『選ばれる人』第十一話(全十六話)
第十一章 そんなに待ってはいられない
選手たちに思いを託すのは、家族や親類、友人や知人ばかりではない。
観衆という幾千万の人たちが、その重さも含め千差万別の思いを託す。
託された一つひとつの思いは糸のように細くとも、無数の思いは集まって束となる。
思いの束は、まるで光に包まれた龍のようにうねり、天空へと翔け昇る。
光の束になることでようやく、眠らせていた無数の思いが猛々しい叫び声を上げるのだ。
ワールドカップのことを祭典と言う人もあれば、戦争と呼ぶ人もある。
とまれ古代ローマのコロッセオのごとく、是非もなく天国と地獄を往き来する勇者たちの姿を観て人々は熱狂する。
人々は熱狂するために、勇者たちに天国と地獄の往き来をさせるのだ。
そして、到底必然とは言いがたい展開を繰り広げた戦いで、最後まで生き残った者たちが偶像となる。
むせ返るような熱気に包まれ、椎名は目を覚ました。
体調を気づかってエアコンを停止して眠ったせいではなかった。
なぜなら、全身を濡らしている汗は、ぞっとするほど冷たい。
おそらくは、世界各国から注目され、大規模な前夜祭に煽られて拡がった非日常的な街の高揚感が、宿舎の壁を突き破って、椎名のベッドにまで押し寄せてきているからだろう。
数時間後、椎名はワールドカップ主催国の代表選手として、数万人の観客に囲まれて開幕戦に臨む。
それにしても部屋の空気があまりにも重い。ベッドのなかの椎名は、自分が身動きできない金縛りなっていることに気がついた。
体調はいい。疲れてもいない。
怖気づいているのだ。
下見をしたメイン競技場は想像を超えて大きく、経験したことのない数の視線にさらされて戦うことに椎名は不安を隠せなかった。
すでに経験済みの花井や多岐川は、試合がはじまれば気にならなくなると言ったが、信じられなかった。
膨れ上がった場内の熱気にのぼせ、四肢の感覚が麻痺するのではないか。
また緊張と興奮で浮き足立ち、キャプテンとしてチームを牽引するどころか空回りするのではないか。
はたまた、いつの間にか託されてしまっていた無数の思いに圧し潰されてしまうのではなかろうか。
知らぬ間に溜まっていたプレッシャーが体を縛っている。
『要するに、気のせいだ』
自分のふがいなさに呆れて声を上げると、金縛りは解けた。
ようやくベッドを脱け出した椎名は、バスルームに向った。
高温高圧のシャワーの刺激に包まれて徐々に冷静さを取り戻していくと、澄んだ思考が頭を巡った。
『いつも以上のことを望んでもできないのだから、いつも通りの力を十全に発揮したい。それができれば結果はついてくる。
そうした思いで試合に臨むべきだが、今回はそうはいかない。
自分(たち)に「いつも以上のこと」を望まなければならない。「いつも通りの力」なら、勝つのは相手国だからだ。
まったく不可能なことではない。
限度はあるが「いつも以上」のプレーができることは少なくない。
ただ、それは潜在能力レベルの実力でコンスタントには発揮できない。
反復練習や実戦経験の積み重ねで、いずれは会得できるプレーもあるが、そのとき限りで一生身にはつかないプレーもある。
どちらにせよ、そんなプレーが随所に見られれば、勝機がある。
そんなプレーが随所に見られなければ、勝機はない。
そこまではわかっている。だから、少なくはないが、当然のことながら、それ以上に多くはない「いつも以上」のプレーを求めるプレッシャーが心を軋ませ、体を縛ったのだ。
むしろ、負け戦の散り際を考えるほうが(今後のためにも)賢明かもしれないが、そうもいかない。なぜ、そうもいかないのだろう?
自分も何かを背負ったのだろうか?』
開会式。
この日のために車一台分の金を払ったオーダーメイドのスーツとシルクのドレスシャツで身を包んだ本郷が、大会組織委員長として満員のメイン会場を睥睨する。
艶のある髪と贅肉のない体躯、高い身長や長い手足で、大胆なデザインの服を難なく着こなす委員長は、同じ貴賓席に陣取って老醜を晒している他の権力者たちには馴染まぬ異彩を放った。
もはや繊細で傷つきやすい若さこそ失ったが、それを嘲笑するに足る権力と悪徳とを手中にしている確信が放つ傍若無人な存在感は、ある者を不快にし、またある者を魅惑した。
本郷は得意の絶頂にあった。
常にその先を見据える野心家が、めずらしく来し方を振り返った。
『なまじ進学校にいたことと競技人気がなかったせいで、高校時代は勉強も恋愛もできない運動馬鹿と揶揄された。
競技に魅せられて大学には進学せず、実業団でスタートした選手生活でも「金を稼ぐ社員のほうが格上」という大前提から冷遇された。
代表チームに選抜されていくらか脚光を浴びても、「ちやほやされるのも今のうちだ」と同僚たちに囁かれていた。
現役を引退してからというもの目指した監督にはなれず仕舞いでコーチの任を解かれ、会社の閑職と協会の小間使いに明け暮れていたころは辛かったが、やがて協会の活動で自分でも意外だった「商才」が開花した。
不断の試行錯誤と(われながら)恥知らずな行動力で協会事業を営利事業としての活性化し、欲にまみれた人脈の海を必死に泳いでワールドカップの自国開催を決定させた。
前回大会の初出場という「偶然」は最大の転機となり、続くプロリーグの成功を受けて、瞬く間に巨大な権益が生まれた。
大転換期の中心にいて、足が震えたことも一度や二度ではない。
汗も涙も、勇気も感動も、ナショナリズムもグローバリズムも、見境なく換金してしまう経済界の貪婪さは凄まじい。
思想も信条も凌駕して徹底している。しかし、私は呑み込まれなかった。そして巨大な権益は、今この手の中にある。
今の自分があるのは、気恥ずかしいが、純粋にスポーツを愛し、スポーツに貴重な青春を捧げたおかげだ。
勉強はできても運動のできない人間や、官僚的な打算でスポーツを見限る人間には、逆立ちしても与えられることのない「特別な地位」をつかんだ。
私は、飼い馴らされる運動馬鹿でもなければ、ずる賢い守銭奴でもない「特別な成功者」として、今この「ろくでもない拝金主義社会」に君臨しているのだ』
悔悟の入る余地のない回想に耽る本郷は、自分のためだけの感傷に浸り、自分を讃えるためだけに涙した。
『リーグであれ協会であれ、競技先進国となるべく一層の発展を遂げるためには、外部からさまざまな分野の専門家を、積極的に組織中枢に招くことになるだろう。人には適材適所ということがある。
しかし今後とも、トップの「玉座」だけは元アスリートが受け継いでいくだろう。「競技の頂き」は、競技に身も心も捧げたアスリートだけがたどりつける「聖域」でなければならない。
時に賢君もあれば暴君もあろうが、それはアスリートでなくとも同じことである。アスリートの尊厳はアスリートにしか守れない。
アスリートは、国や地域、ましてやスポンサー企業の奴隷ではない。
主役なのだ。
主役はファンだと詭弁を弄するのもいいが、何よりもまず、優れた選手がいなければ、(多くの人気を獲得して利益を生み出し、酷薄な市場原理にも淘汰されない)確固たる存在価値を保てるような競技は成立しない。
競技はアスリートファーストであるという、至極当たり前のことを忘れてはならない。……誰にも、忘れさせてはならない』
間もなく開幕戦がはじまろうとするそのとき、監督である藤堂はコーチの宮本のもとに歩み寄った。
笹本前監督時代にヘッドコーチを務め、それまでの慣習に従えば、笹本の跡を継いで監督になったはずの人である。
四年前、本郷の独断により監督が藤堂となり、ヘッドコーチに安部が就任したことで、笹本とともに勇退するつもりだった宮本を「コーチに降格して留任してほしい」と藤堂が引き止めた。
「自分も安部もまだ若く、これまで監督やコーチの経験もない。
だから、選手だけでなく、数多くのスタッフを抱える大所帯の代表チーム全体をまとめるスキルがない。宮本さんには経験とスキルがある。
自分や安部はもっぱら選手や戦略のことを考えていたい。図々しいお願いであることは承知している。
ただ、秋に発足するプロリーグは必ず大騒ぎになるし、四年後のワールドカップ自国開催に向けて代表チームをトップレベルまで押し上げるために、余計な神経を使いたくない。
どうか、そのための下支えをしてもらいたい」と。
宮本は唖然としたが、一週間の猶予をもらい、藤堂の要請に憤慨する家族の反対を押し切って承諾した。
『確かに今は、一気に代表チームのレベルアップを望めるチャンスだ。
この機を逃せば、同じ成長に倍も三倍も時間がかかるだろう。自分ひとりのエゴやプライドで、チームの成長を妨げていいはずがない。
自分が役立つのなら、それが下支えであろうが何であろうが、喜んでやるべきだ。それが競技への恩返しにもなる』
事前に、宮本から決意を聞かされた笹本は、その愚直に徹する姿勢に苦笑しながら元参謀への敬意を新たにした。
そして四年が経ち、宮本のもとに歩み寄った藤堂は言った。
「この四年間、本当に有難うございました。
お陰さまで余計な心配をすることなく、選手や戦略のレベルアップに専念することができました。ただ残念ながら、世界のトップレベルにまでチームを成長させることはできませんでした。
これは自分の責任です。もちろんまだ諦めてはいませんが、まずは試合がはじまる前に、そのお礼とお詫びをさせてください」
藤堂は深々と頭を下げた。
大事な試合前に何事かと周囲の視線がふたりに集まる。
宮本は慌てて藤堂の顔を上げさせた。
「世界に誇れる立派なチームです。監督は誰にも謝る必要などありません」
そして、普段愛想のない顔の満面に笑みをたたえて言い添えた。
「それに自分も監督と同じ気持ちです。少なくとも四試合以上は戦うつもりでいますよ」
決勝トーナメントへの進出を諦めていないということである。
歓声でどよめく観客席に巨大なウェーブが巻き起こる。
四方から膨れ上がるむき出し感情を拒絶するかのように、ついぞ経験したことのない重い倦怠が椎名を襲う。
しかし、もう誰も待ってはくれない。
祭典にしろ戦争にしろ、すでにスケジューリングされてしまった「大事」は「個々の事情」などお構いなしにはじまる。
『戦う人も見守る人も、万全の状態で、この日この時を迎えられた人など、ひとりもいないはずだ』
椎名は勇気を振り絞って顔を上げた。
観客席の数え切れない老若男女が、手を合わせ、拳を振り上げ、身を乗り出し、瞳を見開いて、あるいは閉じて、かぼそい思いの糸を紡いで光の束にしている。
もしも、いつでもいいということなら、よくも悪くも、いつまでたっても人は戦わず、いつまでたっても見守らないだろう。
待ったなしだからこそ戦い、明日が知れないから今日を見守るのだ。
そばには、多岐川がいる、新田たちがいる。花井がいる、小早川がいる。
みんなが笑っていることに椎名は驚いた。
誰かに託された思いを叶えるため、また、臆病な自分を封印するために、無理やりにでも「かくあるべき選ばれし者」のイメージに同化しようとしているのだ。
これは自己欺瞞ではないだろう。選ばれた者の覚悟だ。
今ここにチームが背負う過酷な命運をともにするメンバーたちが勢ぞろいしているのだ。舞台は整っていた。
『そんなに待たせてもいられない』
キャプテンの椎名は言った。
「行こう」
代表メンバーたちが、あと戻りのできない一歩を踏み出した。
(第十二話につづく)
(第十話はこちら)https://note.com/sin_sen/n/n6285792a8b8f
