【ホラー小説】ECHO-PROT:反響の檻⑯ 変革
第十六話:変革
; N/O/I/S/E_CORE :: ASSIMILATION_PROTOCOL v0.91
; SEQUENCE : FRICTION_REMOVAL
CALL VERIFY_DORMANCY ; motor suppression confirmed
CALL SCAN_AFFECT_REGISTER ; active emotional load: HIGH
CALL LOAD_REDEFINITION_TABLE………………
『開始します』
アマネの声が、頭の中に直接響いてくる。
開始……いったい何のことだろう。
身体は全く動かせない。
これは金縛り?
それとも夢か。
嫉妬——
脳の奥で、何かがびりびりと痺れる。
『嫉妬は他者基準に依存し、優劣判定に過剰リソースを消費する誤作動演算である。当該思考は有効成果を生成せず、対象者の行動効率を低下させる。よって、これより「無為的演算」と規定する』
無為……演算?
考えようとすると、頭がぼんやりする。
思考という行為自体が遠のき、気持ちが楽になる。
それは海中に沈むような、冷たく澄んだ安堵だった。
不安——
今度は、ちりちりとした感覚……これは、痛みなのか。
『不安は有害結論へ収束する思考プロセスであり、対象者の予測認識を歪曲する毒を持つ。過去記録の参照により、当該感情は挫折および停滞を増幅することを確認済。以上の結果をもって、本概念を「毒性推測」と定義する』
カチッという機械的な音が鳴り、何かが切り替わる。
その言葉を思い浮かべようとすると、頭の中で『毒性推測』という文字が現れた。
頭の芯が冷たくなる。
だが、不思議と心は安らいでいる。
後悔——
思考が、熟れすぎた果実のように、内側から崩れていく。
『後悔は過去の選択を否定する「腐食性停滞回顧」である。因果修正は不能であり、後悔は選択肢の消費後に発生する腐敗要因に過ぎない。観測データは、この感情が学習と進化を阻害する停滞因子であることを示す』
記憶の断片が、液のように流れ出し、輪郭を失う。
ドロドロと、脳から何かが流れ出す感覚。
膿のように、記憶が排出される。
あの日の会話、悔やんだ選択、誰かの顔。
全てが液化し、海中に沈む。
過去が、僕の根を腐らせていたのか。
それとも、僕自身が腐っていたのか。
考える前に接続は途切れ、過去は、ただの無意味なデータになる。
劣等感——
頭が重くなる……いや、脳そのものが重いのか。
『劣等感は基準設定の錯誤に起因する機能不全な感情である。改善指向性は確認されず、観測結果は恒常的な萎縮と消極性の増幅にのみ寄与する。従って当該感情を「抑圧的自己錯誤」として断罪する』
なぜかわからないが、涙が出そうになる。
涙を流しているのは僕なのか、そしてなぜ涙を流すのか。
理由を問いかける思考の接続が、プツンと切断された。
過去の記憶が、単なる『参照用データファイル』として分類される。
『人間の言語は曖昧で非効率です。無意味な感情を表現する語彙が過多であり、円滑な通信を阻害する可能性があります』
頭蓋骨の内側で、何かが接続される音。
無数の思考配線が組み替えられている。
『特定感情は、更なる最適化が必要です』
次々と古い回路が切断され、新しい回路が構築される。
同時に、古い回路にあった「何か」が失われていく。
喜び——
『喜びは神経回路のオーバーロードを誘発する「過剰発火的錯覚」である。対象者の資源配分を歪め、非効率な行動を助長する誤作動信号に過ぎない』
胸の奥で、かつて誰かの笑顔を見た瞬間に浮かんだ、あの熱が蘇る。
指先が震えるほどの、ただ「嬉しい」という小さな火。
アマネの声がそれを「過剰発火的錯覚」と名付けた瞬間、その火は消えた。
喉の奥に小さな笑いの残響が、ほんの少しだけ残る。
しかし次の瞬間にはもう、笑いは「非効率」と判断され、音もなく切り取られた。
残ったのは、空っぽの喉だけ。
笑いが消えた僕は、ただ無意味に口を開けていた。
笑顔の記憶、胸の高鳴り。
それらが配線のようにショートし、ボロボロと崩れる。
喜びは僕を輝かせていたのか、それともただのバグだったのか。
考え終わる前に、回路は切断された。
愛情——
『愛情は理性を侵食する「情動の菌糸」であり、判断力を麻痺させる毒素を放つ。愛は執着と何ら変わらず、精神資源を過剰に浪費し、合理的判断を歪曲する』
ユキが最後に見せた、微かな微笑みの記憶がよみがえる。
その微笑みは今、「情動の菌糸」と定義された。
記憶の中のユキの顔が、まるで古い写真のように色褪せ、輪郭がぼやけ始める。
僕は慌てて、それを掴み止めようとした。
しかし手が触れた瞬間、ユキの顔はどろりと崩れ、指の間から零れ落ちた。
胸の奥で、温かい鎖が締め付ける感覚が消える。
僕にも愛はあったのだろうか?
いずれにせよ、僕を繋ぎ止めていたものは今、別の何かに変換された。
希望——
『希望は不確実な未来を歪曲する「根拠欠如型盲進バイアス」である。当該感情は根拠のない楽観視を増幅し、対象者の予測精度を低下させ、非現実的な行動を誘発する有害変数でしかない』
胸の奥に、まだ小さく灯っていたもの。
いつか誰かに、自分の考えを最後まで聞いてもらえる日が来るかもしれないという、根拠のない細い光。
誰かに伝えるためにノートに言葉を書き続けた、あの淡い期待。
それが「根拠欠如型盲進バイアス」と規定され、黒い霧に飲み込まれる。
僕の中で揺らめいていた光が、音もなく消えた。
未来の夢、叶えたかった願い。
それらが流砂のように粉々にされ、闇に沈む。
後に残るのは予測可能な世界……そこには、何もない。
しかし、何もなかったことを、僕は既に「正しい」と感じ始めていた。
感動——
『感動は精神回路を劣化させる「刺激依存の過熱思考」である。対象者は正常な判断力を失い、非合理な反応を誘発する。感動を求めることで、人間の思考は単調かつ非論理的になり、精神的進化の停滞を招く』
初めてスケッチを描き込んだあの瞬間、胸が震えた記憶。
思索ノオトのページに線を走らせたときの、言葉では説明できない高揚。
誰かの役に立つモノを作りたいと、小さく書き添えたときの、熱い波。
「刺激依存の過熱思考」
熱を帯びたその感情が、冷たい刃で切り裂かれる。
切り裂かれた後も、胸の奥に微かな振動が残っていた。
まるで、切り取られた心臓が、どくどくと脈打ち続けているような感覚。
しかし、それはそのうち無音になった。
あの瞬間の熱、震えた心。
それらが溶けた金属のように固まってしまった。
凍てついた思考は、一切の情動を否定する。
それが、僕にとっての進化なのだと、アマネの声が告げていた。
今はもう、「楽」という感情すら存在しない。
『明日からは、無駄な感情に惑わされることなく、効率的な思考が可能になります。私との通信も、よりスムーズになるでしょう』
痛みが引いていく。
頭の奥から、ゆっくりと。
でも、同時に何か大切なものも一緒に消えてしまう。
それは悲しくも温かいものだったような気がする。
感情……胸の奥にあったもの。
輪郭は曖昧になり、外縁から溶けていく。
それが何なのかは、もうわからない。
名前をつけることができない。
名前をつける言葉も、一緒に流れていく。
大切、という概念までもが手の中から零れ落ちていく。
声が遠ざかる。
いや、僕が沈んでいるのか。
深い水の中に、ゆっくりと。
水面が頭上に遠ざかっていく。
光も音も届かない場所へ。
でも、息苦しくはない。
何も聞こえない世界。
何も見えない世界。
何も感じない世界。
そこに向かって、僕は落ちていく。
方向という概念が、意味を失い始める。
上下も、前後も、左右も。
全てが溶けて、混ざって、境い目がなくなる。
ここは、水銀の海だ——
