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『52Hzのあなたへ。』—これは、まだ書き終えていない手紙—

自分の声が、誰にも届いていない気がする夜へ。
周りの人と、少しだけ違う周波数で生きているあなたのために。
これは、まだ書き終えていない手紙。

海へ書く

これは、まだ書き終えていない手紙

この手紙を、
いつか誰かが読むのかはわからない。

だから海へ書くことにした。

私は毎朝5時、海へ戻る。
「戻る」が、正しい言葉。
「行く」ではない。

港町の、小さな浜辺。
深く、息を吸う。

潮の匂いは昔から変わらない。
少しベタつく風も、いつも同じ。
この体が覚えている、一番古い記憶。

波の音以外、何もない時間。
空はまだ夜の色を残している。

でも私には、光より先に音が届く。

低く、遠く、
誰も気にしない周波数で
世界は今日も歌っている。

海は答えない。
泣いている夜も、愛された夜も、
同じ波を返す。

それが、いい。

答えない海だけが、私の全部を知っている。

これは、まだ書き終えていない手紙。

52Hz。

35年間、
誰からも返事のない周波数で
歌い続けたクジラがいる。

私は、その声のことを。
誰よりも知っている気がしていた。

一度も、その声を聞いたことがないのに。



1989年

声は、深いほど遠くへ届く

1989年。
海の底で、ひとつの歌が観測された。

米海軍の水中マイクは、
それを異常周波数と記録している。
私は、その声の孤独の形を、
どこかで知っていた。

52Hz。
既知のどのクジラとも一致しない声。
多くの大型クジラの声は、
もっと低い周波数で記録される。

52Hzは、 孤独な周波数だった。
返事は、 一度だって確認されたことがない。
それでも翌年も、 また翌年も、
同じ声が、 海を通過していく。

35年間。
彼は歌うことをやめなかった。

◇◇◇

海には、 音が最も遠くへ届く層がある。

SOFAR層。
深海には、静かな声だけが通れる道がある。

水深600〜1,200m。
その深さに入ると、 音の輪郭が変わる。
低い音ほど減衰せず、 数千km先まで届く。

その感覚を、 言葉で説明するのはとても難しい。

たとえば、自分と海の境界がなくなる感じ。
私は昔から、
深い場所ほど静かなことを知っている。

深いほど、遠くへ。
静かなほど、遠くへ。

この手紙も、
そうであればいいと思いながら書いている。

◇◇◇

ここから先は、光の届かない海域。
もしも今、周りと周波数が合わず、
自分の呼吸が浅くなっていると感じるなら。

どうかこの手紙の続きを開いてみてください。

私たちがなぜ、
この静けさの中で歌い続けるのか。
その確かな理由を、深海に置いています。

出口はきっと、夜明け前の清々しさ。

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