昭和のプラモデル作りとグリコのおまけ、ミニカーまで
今の子供たちが夢中になっているのは、Nintendo Switchや、大人の鑑賞に耐える精巧なガンダムのフィギュアだ。しかし、昭和40年ごろの私の少年時代を熱狂させたのは、それらとは全く違うものだった。
私の時代のヒーローたちは、箱の中でプラスチックの胎盤(ランナー)にバラバラのパーツのまま、その誕生の日を待っていた。
プラモデル作り:指先で覚えた、失敗の許されない「儀式」

当時のプラモデル作りは、今のようにパーツを「パチッ」とはめれば完成するような甘いものではなかった。
まずは駄菓子屋や模型店の店番のおじさんにお金を払い、箱を開ける。そこからは、小学生ながらに「職人」としての作業が始まった。
パーツをランナーからナイフや手でねじ切る。そのままではセメダインでの接着時に邪魔になるし、仕上がりも悪くなるから、ねじ切ったパーツに残る細い「バリ」を一個ずつ丁寧に削り落とす。
特に細かいパーツの接着面は1mmから2mm程度と極端に狭く、そこにはみ出さず、途切れずに接着剤を塗るのは至難の業だった。接着剤が出すぎればプラスチックが溶けて台無しになる。はみ出したセメダインをいかに素早く、うまく拭き取るかで完成度が大きく変わるのだ。
最大の難関は、最後の仕上げに貼る「スライドマーク(水転写デカール)」だった。
小皿に水を張り、ツルツルした台紙ごとマークを浸す。頃合いを見て引き上げ、ヌルッと滑らせるようにしてプラスチックの機体に貼るのだが、これが実に大変だった。水に浸しすぎれば糊が溶けて剥がれ落ち、焦って触ればクルリと丸まって、二度と元には戻らない。さらに濡れている間にマークを設計図にある機体の正しい位置に置かなければ、そのまま貼りついてしまうのだ。
「失敗は許されない」
あの息をのむような緊張感を、当時の少年たちはみんな指先で覚えている。
そうして苦労して組み上げ、プラカラーを塗って仕上げていく。といっても、当時のプラカラーは少年にとっては高額な贅沢品で、たぶん1、2色を買うのが精一杯だった。それでも、限られた色をどう塗るか必死に考え、説明書とは違っても自分だけのオリジナルに仕上がっていくことに、私はこの上ない満足を覚えていたはずだ。
当然、仕上げた零戦や紫電改、メッサーシュミット、グラマン、B29爆撃機など、友達同士で自作品を持ち寄っては、「どうだ」と自慢大会を開いたものだった。
グリコのおまけ、 亜鉛の重みミニカー、火花の匂いブリキのおもちゃ

プラモデルが「努力の結晶」だとしたら、他にも僕らを魅了したおもちゃはたくさんあった。
例えば、グリコのおまけ。キャラメルに付いてくる小さなおもちゃは、決してクオリティが高いわけではなかったけれど、あの小さな箱を開ける時の「得した感」とワクワク感は、何物にも代えがたかった。
そのおまけのバリエーションは実に豊かで、男の子に人気のある車や飛行機、船、機関車から、女の子向けの動物や人形、家電製品、日用品まで、何でも入っていたように思う。
箱に付いているオマケの蓋を開けた瞬間に顔が変わる。期待通りのオマケなら「やったあ!」と大喜び、期待外れなら「ちくしょ!」と落ち込み、以前入っていたものと同じものなら「なんだ、またこれか!」と腐る。そんなドキドキ感がたった10円か20円で楽しめたのだ。
つまらないおまけはすぐにゴミ箱に捨て、同じものなら友達と交換する。キャラメルを口いっぱいに頬張りながら、歯にくっ付いたキャラメルを、泥だらけの指を口に突っ込んで取る。なんとも頼もしい、わんぱくな少年だったと思う。
ミニカーも今とは違った。亜鉛の鋳物(ダイキャスト)で作られたそれは、手のひらに載せるとズッシリと冷たくて重い。プラスチックとは違う、その「本物の重み」と精密さに、子供ながらに深い感動を覚えた。ただ、これも結構高額だったので、のちの森永卓郎氏のコレクションのように大量に集めることは決してなかった。
ブリキのおもちゃも忘れられない。鉄人28号や、ゼンマイ仕掛けのロボット。そして、引き金を引くと中で砥石が擦れ合い、パチパチと火花を散らす拳銃。あのとき部屋に漂った、独特の焦げ臭い火花の匂いは、今でも昭和の記憶と強く結びついている。
1/35スケール戦車と3ヶ月分のお小遣い

そんな数あるおもちゃの中でも、戦車や軍艦、潜水艦のプラモデルは別格だった。パーツが多くて作業が大変だし、完成すれば場所を取る。何より、子供の財布には高額すぎた。だから、気に入ったものをじっくり、必死に考えて買う。
ある時、私はどうしても欲しい大物を見つけ、お小遣いを3ヶ月分も貯めて、母親と一緒に店まで買いに行った。全長25センチほどもある、当時としては本格的な1/35スケールの戦車のプラモデルだ。
この日には、もう一つ苦い思い出がある。その日は待ちに待ったお小遣いをもらう日だった。3ヶ月分で、たぶん900円ぐらいだったと思う。目当てのプラモデルは1000円以上ほどする高額なものだったが、たまたま母の手元に持ち合わせが少なく、夕方の買い物代が足りなくなるから「明日まで待って」と言われたのだ。
当時はコンビニのATMなどないし、銀行も遠い。もちろん、普通のサラリーマンで車を持つ家庭などほとんど居ないし、ママチャリもない。主婦のほとんどが麦わらの買い物かごを持って徒歩で行き、重い一升瓶や米袋は御用聞きに頼むのが常識の時代である。
そんな時代、子供が3ヶ月もお小遣いを我慢することは相当な忍耐力が必要だった。それだけにどうしても気持ちが収まらず、「今欲しい」と泣きじゃくる私の根気に母が負け、なんとか買って貰った鮮明な記憶がある。
マブチモーターを組み込み、単一電池が4本(もしかしたら6本)も入るような大きな戦車を有線リモコンで操作する。友達にも自慢できるし、砂場など外で動かそうと、頭の中で夢を描いていた。確かモーターは別売りで、指定されたサイズをわざわざ買い足し、その金属製の軸芯にプラスチックギヤをグッと打ち込む仕様だった。硬い軸にギヤを押し込むのにも子供の力では一苦労だったが、それすらも動力源を宿す神聖な作業のように思えたものだ。
箱を開けた時の高揚感、何日もかけて必死に組み立てた時間。しかし、ようやく完成して、ワクワクしながらリモコンのスイッチを入れた時、待っていたのは非情な現実だった。
ギヤの噛み合わせが悪かったのか、それともギヤが成型不良だったのか。せっかく完成した戦車は、数十センチ動いては止まり、手で押すとまた少し動き出すものの、すぐに力なく止まってしまう。そんなことを繰り返すだけで、スムーズに動くことは決してなかった。どんなにギヤを強制的に動かしても、ある回転角度の範囲で必ず重くなるため、モーターの駆動力だけでは動かないのだ。
今思えば、製造メーカーや買った店に問い合わせて不具合を説明すれば、正規品のギヤケースを送ってもらえたのかもしれない。あるいは、今の僕の技術があれば、自分で原因を突き止めて修理できただろう。
けれど、当時は今ほど「製造物責任(PL法)」なんて言葉も概念もない時代だ。親も、一応はカタカタと動いている戦車を見て、メーカーにクレームをつけるという助言までは思いつかなかった。
私はただ、「動かない戦車」を前に、仕方のないこととして受け入れるしかなかった。
今、思い直せば、たぶんプレスされたギヤの中心にある芯(穴)が、歯車の円の中心から偏心していた可能性がある。偏心によって噛み合うギヤ同士が突っ張って重くなっていたのだろう。
消えていったおもちゃたちと消えない記憶
動かなくても、必死に作った戦車だったから、しばらくは宝物のように大事にしていた。
けれど、月日が流れるうちに、それは部屋の片隅で少しずつ邪魔な存在になっていった。最後は落としたり、いじり回しているうちに壊れてしまい、いつの間にか処分されてしまったのだろう。
いつ、どうやって捨てたのか、不思議なほど全く記憶にない。あのとき夢中になったブリキのおもちゃも、亜鉛のミニカーも、みんな私の成長や独立とともにどこかへ消えてしまった。
今の時代、不具合があればすぐにネットで調べられるし、メーカーも親切に対応してくれる。おもちゃの精度は見違えるほど良くなり、最初から完璧な姿をしている。
だけど、あの暑苦しい部屋で、セメダインの匂いを嗅ぎながら、丸まりそうなデカールと格闘していた、あの「緊張感」に満ちた時間こそが、私たちの少年時代そのものだった。
動かなかった1/35スケール(25センチほど)の戦車は、今も私の心の中で、あの頃の純粋な興奮を乗せたまま、力強くキャタピラがうなりを上げて回ろうと足掻いている。
なんと50年以上前の記憶であるが、深く深く心に刻み込まれた、あの少年の日の憧憬である。
