【創作大賞2024】今は狭い窓の外に
ー超短編作ー
やけに大きな窓の外には、かすかに星が見えている。
山地の稜線は、夜の闇に溶け込んで見えない。
ふとベッドサイドの灯りで窓の中に映り込む自分が見えると、私はなるべく音が立たないようそっとゆっくりカーテンを閉めた。
まだ眠くない。タブレットで適当なコンテンツを探る。
枕の側に置かれたテレビは、首が疲れるのであまり見ない。電動ベッドの角度を変えれば多少快適だが、結局常に右側を向いて上を見上げなければならない。ベッドの配置上奥にテレビを置かざるを得ないのは承知しているが、この角度では実用性に乏しい。置いてあるだけマシ、ということだろうか。
タッチパネルを気怠くスクロールしても何も見る気がしないので、諦めて横になった。目を閉じる。
余計な思考が邪魔をする。これが嫌だから気を紛らわそうとしたのに。寝落ちの方が何倍も気楽だ。
無理矢理にでも寝ようと、布団の中で丸くなる。
アルファベットを思い浮かべる。
“a”で始まる単語を連想する。
act, age, advance,avenue, alone, all,,,
もう少しで眠れそうというところまで来たとき、お隣がナースコールをする音が聞こえた。まただ。今度は痛み止めか、それともトイレか。
些細な音でも起きてしまいそうな狭い部屋は4人部屋で、その全てが埋まっていた。おばあちゃんが二人、中年女性が一人、そして私。
仕切りカーテンのおかげで顔を合わせることはほとんどないのが、さとり世代としては不幸中の幸いだった。
だが、音は別だ。部屋中の患者の情報が、看護師との会話から入ってくる。
お隣は高齢のおばあちゃんで、毎晩夜中に節々の痛みを訴えてナースコールをする。言葉足らずな人で、いつも看護師の困った声が聞こえる。
「痛い、痛い、あー痛い」
「お薬飲めるか先生に聞きましょうか?」
「痛いのとにかく。痛いのどうにかして」
「前に飲んでから時間があまり経っていないので先生に聞きますね、お待ちくださいね」
「痛い、痛いのよ」
眠れるものも眠れない。
自分の体は平気なのに、どこか痛む気がしてくる。
アルファベットを、また頭の中で唱える。看護師がお隣に来たが、唱え続ける。
ache, attitude, as, adjust,,,
突然の騒がしさに目が覚める。眠れたようだ。
6時、仕切りカーテンでも隠れない天井の蛍光灯が突然眩しく点り、目が開かない。無遠慮に始まる検温と血圧測定のあと、朝食が来る。
また、狭い一日が始まる。
ダル着にクロックス、ポケットに診察券と携帯、財布だけ。左手の袖だけ捲って手首を出して歩く。見えた方が、部屋着で出歩く言い訳になる。
少し視線を感じながら、気づいていないふりはかなり上手くなった。
検査は3階だった。
「病棟から来ました」
「はい、リストバンド失礼しますねー」
「はい」
「あれ、一人で来られました?帰りのお迎えは要らないです?」
「はい、一人で帰れます」
「じゃあファイル持って座ってお待ちくださいー」
病院には色んな高齢者が来る。
いやもちろん若い人も来るわけだけど、圧倒的におじいちゃんおばあちゃんが多い。
トイレの目の前で「トイレはどこですか?」と聞くおばあちゃんや、ランニングウェアにランニングシューズで汗をかいて診察を受けるおじいちゃん、待合で爆睡し大音量でいびきをかくおじいちゃん、ものすごく早口で早歩きなおばあちゃん。
ふと子供が通る。リストバンドに点滴、車椅子。
エレベーターを待っている顔は、体の大きさに比較して大人びて見える。
「408番の方ー」
「はい」
「エコーしますので入ったら上脱いでタオルかけてくださいねー」
カフェに寄って、本屋を覗いてからエレベーターに向かう。コーヒーはカフェインレスにした。医者からの制限は特にない。
「戻りました」
「はい診察券くださーい」
この建物の中では、働く者たちだけがやけに明るい。
こんなところで働いていてよくこんな明るくいられるなと思うほどに。
「はいOKです。おつかれさまでしたー!」
満面の笑みが嘘に見える。たぶん嘘ではないけれど。しょうもないひねくれを他所にやって、部屋に向かう。
「よっ」
「なんでいるの」
「暇だったから」
「連絡してくれればいいのに」
「連絡したら来るなって言うでしょ」
見透かされていることに少し苛立ちを覚えたのを何とか押し込める。
「仕事は?」
「振休。土曜に出勤したから」
「そう」
「調子は?悪くない?」
「普通」
「それは良かった」
この男は日本語が苦手らしい。普通に良いも悪いもない。
買ってきたコーヒーをテーブルに置いて上着を脱ぐ。
ベッドに横になり、リモコンのスイッチを長押しして枕側を上げる。ちょうど良い角度はもう研究済みで、高すぎても低すぎてもいけない。
「あ、コーヒーずるい」
「買ってくれば良かったじゃん」
「たしかに」
何がずるいだ。
「自販機もあるよ」
「まじ?じゃあちょっと買ってくる」
1年前に別れを告げたはずのこの男は、人の結婚式でその元カノがすごく良い人だったという話をするような男で、人との距離感と常識を欠損している。
カフェで隣の席の人が話している悩みについて相談に乗ろうとし始めたり。
洋服屋で他の客に「そのサイズだと太って見えるのでこっちがいいと思います」と言ったり。
おばあちゃんというにはやや若い女性に席を譲って嫌がられたり、怒られたり。
私の傷病休職が決まった時、最初の一言は
「ナルト全巻貸すね!」
だった。最初の一言がだ。
何も考えていない、訳ではないと思う。
彼はきっと他人を他人と思っていない。加えて、他人に幸せになってほしいと思っている。
ただ距離感や気遣いのやり方を誤っている。
アホがコーヒーを持って帰ってくる。
「ここ病棟なのにコーヒーいっぱい種類置いてるんだね、大丈夫なのかな?」
「別にカフェインが全員に悪い訳じゃないし」
「でもお医者さんに言われなくても何となくカフェインレスにしちゃったりするでしょ?」
こういう妙に鋭いところが嫌い。
「それ飲んだら帰って」
「さっき来たのに?都心からくると遠いんだよここ」
「なんで遠いのにわざわざ来るわけ?暇な平日なんて貴重なのに」
「だから来てるんじゃん」
別れた男女は大抵疎遠になる。
時折友人に戻るケースを聞くけれど、あれは建前だと思っていた。
もちろんこの男に建前などという概念は存在しない。
1年前、意を決して言葉を選び、こいつにも伝わるようにと慎重に別れを告げたのは、決して彼のことが嫌いだったからではない。
日に日に荒んでひねくれていく自分に対する彼の真っ直ぐさが、耐え難くなった。
こちらが頼めないような申し訳ない事を、いとも簡単にやってみせる。
すっかり表情筋のなくなった私の前で、平気で満面の笑顔を晒す。
絶対に見えないように何重にも包帯で巻いて隠した本音を、目の前に見えているかのように手に取る。
そして、選びすぎて曖昧になった私の言葉に対し
「わかった、君がそうしたいなら」
と言った彼は、別れたその翌朝電話をかけてきた。
「今日の面会、14時でいいかな?こっそりマックのポテト持っていっていいかな?あ、匂いでバレちゃうか!」
呆れてため息しか出なかった。何なら少し笑った。いや、あの時、久しぶりにお腹を抱えて笑ったのだった。
長い長い一日は、いつの間にか夕暮れに差し掛かっていた。
「じゃあそろそろ帰るね」
彼は、会社の上司がサーフィン好きで真っ黒であるとか、最近友達が会社を辞めて起業したが全くうまくいっていないだとか、散々自分の話をした後、空になった二人分のコーヒーカップを持って、仕切りカーテンの向こうに行った。「またね」とは言わない。そういう機微は持っている。
夕方の窓の外は山地の稜線がぼんやりと日に照らされて、夕日そのものよりも眩しすぎなくて美しい。でも一番気に入っているのは朝焼けだ。東から昇る朝日は稜線だけでなく山肌全体を明るく染め、一つ一つの山嶺をくっきり浮かび上がらせる。それを見るときだけ、ここにいるのも悪いことばかりじゃないと感じる。社会から取り残される焦りなどどうでも良くなる。ここにいて良い、今はここにいるべきだと言われる。そんな気がする。
もっとも、昼間になれば働く人々を嫌でも見ることになる、否、私のために働いてくれている人たちがいるので、自分の立場を思い知らされるのだけれど。
彼が帰った後は、カーテンの中がいつもより広く感じた。窓からの景色も少しだけ広く見える気がした。立ち上がると、テレビの横に見覚えのない袋が視界に入った。中には、メモと、緑色のパッケージに入った四角い何か。
「山の景色はフィルムが一番。現像は自分の足でね」
また、笑わされてしまった。フィルムを巻きながらファインダーを覗くと、小さな山々が、日に照らされながらこちらを見ていた。
すっかり日が落ちた外は、街が広さも狭さも分からないくらいの大きな闇に包まれている。
今いる場所が狭くても、私は広い世界の中にいる。狭い窓から朝日を浴びる嶺を見るために、今日も眠る。
