は、身体的経験に根ざした比喩を通してしか理解できないと指摘しています。あー、なるほど、これもわかる。アフォーダンス理論もこれですよね。
こまでの「考える」まとめ
ここまでの話を簡単に整理してみると、以下のようにまとめられます。
思考は、言葉によって発達する
思考は、身体によって支えられている
思考は、外界との関係の中で獲得される
つまり思考<考える>とは、自分の中だけに閉じて完結する活動ではなく、
身体、言葉、環境、他者との関係性を通して“生まれてくるもの”と言えるわけですね。自分自身の内と外界との関係から生まれる。
思考と道具や技術との関係は?
そこまで考えてみて、ふと疑問が浮かびました。
もし思考が「外界との関係性」の中で形成されるのだとしたら、道具や技術と関わることでも、思考は変わるのではないか?と。
たとえば石を削って道具をつくる行為と、スマホを指先で操作して情報を得る行為。どちらも「世界とつながる身体の使い方」ですが、その質はまるで違いますよね。そして私たちは今、「AIと対話する」という、かつてなかった形で「考える」ようになっているわけで、このAIとの対話も、身体性は帯びていません。
ふむー、ここまで思考とはなにかを先行研究から考えてみましたが、どうやらより深く「思考の歴史」をたどる必要がありそうです。
人間の思考はどのように“育って”きたのか?
「人間は、考える葦である」と言ったのはパスカル。弱くて、折れやすい存在だけど、でも“考える”ことができる、ということの比喩ですが、それにしたってなんで葦なんだろう、とかどうでもいいことを考えてしまいますw
その“考える力”は、最初から完成されているわけじゃない、というのはなんとなくわかりますよね。赤ん坊は、世界をどう認識しているのか?私たちは、どんなふうに「考える存在」になっていくのだろうかと、問を立ててみます。
赤ん坊は世界をどう“考えて”いるのか?
生まれたばかりの赤ん坊は、考えているのか?
たとえば、目の前のものをじっと見つめるとき、そこにあるのは「思考」なのか?泣きながら手を伸ばしてくる行動に、何らかの「意図」や「判断」があるのか?
発達心理学の巨人ジャン・ピアジェは、人間の認知がどのように発達していくかを詳細に観察し、「認知発達段階論」を提唱しました。そのモデルによれば、赤ん坊(0〜2歳)は「感覚運動期」にあり、視覚・触覚・音・動きといった感覚と、自分の身体の動きを結びつけることで、世界の“因果”を学び始める。この時期の思考とは、「ことば」ではなく、「手と目と体」を通じた世界との“対話”とされます。つまり最初の思考は、「論理」ではなく、「からだ」で始まっている、ということだそうです。
子どもはなぜ「なぜなぜ期」を迎えるのか?
やがて子どもは言葉を獲得し、3〜6歳くらいになると、「なぜ?」「どうして?」を連発するようになります。これは単なる好奇心ではないそうです。「世界はどんな法則で動いているのか」を、自分なりに整理しようとする思考の萌芽だと言います。そう言われてみると自分も覚えがありますね。
この段階では、思考や話す内容にまだ論理的な整合性はないですが、因果関係をつなげようとする努力が見られるようになります。ピアジェのいう「前操作期」にあたり、直感的・具体的な思考が中心になってくるそうです。
子どものこういった「原初の問い」は、人類の思考の原型をなぞるプロセスと考えられるでしょう。石器時代に「なぜ火は熱いのか?」「なぜ星は動くのか?」と疑問を持った人類の祖先も、こんなふうに世界について思考していたのかもしれないですね。
思考には“内省”という第二の扉がある
さらに年齢が進むにつれ、子どもは「自分の思考を考える」ようになってきます。これがメタ認知と呼ばれる能力で、認知科学者ジョン・フラベルによって概念化されました。
「今、自分ははなぜこの答えを選んだのか?」
「さっきの判断は間違っていたかもしれない」
こうした“自分との対話”ができるようになることが、思考が深まってきているとされます。
このメタ認知が発達してくるのが、だいたい小学校高学年〜中学生あたりだそうで、つまり、学校での「反省文」や「感想文」には、それなりの心理的・脳的ハードルを考えれば理にかなっていると言えそうです。とはいえ、このころは自分自身の経験も踏まえると感想文とか苦手だったなぁ。
成長しても、思考は“完成”しない
思考の発達は、子ども時代で終わりではない、ということはみなさんもわかるでしょう。むしろ、自分の思考が完成されていると思っている人は、そこで思考力は停滞します。大人になってもなお、人は考え方を変えたり進化させたりできるのです。
このことを体系的に説明したのが、ハーバード大学のロバート・キーガン。彼は大人にも「発達段階」があることを示しており、思考の構造が以下のように変化すると述べています。
規範に従う段階:正しさは外にある。他人やルールに従う。
自己主導の段階:自分の信念や価値観に基づいて判断する。
相互主観的な段階:自分の枠組みさえも相対化し、他者視点を統合する。
つまり、大人の思考とは、単なる知識の多さではなく、複数の視点を持ち、揺れを受け入れながら思考する“構造”の柔軟性にあるということです。この揺れ動きの中から、徐々に自分の軸としての信念の輪郭がみえてくるのでしょうね。
老いは、思考を衰えさせるのか?
さて、ここでさらに疑問が出てきます。
「歳をとると、思考力は落ちるのか?」
答えは、Yesでもあり、Noでもある。たしかに記憶力やスピードは落ちてきますが、でもその一方で、「知恵(wisdom)」は高齢期にこそ育つという研究もあるそうです。心理学者ポール・バルテスは、老年期に見られる知恵を以下のように定義しました。
長期的視野に立つ判断力
曖昧さや矛盾を受け入れる力
他者の立場への想像力と共感
つまり、若いころの「速く、鋭く」考える力とは異なり、「ゆっくり、深く、広く」考える力が老年期には育つ、とされています。まぁ、これは人によって差があるでしょう。僕はどちらかと言うと、もともと前者よりも後者ですしね。
老いによって思考は「すべてが深まる」とは限らない
もちろん、ここで注意すべきことがあります。老年期において「知恵」が育つ可能性はありますが、すべての人が必ず賢人になるわけではありません。それどころか、思考には異なる側面での衰えも確実に存在します。心理学ではよく、知能を次の2つに分類して説明します。
結晶性知能:知識・経験・語彙・判断力など、積み重ねによって深まる
流動性知能:新しい状況への適応力、瞬発的な問題解決力、記憶・注意力
老年期において結晶性知能は比較的保たれる(あるいは熟成する)とされる一方で、流動性知能は、加齢とともに明確に低下する傾向があるのは間違いありません。たとえば、
車の運転中、とっさの判断に迷う
複数のことを同時に処理するのが難しくなる
視野が狭まり、新しい視点に対して頑固になる
こうした変化は、思考力そのものの衰えというより、「思考のための身体的・認知的基盤の一部」が弱まってくるという現象です。
つまり、老いることが必ずしも「深い思考」や「知恵」につながるわけではないということです。そこには、どれだけ自分の思考を内省し、他者と交わり、世界と対話し続けてきたかという「生き方」の問題が関係してきます。だからこそ、老年期の思考に対しては2つの視線を持つべきです。
一方では、時間の中で熟成された洞察を尊ぶまなざし
他方では、加齢による制約を現実的に理解し、思考の「かたち」が変わっていくことへの自己理解
思考は、衰えもするし、深まりもする。そのどちらか一方だけを語るのではなく、揺れ動くものとして捉えることこそ、老いの思考にふさわしい態度かもしれませんね。
思考は「一生をかけて育つ」もの
こうして見ると、思考とは、
赤ん坊のときから始まり
子どもの問いの中で芽を出し
大人の経験の中で複雑化し
老いの中で統合されていく
そんな「一生をかけて育つ知的な器官」と捉えることができるかもしれません。筋肉と同じで、使わなければ衰えるし、鍛えれば強くなる。だからこそ、現代のように「考えなくても済む環境」が整った時代では、意識的に「考えること」を取り戻す必要があるのかもしれないと思うのですよ。
人類史における“考える力”の拡張と変容
私たちは、「考える葦」であり、一方で「考える道具使い」とも言えます。人類は道具を使い始めた瞬間から、自らの身体を拡張しはじめました。それはやがて、自分の思考そのものを外に置けるようになります。 紙からスマホ、ChatGPT…現代に至るまで身体および知的拡張はは続いています。これは単なる技術の進歩ではなく、思考のかたちが書き換えられてきた歴史でもあると考えられるのではないでしょうか。
「手」を解放したことからすべてが始まった
約700万年前、人類の祖先は直立二足歩行を始めたと言います。これによって「手」が自由になり、木の実をつかみ、骨を砕き、やがて道具を作る手へと進化していくことになりました。道具は、腕のちからや長さを越えて働きかける能力を与えてくれた、と考えると、石器を手にしたことで、「この身体以上」のことができるようになったと言えます。それは単なる力の拡張ではなく「こうすれば、ああなる」という因果関係を思考する知性を私たちに芽生えさせました。この時点で、私たちの「考える力」はすでに、身体の外に広がり始めていたと考えてもよいでしょう。全ては、手を自由にすることから始まった。
思考を変えた”火”
次に現れた革命は「火」。火は単に温かいだけではなく、食物を調理し、毒を中和し、夜を安全にしました。結果として、咀嚼にかかる時間とエネルギーが減り、脳にエネルギーを回せるようになった…
そして火の前では、「対話」が生まれたのかもしれません。集団で座り、物語を語り、未来の計画を話し合う。つまり、火は人類に「内省」や「想像」を可能にする“知的な場”を与えてくれた、とも考えられます。
言葉は「目に見えないもの」を考える力をくれた
言葉を持たない動物でも、問題解決や道具使用ができます。でもそれらの動物と人間が決定的に異なるのは「まだ起きていないこと」「ここにないもの」「存在しないもの」についてまで思考できること。それを可能にしたのが、言葉による抽象化であるとされます。
言葉は、過去の経験を記憶として伝え、未来を仮定として語れるようにした。「もし」「たとえば」「なぜなら」という接続詞は、まさに人間的な思考の代表のように語られるからです。ただし、一方で現生人類でも時間間隔が未発達の未開部族もいたり、ここらへんは一部学者などの「そうなのではないか」という想像の域を出ない部分でもあります。
哲学者のユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、人類の決定的な進化は「虚構を信じる力」にあると語っています。神話、国家、貨幣、宗教、法律など、これらはすべて、「物理的には存在しない」ものを、言葉と集団的信頼によって“現実化”する技術です。
しかし、これはあくまで彼の仮説です。この仮説は魅力的です。確かに、法律を「ある」と信じなければ秩序は成り立たず、貨幣を「価値がある」と信じなければ経済は機能しないわけですが、ですがあくまでこれは、ある哲学者が「こうだったらいいな」という仮定の話であり、たしかな証拠に基づく研究結果ではありません。だからこそ、ここで新たに問を加える必要があります。
そもそも「虚構を信じる力」は、本当に普遍的な能力なのか?
思考様式は、文化によって違う─“未来が存在しない部族”
人間なら誰でも「もし〜だったら」や「明日どうしよう」と考えると思いがちですが、実際には、そうした時間概念や仮定法的思考をまったく持たない文化も存在していることをご存知でしょうか?
たとえば、アマゾンのピダハン族(Daniel Everettの研究など)や、一部の狩猟採集民では、
「明日」「昨日」といった言葉が存在しない
「もし~なら」という仮定法が存在しない
抽象的な計画・構想・神話的な説明を嫌う傾向がある
つまり、「虚構を共有することが人類の本質だ」という物語も、あくまで近代以降の定住・国家形成を前提とした文化圏の思考モデルであり、それがすべての人類に当てはまるとは限らないことがわかっています。これは研究結果としての事実であり、哲学者の願望ではありません。
つまり、思考の形式は、生まれつきではなく「文化の産物」かもしれないのですね。私たちが「あたりまえ」と思っている「未来を見越して考えること」や「仮定を立ててシミュレーションすること」は、実は言語・社会構造・生活リズムの中で培われた文化的スキルである可能性が高いのです。そしてそのスキルが、農耕・定住・都市・貨幣・宗教・教育といった制度と結びついて強化されたことで、「虚構を信じること=人間の本質」という一見普遍的な物語が形づくられた、のかもしれません。
それでも人類は、「物語によって動く」生き物である
こうして見てくると、ハラリの語る「虚構の力」も、また虚構に過ぎないわけでして、ですが、その虚構がこれだけ多くの人を魅了しているという事実こそ、私たちがどれほど「物語に導かれて生きているか」の証明でもあります。聖書が人類で最も普及した理由は、信仰でも神や奇跡の賜物ではななく…めっちゃ面白い物語だから、という冗談のような言説もあるくらいです(僕はあながち間違ってないと思っていますが)
「思考とは虚構を信じること」ではなく、「虚構の中に自分の居場所を見つける力」というある意味では防衛手段なのかもしれないですね。
さて、今回はここまでにしておきましょう。だいぶ長くなったからねw
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
また次回、後編をお待ちください。
それじゃ、また👋
