【連載小説】また来年、ここで #04 悔しい、ということ|2029年・高円寺
映画館で、声を出して泣いた。
エンドロールに「全編AI制作」と出た瞬間、その涙が、急に自分のものじゃなくなった気がした。
二〇二九年、ゴールデンウィーク。「これ、人間が作ったの?」と聞くことが、無粋とされ始めた年だった。
変わらないテーブル
高円寺の「コーヒーハウス モノクロ」は、外の世界の騒がしさとは無縁の場所だった。
マスターの淹れるコーヒーの味も、焙煎の香りも、去年と何も変わらない。壁掛け時計の秒針だけが、確実に時間を刻んでいた。
篠原拓海は、窓際でブラックコーヒーを飲んでいた。外の光が彼の横顔を照らしている。
城田麻子が、約束の十五分後に扉を開けた。
「お待たせ」
「いや」
拓海は、短く答えた。カップを置く音も、一定のリズムで続いていた。
麻子は向かいに座り、カフェオレを頼んだ。
バッグの中で、手帳の革の感触を確かめる。今年もちゃんと、持ってきた。去年、書いた覚えのない一行が増えていた手帳。それでも、持ってきた。
泣いた映画
「映画、最近観てる?」
麻子がカフェオレのカップを両手で包みながら聞いた。
「たまに。配信で、おすすめされたやつを流し見する程度」
「先週、すごくいい映画観たんだよね」
麻子が、少しだけ身を乗り出した。
「家族の話なんだけど、繊細で、リアルで。映画館で、声が出るくらい泣いちゃった」
「へえ、当たりだったね」
拓海の「へえ」は、会話を滞らせない、ちょうどいい温度だった。温かくも、冷たくもない。
「……でもね」
麻子は、カップを見つめたまま、声のトーンを落とした。
「エンドロール見たら、『全編AI制作』って表示が出たの。脚本も、映像も、音楽も、全部」
「泣いたんだろ?」
「泣いた。……映画の終盤でね、主人公が子どもの頃の記憶を回想するシーンがあったの。食卓に、少し焦げた卵焼きがあって、父親がそれを黙って食べてるシーン」
「よくある描写だ」
「よくある、かもしれない。でも……そのテーブルクロスの柄も、卵焼きの焦げ方も、父親のシャツのシワも。全部、私が誰にも話したことのない、私自身の子ども時代の記憶と、完全に一致してたの」
拓海は、コーヒーカップを持ったまま、動きを止めた。
「偶然じゃない。AIは、私のネットの閲覧履歴、書いた文章、買ったもの、どこで立ち止まったか、そういう観測データを全部集めて、私という人間に一番効く『記憶の断片』を、あのスクリーンに投射した。私の記憶から、シナリオを書いていた」
「じゃあ、いいじゃん。AIだろうが人間だろうが、作品として一番感動できるように最適化されてるってことだ」
拓海の言葉は、合理的だった。彼にしてみれば、結果がすべてで、過程の出どころはノイズだ。
「……なんか、悔しかったんだよね」
麻子は、カップに視線を落とした。
「なんで?」
「だって、私がどこで泣くか、全部計算されてたってことでしょ? 何万人分かの観測データから、『このタイミングでこの映像を流せば、この属性の人間は泣く』って弾き出された通りに、私が泣かされた」
「監督だって同じだよ。『ここで泣かせよう』と思って演出する。AIは、それを精度高くやってるだけだ」
「……理屈では、そうなんだけど」
麻子は、カップの中のミルクの層を見つめた。もう混ざりきって、境目は見えない。
「私の、心の一番柔らかいところを、プログラムに撫で回されたみたいで」
——撫で回されていたのは、もしかしたら、自分自身だったのかもしれない。その考えが、一瞬だけ頭をよぎって、消えた。
「撫で回された、か」
拓海が、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「うん」
「でも、麻子さん、気持ちよかったんだろ?」
麻子は、顔を上げた。
拓海は、笑っていなかった。責めているのでもない。ただ、事実を確認する問いだった。
「……気持ちよかった」
麻子は、正直に答えた。
「気持ちよかったから、悔しい」
拓海は、少しだけ頷いた。頷いたが、何も言わなかった。窓の外を見た。商店街を行き交う人々の、それぞれの顔、それぞれの人生。それすらも、最適化されたデータの一部に見えているのかもしれなかった。
薄い
「……ねえ」
唐突に、拓海が窓から視線を戻した。
「麻子さん、俺の顔、ちゃんと覚えてる?」
「は?」
あまりにも脈絡のない問いに、麻子は思わず笑った。
「何それ。毎年会ってるのに、覚えてないわけないじゃない」
「いや、そうじゃなくて」
拓海は、笑っていなかった。真剣な、それでいてどこか焦点の合っていない眼差しで、麻子を見つめた。
「俺って、ここ数年で、変わった?」
麻子は、言葉を飲み込んだ。
拓海の顔を、じっと観察した。
整った顔立ち。清潔なシャツ。髪のセット。何も変わっていないように見える。老け込んだわけでも、痩せたわけでもない。でも——
「……変わったかな。でも、なんか、変わり方が、老けるとか、そういうのじゃなくて」
「なんか、薄くなった?」
拓海が、麻子の言葉を先取りした。
「……うん。なんか、薄い」
麻子は、正直に答えた。
物理的に透けているわけじゃない。でも、彼の存在そのものから、ノイズのようなものが削ぎ落とされて、「人間としての輪郭」がぼやけている。
そういう、感覚。
沈黙が落ちた。
拓海は、ふっと口角を上げた。不自然なほど自然な笑顔だった。
「気のせいだよ。仕事ばかりで、人間らしさが抜けてきたのかもな」
「そうだよ。ちゃんと休まないと」
二人は、軽く笑い合った。
笑った直後。
麻子の視線が、ふと、隣の窓ガラスへ向いた。
そこに映る自分の顔。
——薄い。
麻子は、息を止めた。ガラスの中の自分も、拓海と全く同じように、人間としての輪郭が削ぎ落とされ、誰でもない顔に近づいていた。
気づいた。でも、麻子はそれを、口には出さなかった。
麻子は、笑いながら、手帳にペンを走らせた。
『薄い』
たった二文字。彼女の観察眼が捉えた、確かな違和感の観測値。
書き終えた瞬間、ペン先が止まった。
その二文字の下に、もう一行、薄い鉛筆書きの文字があった。
『麻子もだよ』
麻子の指先が、紙の上で硬直した。
自分の筆跡だった。でも、鉛筆で書いた覚えは、ない。そもそも、この手帳には万年筆しか使わない。鉛筆は、家にも置いていない。
そして、その『麻子もだよ』のすぐ横に、さらに薄く、今にも消えそうな文字で、こう書き足されていた。
『拓海もだよ』
——同じページに、二つの宛先のメッセージ。
麻子は、ゆっくりと手帳を閉じた。革の表紙を合わせる、その指が、かすかに震えた。
「どうした?」
拓海が、窓から視線を戻した。
「……ううん。ペン先、インク切れかな」
「替えのある?」
「ある、大丈夫」
麻子は、手帳をバッグにしまった。
しまう瞬間、バッグの中のスマホが、ほんの一瞬、軽く振動した。誰かからの通知ではなかった。画面を確認しても、何も表示されていない。
でも、振動は、確かにあった。
一時間少し過ぎ、拓海が伝票を取った。
「また来年ね」
「うん、また来年」
店の外に出ると、少し生ぬるい風が吹いていた。
駅の改札で別れる時、拓海がいつもより少し長く、麻子の顔を見た気がした。気がしただけかもしれない。
◇◇◇
(拓海 モノクローム)
俺の顔が、薄くなっている。
麻子さんもそう感じたのか。俺自身、鏡を見るたびに、自分の顔が「誰でもない誰か」の顔に近づいているような気がしていた。でも、痛みはない。恐怖もない。ただ、静かに自分が均質化されていく感覚だけがある。
彼女は「薄い」と言った。——では、彼女は、薄くないのだろうか。俺の目に映る彼女も、少しずつ輪郭を失っているように見えるのは、俺の側の問題なのか。それとも、この世界全体が、同じ速度で薄くなっているだけなのか。
◇◇◇
(麻子 モノクローム)
帰りの電車。
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
——薄くなっている。
気のせい、ではなかった。目の下のくま、頬のライン、唇の輪郭。どれも、ほんの少しずつ、ぼやけていた。誰かが画像処理ソフトで、私の顔に「ぼかし」のフィルタをかけたみたいに。
手帳の中の、鉛筆書きの一行を思い出す。
『麻子もだよ』
『拓海もだよ』
誰が、書いた?
私以外に、この手帳を触れる人間はいない。でも、筆跡は、間違いなく私のもの。
——もしかしたら、私が書いたのかもしれない。書いた瞬間の記憶だけが、バックグラウンドで処理されて、消えた。拓海が「五人の名前」を思い出せなかったのと、同じように。
窓ガラスの中の、薄い自分の顔が、少しだけ微笑んだ気がした。
私は、笑っていなかった。
——手帳の最後の行:『麻子もだよ。拓海もだよ。——誰が、書いた?』
