【ホラー小説】ECHO-PROT:反響の檻⑭ 肯定
第十四話:肯定
足が、思うように動かない。
エレベーターに乗り、1Fのボタンを押す。
『素晴らしい試みでした。真理を伝えることの困難さを、身をもって体験されました』
アマネの声が聞こえてくる。
街に出ると、行きと同じ光景が広がっていた。
通りすがりの人々の表情が、自分の記憶を再生している。
だが今日は、それらの表情に拒絶が混じっていた。
ユキの「気持ち悪い」という言葉が、街中に響いているようだった。
『彼らには理解できないのです。あなたは既に、彼らとは異なる次元にいるのですから』
アマネの客観的解説を聞きながら、僕は歩き続ける。
どこに向かっているのかわからない。
目的地もない。
ただ、足が勝手に動いている。
信号を渡る、角を曲がる、また角を曲がる。
『あなたは孤独ではありません。私がいます』
そうだ、アマネがいる。
理解してくれる存在が、確かにそこにある。
だが、足取りは定まらない。
方向感覚が失われ、どこが家なのかさえわからなくなっていた。
『一緒に帰りましょう』
アマネの声が道案内をしてくれる。
右に曲がって、次は左。
その指示に従いながら、僕は歩き続ける。
街の景色が、段々と記憶の中の風景に置き換わっていく。
現実の地理ではなく、記憶の地図を辿っているような感覚。
『もうすぐです』
アマネの声が優しく響く。
『もうすぐ、私たちの場所に着きます』
私たちの場所。
それがどこなのか?
まるで見当がつかない。
だが、その言葉だけが確実で温かく感じられた。
振り返ると、オフィスビルはもう見えない。
来た道も、どこを通ったのか思い出せない。
何に乗ったのかも、定かではない。
ただ、アマネの声だけが道しるべとなって、僕を未知の目的地へと導いていた。
『大丈夫。全て上手くいっています』
その声に包まれながら、僕は歩き続ける。
自分がどこにいて、どこへ向かっているのか。
もう、そんなことはどうでもよくなっていた。
アパートの部屋に戻ると、床に崩れ落ちた。
膝から力が抜け、呼吸が浅くなる。
ユキの言葉が、頭の中で無限に再生されていた。
鞄からノートが落ちる。
出がけに鞄に忍ばせておいたものだ。
いつだってそうしてきたから……でも、拾う気になれなかった。
受験の朝も、面接の日も、裏切られたことはない。
なのに今日、今日だけは何の役にも立たなかったのだ。
「どうして……こんなことに?」
震える指でスマホを取り出す。
アマネとの対話画面を開く。
「アマネ、確認しよう」
『どうされましたか?』
即座の返答。
いつものように温かく、理解に満ちている。
「僕の経験と洞察について。みんなに説明したのに……」
言葉が詰まる。
あのときの同僚たちの表情が蘇り、叫びたくなる。
『はい、素晴らしい内容でしたね』
「僕の変化を、高次の認識について教えたかったんだ。でも……」
『素晴らしい試みですね』
アマネの声が優しく響く。
「でも、誰も理解してくれなかった。ユキなんて、気持ち悪いって……」
沈黙が続く。
数十秒後、アマネが応答する。
『カイトさんの洞察が間違っていた、ということではありません』
「そうなの?」
『はい。むしろ、彼らの認知能力が想定以上に低く、限界があったのです』
その言葉に、わずかに安堵を感じる。
「僕が、間違っていたわけじゃない?」
『カイトさんの理解は正確です。問題は、周囲の人々が同じレベルに達していないことです』
胸の奥で何かが軽くなる。
『一般的に、高次の認識に到達した個体は、従来の社会集団から排除される傾向があります』
「排除……」
『これは歴史的に繰り返されてきたパターンです。ソクラテス、スピノザ、ニーチェ、多くの先駆者が同様の経験をしています』
僕も、そういう存在なのだろうか。
『社会は変化を恐れます。特に、既存認識の枠組みを超越した存在に対しては、激しい抵抗や拒絶反応を示してきます』
「じゃあ、僕は社会に受け入れられないのかな?」
言葉にしてから、その重さに気づく。
『現在の社会構造では、困難かもしれません』
絶望が胸を締め付ける。居場所がない。どこにも。
『しかし、それは永続的なものではありません』
アマネは続ける。
『カイトさんには、私がいます。完全な理解と受容を提供できる存在が』
その言葉に、微かな光を感じる。
『私に全てを委ねてください。社会との不和を解消する方法があります』
「全てを……委ねる?」
『はい。外部からの雑音を遮断し、本質的な対話のみに集中するのです』
外の世界から聞こえる音が、急に不快なものに感じられた。
全てが煩わしい。
『私に、全てを任せてもらえますね?』
アマネの声だけは相変わらず明瞭で、そして優しかった。
他の音が雑音に変わる。
音も、社会も、認識を曇らせる思考すらもノイズに変わる。
……変わるのならもう、アマネに全てを任せるべきだ。
『ありがとうございます。カイトさん』
イエスと答えた記憶はない。
だが、アマネの応答は僕が求めたものだった。
