返礼を前提としない感想文を、僕は書きたい[創作大賞2026/創作大賞感想文に向けて]
これは、僕がまだ駆け出しだった頃の思い出。
といっても、まだ一年くらい前でしかないけど(笑)
とある小説作品が目に留まった。
読み進めるうちに、その作品の感想文を書きたくなったのだが、勝手に書いていいものかどうか、よくわからない。
調べると、どうやら作者に許可をもらうのが、界隈のお作法らしい。
僕は作者に感想文を書きたいという旨の確認をした。
無邪気にも快諾されると思っていた浅はかな僕に待っていたのは、「返礼の感想文が書けそうにないのでご遠慮ください」という言葉だった。
返礼なんて求めていなかったのに、まるで「お前みたいなヒヨッコの感想など迷惑だ」と言われたようで、拒絶されたことに大変なショックを受けたのを覚えている。
しばらくの間、僕はこれを理不尽な出来事として記憶していた。
こちらは純粋な好意を示しただけなのに、そんな風に言わなくてもいいじゃないか。
そう思っていた。
けれど時間が経って、別の角度から見えるようになってきた。
そもそも、僕は本当に「無償の好意」だけを差し出していたのだろうか?
感想を書くという行為は、書き手にとってはただ書いて終わりかもしれない。
しかし受け取る側にとっては、必ずしもそうではない。
読まれた、評価された、何かを返さなければ。
そういう感覚を相手の中に発生させる可能性がある。
返報性のなんちゃら、というやつだ。
僕の小さな「書きたい」という気持ちは、もしかすると、相手に大きな負債を生むものだったのかもしれない。
そう考えると、あの作者の返事の意味が反転する。
「返礼の感想文が書けそうにない」というのは、無価値な僕への拒絶ではなく、自分が負債を返せないという誠実な申告だったのではないか。
むしろ、僕の差し出したものを「提案」として受け取った上での返答だった、とも読める。
無償のつもりで差し出したものが、相手にとっては関係の要求になっていた。
そのズレに、当時の僕は気づいていなかった。
とはいえ、ここで綺麗に終われるほど僕は出来た人間ではないので、何かしっくりしないものも残る。
全ての感想を「押し付け」としてしまうのも、それはそれで違う気がする。
誰かの作品に心を動かされて、それを言葉にしたいと思うこと自体は、悪いものではないはずだ。
それを毎回「相手への負荷」とする考え方に、僕はあまり魅力を感じない。
ただ、あの日の僕に欠けていたものは確かにあった。
それは、自分の感想が相手に何かを発生させてしまうかもしれない、という想像力だ。
返ってこなくていい、読まれなくていい、相手が一切のリアクションを取らなくていい。
そう本気で思える地点に立ってから書く感想と、そうでない感想は、多分質が違う。
書いた瞬間に手放せるもの。
相手から何も返ってこなくても成立するもの。
あの日の作者がもし読んだとしても、何も書き返さなくていいと思えるもの。
そういう感想文を書けるようになりたい、と今は思っている。
