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私はこうしてこの作品を選んだ!その1~モノカキングダム2025選評~

 先日お知らせしていたように、モノカキングダム2025において私が投票した二つの作品について、僭越ながら「選評」を書きたいと思います。私は決してえらそうに人の作品を評する資格などないのですが、私なりに「この作品はここがすばらしかったと思うよ」というのをまとめていきたいと思います。「こういう考えもあるのだな」という程度に読んでいただければ幸いです。あくまで、個人的な見解です。

(年末にお知らせした通りです。)

 一つ目はこちらの作品です。

 ご存じ、モノカキングダム2025王者となったなつき希さんの作品『「はい」と言えた日に。』です。なつきさん、改めておめでとうございます!いやぁ、私もうれしい(笑)。一票入れてよかった!「私の審美眼も捨てたものではないな」とこの発表当日は、私もわが事のように喜びました(笑)。私の目に狂いはなかった!私もめちゃうれしい(笑)。

(モノカキングダム2025結果発表)

さて、私がこちらの作品を選んだ理由について、選評として以下にまとめました。この後、本編が始まります。それでは、どうぞ!



『「はい」と言えた日に。』(なつき希さん)の選評

 モノカキングダムの投票については、どの作品も一回ずつ読みながら、A~Dの4段階評価をしていった。で、いったん120か30の作品を読んで、初日の評価付けを終了した(二回に分けてエントリー作品群を読んだ)。そのときは、さすがに多くの作品を一度に読んでちょっと頭が混乱していた。しかし、その中で唯一印象に残っている作品があった。それがこのなつき希さんが書いた『「はい」と言えた日に。』だった。

 疲れた目を閉じると、まぶたの裏でもこの作品がそらで「再生」された。この段階で、もう決まった。「私がこの作品を選ばない理由はない」と。それだけの力があった作品だった。だから、この作品が14票を獲得し王者に決まったとき、私には納得しかなかった。

過不足のない文と表現

 まず「過不足のない文章」である。ここにある文や表現はどれも過不足がない。不足があっては文章として成立しないのでモノカキングダムに出るようなnote作家の方々の文章レベルではまずありえないのだが、「余剰のものがない」というのはこの作品の文章がいかに洗練されたものであるかを示している。どの文や表現も一つでも欠けたら、きっとこの内容は読者に伝わらないだろう。それでいて、逆に余分な表現や文もない。言い過ぎた(書き過ぎた)冗長な表現や文がない。ストーリーを成立させるぎりぎりの、必要最低限の文と表現によってこの作品は構成されている。それが、この作品を散文にして詩のレベルにまで昇華させている。言い足りなくてついつい書き過ぎてしまう(私がそのいい例)ことが多い中で、こうした文章を書くのは思いのほか難しい。

 とにかく徹底して、一文が短い。少し長くなると節で切って行を変えている。極力、接続語を使わない。使うのはストーリー展開に必要な分だけの逆接の接続詞とリズムを調える順接の接続詞のみ。読みやすいのはさることながら、その機能美あふれる文章は美しさまである。表現に無駄がない。それでいて言い尽くしている。この作者の表現力の高さを感じた。

全体の考えられたストーリー構成

 次に「ストーリー構成」である。前述の通り、必要最低限の文や表現で構成されているからこそ、この作品の序盤は読者に「少し不穏な感じ」をもたらす。読者はここで揺さぶられるはずだ。「はい」を「あいっ」としか言えない、この子どもはどういう子なのだろうかと?極度に内気な子なのか、あるいは何か問題や障害があるのかと。多くの謎と疑問が読者の中に噴出する。しかし、やがて断片的な章立てでいくつかのエピソードがぽつりぽつりと語られていく中で、まるで点描法のように読み手の頭の中には徐々に情景が立ち上がってくる。加えて、この子どもの状況、その子が置かれているその周りの状況、筆者の立ち位置などが見えてくるにつれ、少しずつ読み手の頭の中の霧が晴れてくる。そして、ついに終盤近くになり、ようやく序盤のシーンがどういうことであったが明かされる。いわば伏線回収、というと打算的に聞こえてしまうだろうが、これは見事な「構成」と言わざるを得ない。ここに至って頭の中の霧は完全に晴れ、読者は「何の疑問もなく安心して」エンディングを登場人物と共に迎えることができる。

 実は、この読み手の解像度が徐々に高まり話の全貌が少しずつ見えてくるプロセスは、物語内でこの子どもが「じわじわと」外界と接続しやがて邂逅していくプロセスと見事にシンクロしている。これは絶妙な作品構成だ。つまり、わたしたち読者は、この主人公の子どもと同じタイミングで「世界に邂逅する」のである。この子どもが外の世界に邂逅するように、わたしたちは物語世界に邂逅する。これに気づいたときに、これはすごい舞台装置だな、と率直に驚いた。

観測者に徹するストイックな姿勢

 この作品には、感情表現が全くと言っていいほどない。主人公の子どももそれに関わる作者自身も周りの大人も、「さみしい」も「かなしい」も言わない。作者はストイックに観測者に徹している。その子どもにいらない感情移入をせず、そこにある事象を客観的に見てただ記述するにとどめている。しかし、そのスタイル(文体)と作者の(子どもとの)距離感、立ち位置が抑制的にキープされることで、かえってこの子どもの閉塞感や(この子どもから見た)外界の拒絶感を描き出すのに成功している。それはまさに精彩さのないモノクロームの世界であり、「子どもが閉じている」というよりも、それは子どもから見たら「閉じて交渉の余地がない世界」なのである。そうした世界と対峙する子どもとを作者は不躾にとりなすのではなく、介在はすれども基本観測している。まさにそうした世界と向き合う「彼がじわじわ育っていく」のを見守っている。

 このように書くと作者が冷たい人のように見えるかもしれないが、そのストイックな姿勢に反して、作者のこの子どもに対するまなざしはやさしい。世界と子どもとの間を取り持つように積極的に介入することはないのだが、前述した文章表現同様に、その子どもが世界と接続するのに必要な最低限の手助けだけはする。そしてまた、子どもがそこから自律的に世界にアクセスする様子をしばらく観測する。しかし、それは子どもの事の成り行きを愛をもってやさしいまなざしで見守ってもいる。その手は、子どもが自力で立ち行かなくなったときに「最低限の手助け」をするために、常時待機しているからだ。

 私も教育の仕事をしていてしばしば思ってはいたことだが、教育の究極は見守ることなのだとこの作品を読んで改めて気づかされた。教育とは、親や先生といった周りの大人が子どもを育てることではない。子どもが自主的に育つのを適切に助けるのが、教育のありうべきかたちなのだ。

毎日がちいさな実験みたいだった。
今日は教科書を自分で出せるか、明日は席に座りつづけられるか。
一歩進んで一歩戻る、をくり返しながら、気づけば“あの頃とは違う彼”になっていた。
子どもは、振り返ってみて初めて成長が見えることがある。
彼の場合は、それがとてもゆっくりで、そしてとても美しかった。

なつき希さんの作品『「はい」と言えた日に。』より

 周りの大人が強制的に外圧を与えて成長させるのではない。大人が手を多く出し過ぎて、子どもを“させてもらえていない子”にしてはいけない。その子は“できない子”ではないのだ。だから、外界と子どもとが機が熟して邂逅をするのを基本見守るのが、周りの大人の役割なのである。大人は必要最低限のフォローをしたら、子ども自身がどうにかするまで、大人はそこから退いて見守る。それはさながら実験の繰り返しとも言えるだろう。入って実験し外から観測する。問題が生じればまた入って最低限の最適化をして、再び外からまた観測する。その繰り返しの中で、気づけば子どもは成長している。それはとても美しい。この子どもは知的障害を伴う自閉症であったが、この子だけに当てはまる特殊なケースではない。これは、全ての子どもの教育に対して言えることである。それは、私のような教育関係者や子どもを育てたことのある親御さんなら、わかることだろう。

 教育の話はこの辺にして、つまりはこの作者の「観測者に徹するストイックな姿勢」でストーリーが語られることによって「余白」ができ、結果そこに「読者が感情移入したり思い至ったりする余地」ができた。前述の文章表現の話とも通じることだが、無駄がない必要最低限の内容でつづられたことから、多くの読者がこの作品世界に没入する余地ができたのである。これが多くの票を獲得した所以かもしれない。

私はこうしてこの作品を選んだ

 話をそろそろまとめよう、私は以下の点でこの作品を選んだ。

・過不足のない文と表現
・全体の考えられたストーリー構成
・観測者に徹するストイックな姿勢

 私は普段小説は書かないのだが、これらは、多くの小説やエッセイの創作者が学ぶべきことだと思った。控えめに言っても本作品は優秀である。少なからず、このように文章をだらだら書いてしまう私には真似することができない作品だと思った。


 以上です!
 
 次回は、選んだもうひと作品をご紹介します!たぶん、一週間後くらいになります。
 
 それではまた!

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〆野 友介 「記事が参考になった!」と思われる方がいましたら、サポートしていただけると幸いです。いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!