生きる意味を知った
どうも、真仙です。
今回は、誰もが人生で一度は考えたことがある生きる意味について、お話しましょう。
生きる意味を知ることができた出来事についても明かします。
私がいかなる宗教も信じないのは、生きる意味を真剣に探究したからです。
真剣だったからです。
そして、その答えを見い出すことができなかった時、あらゆるものを信じなくなりました。
死によって、すべてが失われるなら、この人生にはどんな価値があるのだろうと考え続けた十代でした。
その答えを持っている人は限りなく少なく、それを示している人は世界中を探してもいないのです。
自分で見つけるしかなかった。
自分で見つけるしかないと思った理由もあるのです。
正直にお話すると、私の両親は仏教徒でした。
一般的な日本人の家庭で育ち、昔ながらの仏壇がある家でした。
日本は、仏教と神道を信じる人が大半(ある統計データでは、それぞれが7千万人~8千万人)を占めると言います。
つまり、データから言っても、大半の人が仏教や神道を信じているわけです。
ですから、私の家庭は昔ながらの一般的なものだったのです。
ほんのりとした仏教徒ではなく、両親は毎日毎日お経を唱えるぐらいに熱心でした。
また、日本の仏教には大まかな流れがあり、お経を唱えれば成仏できるという考え方があります。
そういう流れが本当にあります。
私の両親は般若心経から法華経に至るまで、主要なお経を大切にし、唱え、仏法を実践されていました。
しかし、私は真剣に一切の妥協なく、家族という忖度も加えずに、すべてを観ていました。
40年以上と時間をかけて、両親はお経を唱え、生活の中で仏法を実践しているにもかかわらず、涅槃にも悟りにも到達する気配がないのです。
毎日毎日、お経を唱えているのに、人間性が向上している部分が見られないのです。
相変わらず、父は短気であり、母は人の気持ちを汲み取ることができず。
悟りに達し、仏のように慈悲深くなり、涅槃を体現する気配がないのです。
お経を唱える。八正道を実践する。
あらゆる面で、仏教を実践している人間が悟りに到達していない。
何十年もやって、人格面での進歩が見られない。
本人たちに聞いても、まだまだ悟りは遠いという。
――やり方が間違っているのではないか。
何かが違うのではないか。
素朴に思わざるを得ないのです。
ありありと、私は現実を知っているのです。
さりとて、仏教を批判するということは一切ありません。
古来から、ここまで伝わっているということは真実・真理を含んでいるのではないか。
両親の仏教への信仰。
また、大半の日本人の仏教への信仰。
それを心から尊重したいと思っています。
仏教は、真実・真理を含んでいるけれど、正しく伝わっていないか。
時代を経るごとに、ねじ曲がってしまったところがあるのか。
お経を読み解いてみると、明らかにインドのヨガの影響が見られ、マントラを変節したものが散見されます。
しかし、かなり変わっており、正しい発音が伝わっていませんでした。
正しく理解し、発音すれば、音の力を引き出して、慈悲のエネルギーを受けて、霊的変容が起きてくるかもしれません。
慈悲の本質を理解し、真理を会得できていたかもしれません。
生きる意味を両親に問いかけても、納得する答えが得られず。
仏教に問いかけても、答えは得られず。
仏教は身分関係なく、万人が悟り得る道といいながら、何十年も実践している両親が悟り得ていない現状を見て。
いくら信じようとしても、それができるわけがありませんでした。
私は物事を公正に観ます。
真実はどうなのか。現実はどうなのかをしっかり見定めて、理解する。
では、キリスト教やユダヤ教やイスラム教を信じるようになったのか。
それも、まったく信じていませんでした。
歴史に詳しく、それらの宗教がどういう問題を引き起こしていたのかを知っていました。
たとえば、キリスト教の十字軍に、何の正義も見られませんでした。
誰かを殺す人間に、普遍的な真理が観られるか。
愛に生きる人間が、憎しみで人を殺しえるだろうか。
普遍の神を信じているなら、あらゆる人の中に神を見て、愛します。
よって、誰も迫害せず、殺すことはないと考えたのです。
彼らは口先では信仰を語りながら、神・真理を何一つ理解していないことを洞察し得たのです。
各宗教に真実・真理は隠されているけれど、ほとんどの人がそれを理解し得ていない。
そういう結論に達しました。
人の信仰を否定しない。心から尊重する。
しかし、真実に生きる私は、どこにも属しえない。
孤独を恐れずに歩み抜いてきました。
真実を自分で探求しなければならない、と。
生きた実感がなければ、どんな言葉を聞いても、読んでも、本当の答えは得られないと感じたのです。
生きる意味とは何か。
そうして、探求の果てに、その答えを知ったのです。
・生きる意味を知った
生きる意味を模索するために、思索にふけるだけではなく、古今東西の聖典にも触れていました。
仏教の経典から、聖書に至るまで。
もちろん、インド哲学も学んでいました。
私は仏教徒でもなければ、キリスト教徒でもないのです。
何にも、属してないのです。
ただ、真実を求める者と呼ぶべきでしょうね。
純粋に真実が知りたい。
その純粋なものを追求する時に、教会という組織も必要なかったんですよね。
生きる意味への問いは、何かに属して安心できるレベルではなかったからです。
ごまかし切れない真実への渇望が、祈りと瞑想に繋がっていくのです。
ヨガを行じ、霊的な眼が開かれ、見えざる世界を的確に見通す力が発現してきました。
真理とは、肉体の目では見えないもの。
心の眼が開かれたら、自分で直接味わうことができるようになるのです。
様々な聖典を読み通していく流れで、聖書も読んでいたのです。
聖書を読んでいて、ふと思ったことがありました。
イエス・キリストは、本当はどうだったのだろうか。
キリスト教徒としてではなく、真実を求める者として、純粋に知りたくなったのです。
聖人たちに関心がありました。
古今東西を問わず、真理に到達した者たちの言葉に耳を傾けていました。
当然のことながら、イエス・キリストのことも知りたいと思いました。
本当はどんなふうに生きて、どんな言葉を語られたのだろうか。
教会の編集を経ていない。人間の事情を経ていない。
生きた真実として、イエス・キリストはどんな人だったのだろうか。
会って話がしたいな、と。
歴史上や想像上の人物としてではなく、生きた人物として知りたかったのです。
「イエス・キリストよ、あなたのことを教えてください」
本当のことを教えてください、と。
政治的な事情とか、宗教的な事情とか、文化的な背景や人々の議論とか、ドグマとかいらない。
真実を捻じ曲げる者は、何もいらない。
人々の作為を介した時点で、聖書の言葉も信じられない。
純粋な真実を求める。
イエス・キリスト本人から話が聞きたいと思って、祈っていました。
本気で祈りました。
大声で人の名前を呼んだら、振り返るでしょう。
必死に呼んでいたら、振り返ってくれるんじゃないかと思っていました。
その知りたいという思いには、愛の片鱗がこもっていました。
誰だって、人を好きになったら、その人のことを何でも知りたいと思うでしょう。
いつも、その人のことを考えてしまうのは。
今日、何を食べたかまで知りたくなるのは、愛ゆえです。
知りたいという思いの中に、確かに真摯なものがありました。
「イエス・キリストよ! 教えてください。あなたの本当の言葉を教えてください。あなたのことを本当に教えてください」
ひとりで、ずっと祈っていました。
いかなる宗教的な儀礼にも囚われずに、純粋に真っ直ぐに祈っていました。
すると、突如として、イエス・キリストが心の眼の中に映ってきました。
とてつもないリアリティを伴って、現実の人として、その顔が浮かび上がり、はっきりと目の前に見えるぐらいでした。
霊的な眼が開かれているとはいえ、こんなにはっきりと見えるのは珍しいと思いました。
その顔立ちも、髪の毛一本一本も、姿かたちから全身に至るまで。
自分の顔を近づけたみたいに、大きく見えたのです。
「これがリアルのキリスト!」
驚くほどに、はっきりと見えました。
どの肖像画にも似ていないキリストの姿が見えてきて、そのオーラは輝かしかった。
本当のイエス・キリストは、すさまじい迫力なのです。
神の光を一身に帯びているために、見ているだけでエネルギーに圧倒されるほどでした。
イエス・キリストと目が合うと、一言だけ告げられました。
「兄弟」
たったその一言で、電撃に打たれたかのようになりました。
一度もそんなふうに考えたことがなかったからこそ、キリストの言葉に衝撃を受けていました。
私は兄弟に値するでしょうか、と。
意識したことも、考えたこともないことを告げられて、ただただ言葉を失っていました。
でも、魂の奥底から、湧き上がる喜びがあったのです。
私はクリスチャンでも何でもないのに、兄弟と言えるのでしょうか。
キリスト教徒でもない私を兄弟と呼ぶ。
その言葉は、宗教の壁を突破していました。
次の瞬間、心が通じ合って、わかったのです。
究極の真理である神を同じように礼拝するという点で、確かに私は兄弟のようなものでした。
私は「あなたを友と呼ぼう」と思いました。
神・真理と一致した聖人たちは、すべて私の友達です。
神そのものが私の友であり、神と一致した人も必然的に友となります。
古今東西の聖人たちと霊的交流があるのは、大切な友人だからです。
ババジからイエス・キリストに至るまで。
(シルディ・サイ・ババは、説教してくれるおじさんの立ち位置ですけどね)
友であるかどうかに関わらず、あらゆる場所に神を見い出すなら、その神を愛していたいと思っています。
また、別の日に祈っていると、イエス・キリストが現れて教えてくれました。
生きる意味について、その時にわかったのです。
イエス・キリストは、赤い薔薇のようなものを差し出されました。
それが自分の胸に当たると、あたたかい愛が胸の中で広がり渡るように満ちていったのです。
こんなにあたたかい愛があるのかと思いました。
胸の中で愛が広がって、空っぽな心が全部満たされていくのを感じました。
イエス・キリストは言いました。
「私の愛に従いなさい」
胸の中の愛を感じながら、ものすごいとろけるような喜びに満たされながら。
その言葉を聞いたときに、愛に生きるのはどれだけ素晴らしい事かと思いました。
この愛に従って生きることは強制でも何でもなく、ただただ喜びなのだということ。
生きる意味は「これだけだ」と思いました。
この胸に感じている愛に生きること。
愛に、宗教も、組織も、何も関係がない。
地位や名声や財産も、何も関係がない。
高尚な教えやあらゆる聖典には、言葉の殻しかない。
だから、それらには生きる意味が見つからなかった。
愛は、すべての人の中に流れています。
それを意識して生きると、感じられるものです。
現れてくるものです。
この胸の中の愛に生きることが、生きる意味そのものだとわかりました。
その愛が、人生を意味あるものにします。
実感をともなって、生きるに値すると感じるのです。
