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将来進路を考えるときの「しんどさ」の正体に関する試論~『物語化批判の哲学』(難波優輝)の感想と共に~

更新日:2025/10/14

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(〆野の自己紹介はこちらから見られます。)


なぜ高校生は将来進路を考えることが「しんどい」のか?

その「しんどさ」の正体とは?

 以前も別の記事で紹介しましたが、ある会社の調査によると、高校生の半数以上が将来進路を考えることが「しんどい」のだそうです。私は普段、高校生に志望理由書の書き方の指導を行っているので、高校生にとって将来進路や志望先に対する志望動機を考えることが困難を感じるものであろうな、とは漠然と考えていましたが、このように数値化・可視化され、改めてなるほどと思いました。自分の直観はあながち間違いではなかったようです。

(高校生の半数は将来進路を考えることが「しんどい」)

 しかし、なぜ「しんどい」のか?いや、「しんどい」ことは自分が中高生の頃を思い出せばすぐに想像できるわけで、「しんどい」と感じること自体に不思議さは感じません。いわく言い難い「しんどい」感。それはかつて自分が青春時代に体感したことでもあります。しかし、その「しんどい」は何によってもたらされているのか?そうした「しんどい」理由を明確にしてみたいと常々思っていました。

 そう考えている中で、手にとった本、それが難波優輝氏の書いた『物語化批判の哲学』でした。帯には「『何者かになりたい』は呪いだ。人生は物語ではない。」とあります。この一文を、書店に平積みされているこの本の表紙に見たとき、「これってあれのことかな」と直感的に思いました。この本を読んだら、あの「しんどさ」の正体がわかるかもしれないと。

(なおこちらの本の感想文はらいおんさんも書いています)

 とはいえ、こうした中高生の「しんどさ」の正体を知って解消してあげようとは思っていません。中高生のみなさんには大変申し訳ないのですが、将来進路を考えることは依然みなさんにとって「しんどい」ものであり続けると思っています。志望理由書の書き方を指導する中で、みなさんに「しんどい」ことをさせて申し訳ありません、とは思っています。しかし、この「しんどい」ことをこれからもやっていただくことを、私は立場上、促さざるを得ません。

 ただ同時に、私は立場上、みなさんが将来進路を考えることに対して「しんどい」と思っていることを自覚しておく必要があると思っています。また指導上、その「正体」を把握しておく必要もあると思っています。そしてこれが、志望理由書の書き方を指導する者としての、私の「責任のとり方」だとも考えます。 

志望理由書を書くことは人生の「物語化」である。

 以前、別の記事でお話しした通り、志望理由書を書くことは「自分がどういう将来目標を持ち、またその目標実現のために志望先で何を学ぶのかを、物語化すること」に他なりません。『物語化批判の哲学』の中で、こういう一節が出てきます。

 就職活動の面接では、学生時代に力を入れたガクチカが尋ねられ、これまでの来し方を「自己分析」させられ、挫折経験とそこからの回復をドラマティックに語ることを要求される。

『物語化批判の哲学』(難波優輝)

 これは就職面接でのことですが、大学受験の面接も全く同じことです。高校生のときに力を入れたこと(ちなみに「ガクチカ」とは「大学時代に力を入れたこと」の略)が問われ、これまでの歩みを「自己分析」させられます。その上で、その志望先にどう出会い、またその志望先に進学することでどのようにあなたの将来の夢を叶えていくのかをドラマティックに語ることが要求されます。そして志望理由書はその「ドラマ語り」を準備するものとして作成されるのです。

 さらに、志望先の面接官があなたのそうした「ドラマ」を期待しています。「こういう将来目標をこういう経験の中で見つけ、その目標を実現するためにウチの大学でこう学びたいと考えて志望してきたに違いない」という面接官が想定する「理想の受験生のドラマ」があります。志望理由書を書いたり面接対策をしたりするのは、その「面接官が想定する理想のドラマ」に「はまりにいく」ことなのです。はまらなければ「合格」に至らない訳ですから。

 こうした物語化についてどう思うか?これを「しんどい」と思うかどうかが分岐点です。「まあ、こういうものだよね」と物わかりよく受容するか、「これはドラマのカツアゲだ!俺の人生は脚色された『物語』じゃねえ!」と反抗するのか、どちらがいいかはさておき、こうなったときに、前者より後者の言を述べる人の方が「しんどい」と感じるのだと思います。

 この『物語化批判の哲学』の著者難波氏もまた後者なんだと思います。先ほど引用した箇所に続けて難波氏はこう言っています。

 私は端的に思う。何かがおかしいと。

『物語化批判の哲学』(難波優輝)

 ちなみにここで「え?何がおかしいの?」と思う人、つまり前者の人はこの本で言っていることはわからないと思うので、この本をそっと閉じてください。その方には、残念ながらこの本は合いません。これは「物語化に違和感を覚えてしまった人のための本」です。

 著者の難波氏がラジオ出演するとXで知り、私はそのラジオ放送(大竹まことゴールデンラジオ)を聞きました。著者がこの本のさわりを少し説明すると、メインMCの大竹まこと氏は開口一番こう言いました、「んーわかんない」。それに対し、サブMC壇蜜氏は「~って……いうことですよね」と著者の話に理解を示しながら話を進めていました。このとき、「物語化に違和感を覚えなければこの本の内容が頭に入らないのだ」と確信しました。

進路指導の中で「物語化の危うさ」を無意識に感じとる高校生

 これはあくまで仮説ですが、将来進路を考えるときに「しんどい」と思う一部の高校生は、「自らの人生を物語化される危うさ」に反応しているのではないかと思います(全ての高校生ではないですが)。自分の人生が他者によって物語化される中で、自分にとって大事なものが失われたり改変されたりすることに大きな違和感を感じるのでしょう。たとえば、先生の言う通りに志望理由書を書いた結果、たしかに「志望先に進学して自分の将来目標を実現する見事なサクセスストーリー」ができた、でも「できあがったこれって本当に自分の人生なの?この作り物が自分の人生なの?」と疑問がふつふつとわいてくる、そんな感じではないでしょうか。難波氏の言葉で言えば、こういうことかもしれません。

 自分の人生を「成長物語」や「試練から立ち直るサクセスストーリー」へとまとめあげる際、私たちはしばしば、事実上存在しない必然性や運命的な「伏線」を見出そうとする。あたかも自分の人生がドラマティックな物語であるかのように。
 ここにいたって、自己語りは、歴史的語りに加えて、「物語的語り(narrative narration)」であることが明らかになってくる。自己語りは、単に素人による歴史的語りであるだけではなく、素人による物語的語りでもあるのだ。

『物語化批判の哲学』(難波優輝)

 続けて、こうした「物語的語りは単なる時間的な列挙ではなく、『ゴールに向かうための計画や障害克服のプロセス』を中心に展開される語り」であり、「自己語りは、自分の過去に目的論を無理やりはめこむことで、文学作品のような必然性や運命性を人生に付与する危険をもっている」と難波氏は述べます。

 自己分析の末に出てきた、中高時代の課外活動や部活動の歴といった「自分史における事象」を時系列に沿って並べるだけでは、「読み手(志望先大学の教員や職員)の胸を打つ『ドラマティックな志望理由書や面接の回答』」はできません。あたかもそれは「日々の学びや活動の中での経験から、その大学が志望先として運命的に選ばれるに至ったストーリー」のようでなくてはならないし、そのストーリーは「将来目標を実現するまでのサクセスストーリーの一エピソード」として機能しなくてはいけません。私たち受験教育指導者側が教える「将来進路に対する考え方」や「志望理由書の書き方」とはおおよそこういうものです。そしてこれは、「そうしたドラマやストーリーを大学側が求めているのだから」という根拠によって正当化されます。

 このとき、「将来進路を考える(志望理由書を書く)ってこういうものか」と問題なく受容する生徒もいるのでしょうが、こうした教育的指導を、自分(高校生)の人生を他者(親や学校・塾・予備校の先生など)にまるでプロデュースされ脚色・演出されているかのような違和感を覚える生徒も一部にいるのかもしれません。難波氏の言葉を借りれば、その生徒たちは「『物語』に傷つけられる人々」であり、その違和感とは「『物語』をおしつけられる気持ち悪さ」なのではないでしょうか。そして、「しんどい」とは、このように「物語化」によって自分の人生が他人によって編集されることへの抵抗から出てくる言葉なのかもしれません。また、これはあえて語弊を恐れずに言えば、「進路指導の介入的物語化に伴う暴力性に拠る」と言えるかもしれません。

まとめ ~添削指導の中で、私は「その生徒の人生に触れている」ということを決して忘れてはいけないし、あなたは自身であなたの人生を考えるべきである~

 自戒を込めて言うと、私はこの本を読んで、その志望理由書の添削指導の中で「その生徒の人生に触れている」ということを決して忘れてはいけないと改めて思いました。その志望理由書に書かれている内容は、あくまでその志望理由書を書いている生徒の人生であって私の人生ではありません。そうである以上、その内容に対して、他者である私は無遠慮な介入や改変、編集、あるいは再物語化をしてはいけないのだと思います。その指導を受けた生徒がそれに強烈な違和感を覚える可能性を否定できないからです。以前、別の記事で述べた「ドリハラ」もここに関係してくるのではないでしょうか。

(「ドリハラ」とは?)

 また、将来進路を考えるのは「しんどい」から考えなくていい、とは私の立場では言えません。「しんどい」としても、現実的には、将来進路を考えたり、また志望理由書を書いてもらったりする必要はあるでしょう。ただ、物語化によって多少の「しんどさ」があるとしても、それが、親や先生、ましてやAIといった他者によって「暴力的に」なされるものではなく、自らで進んで行うものであれば、その「しんどさ」はいくぶんかやわらぐかもしれません。こうした点からも、あなたの人生はあなたのものであり、あなたの将来進路はあなたの頭で考えるべきだし、あなたの志望理由書はあなたの手で書くべきだと私は改めて思います。それがたとえ「しんどい」としても、です。


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