【短編小説】貴女の物語を贈って欲しい
緑色の何かを身に付けて、入社式に参加するように申し伝えられた。みどり監査法人のモチーフは、青葉だ。団結感を醸し出したいのだろうと面倒に思いながら、緑色のストライプが入ったネクタイを締めて、俺――佐伯竜也は入社式の会場に入った。事前の予想通り、入社式に参加している男性職員の多くが、緑色が何処かに散りばめられたネクタイを締めていた。
男性に比率が偏っている公認会計士業界を反映しているかのように、入社式に臨む女性職員は少なかった。ネクタイを締めない女性陣の中には、緑色の髪留めをした女性職員がいた。緑色のアイシャドウを顔に施している女性職員もいた。
だが、会場全体を見渡すと、明らかに、一人目立つ女性職員がいた。
周囲の職員の多くが、黒いリクルート・スーツを着ている中、彼女は淡いベージュ色のパンツ・スーツを身に纏っていた。光沢のあるベージュ色のパンツ・スーツは彼女によく似合っていた。
席順通りに座ると、俺の隣の席に彼女が座っていた。彼女は、背筋を正し、凛と前を向いていた。横目で彼女を観察したが、緑色の片鱗は見当たらなかった。
入社式開始時刻になると、やはり緑色を取り入れたネクタイを締めたお偉い男性陣が、会場前方に現れた。肩で風を切りながら現れた、数少ないお偉い女性陣は、緑色のスカーフを首元に巻いていた。
眠気と戦う入社式が始まった。新入職員の名前が呼ばれ始めた。元気よく返事をする職員の声が会場に響いた。自分の番で眠りこける訳にもいかず、体から睡魔を叩き出そうとした。
隣の席に座っている彼女の名前を聞いた瞬間、睡魔は砕け散った。
「白木幸恵」
彼女の口が動き、返事をしたと認識した。彼女から目が離せなくなり、音が遠のいていった。
「佐伯竜也、佐伯竜也! 聞こえているのか!」
白木の姿に魂が吸い寄せられていた俺は、入社式でまともに返事をできなかった。
入社式が終わると、会場を去ろうとする白木の右腕を掴んだ。白木が振り向いた。白木の瞳は、冬の湖面のように冷徹だった。
「四年二組にいた白木だよな? 秋に転校した白木だよな? 俺に下手な絵を描いたノートを押し付けやがった白木だよな? 何で、白木が公認会計士試験を受けて、公認会計士になろうとしているんだよ! 白木は小説家になるんだろう!」
白木が目を見開いた。白木は、力一杯、俺の手を払い除けた。芯の通った声が、響き渡った。
「ガリ勉だった佐伯? 社会人一日目から無断で女性の体に触れるなんて、失礼でしょう。相変わらず、知識以外、脳には何も詰まっていなさそう。どうやら、常識という知識を脳に吸収する暇もなかったようね」
社会人一日目から、白木に想いを寄せている男という誤報と共に、俺の名前は速やかに同期に覚えられた。
*
小学校の頃の思い出は、ほとんど残っていない。両親は、俺が中学受験を制して、エスカレーター式で、名門と呼ばれる大学に進学する、と夢見ていた。俺は、両親の夢を自分の夢と思っていた。勉強漬けの日々を疑う思考回路など、持ち合わせていなかった。
「書き直せないかな? 大人になった時の夢とか? 将来、どんな職業に就きたいとか?」
「俺の夢は、櫻田大学附属櫻田中等学校に進学することです」
将来の夢を書いた作文の原稿用紙を俺に返そうとしながら、担任の先生は眉を寄せていた。ありのままに自分の夢を書いたにも拘らず、途方に暮れている担任の先生を見て、腹の底が熱くなった。
「先生、佐伯君は白紙なんですよ。夢がないから白紙を無理やり埋めたんです。だから、仕方がないですよ」
教室の後方から、白木の声がした。俺は振り返ると、大声で反論した。
「白木の夢は何だよ!」
「小説家!」
白木の声は弾んでいた。理解不能な生き物との対話を諦めた。俺は作文の原稿用紙を先生に押し戻した。
白木は、昼休みになると、ノートに物語を書いていた。友達の誕生日に、物語が書かれていたノートを贈っていた。何が嬉しいのか理解不能だったが、ノートを受け取ったクラスメイトは、ノートを読み漁っていた。
白木が転校する前の最後の日。白木はクラスメイト二十八名全員にノートを配った。後で知ったが、ノートに書かれていた物語は、全て異なっていた。スポーツが好きな男子生徒には、サッカーや野球の物語を贈り、片思いをしていた女子生徒には、恋愛物語を贈っていたらしい。
白木は、俺にもノートを押し付けた。ノートには、下手な絵が描いてあった。サッカーボールの絵、机の絵、海の絵、山の絵、紅葉の絵。絵が描かれている以外は、文章は書かれておらず、空欄ばかりだった。
「佐伯君に何を贈ろうか迷ったんだけど、佐伯君は自分でノートを文章で埋めて。絵を見て、思うがままに書いてみて」
テキストや参考書を見ながら、ノートに問題の解答を書くのではなく、下手な絵を見ながら文章を書けと言うのか?
俺は鼻で笑った。
「見ていろよ。俺は白木よりも凄い大人になってやるから」
「その前にノートを文章で埋め尽くしてね」
白木は、彼女自身が光であるかのように、眩しく笑った。
*
白木と二人きりで話す機会は、なかなか訪れなかった。
同じ部署に配属された俺と白木は、運命の悪戯か、同じチームに配属された。チーム内で、同期は俺と白木だけだった。
守秘義務を徹底すべく、職場の外で職務内容を話せない分、職場内で公認会計士たちは口が軽かった。入社式の時にばら撒かれた噂は進化を遂げ、俺は小学生の頃から白木に好意を寄せており、職場で片思いの相手と再会し、現在進行形で恋心を募らせている男にされていた。反論を試みたが、噂は進化し続け、俺は諦めの境地に達した。
白木と二人で会話をすれば、噂の内容がエスカレートすると分かっていた。だが、何故、小説家になりたいと無邪気に宣言していた少女が、今、俺と同じ職場で働いているのか、どうしても知りたかった。小説家になる夢は、何処に消えたのか、聞いてみたかった。
十月下旬になり、機会は巡ってきた。
銀座にあるクライアントの本社ビルに伺ったある日、チームリーダーが腹を壊した。チームリーダーは、栄養ゼリーで昼食を済ませると話した。チームリーダーは、スーツがきつそうに見える大柄な体格をした三十代半ばの男性職員であり、ラグビーを趣味にしていた。栄養ゼリーだけで食事量が足りるとは思えなかったが、残りのメンバーで昼食に出掛けた。チームリーダーの他に、本社ビルの会議室で仕事をしていたメンバーは、俺と白木のみだった。
俺はビジネス・バッグを持って、本社ビルから外に出た。ビジネス・バッグを持ち出した俺を見て、顔をしかめた白木は、「仕事をサボって、逃げ帰るつもり?」と嫌味を放った。並木通り沿いのイタリアン・レストランに入ると、俺と白木はナポリタンを頼んだ。
ウェイターが去ると、俺は口を開いた。
「白木、お前、何で、監査法人で働いているんだよ? 副業しているのか? 家で小説を書いているのか?」
「子供の頃の夢をほじくり返さないでくれる? 不快な話題を持ち出すなんて、やっぱり、佐伯はつまらない大人になったね」
「つまらない大人になったのは、白木のほうじゃないか?」
ウェイターがテーブルにアイスコーヒーを二つ置いた。白木はアイスコーヒーを口に含んだ。アイスコーヒーを口にした白木は渋い顔をした。
「子供の頃に、将来の夢を語れなかった佐伯に言われたくない」
「小学生の頃から俺が変わっていない、と思うのか?」
俺はビジネス・バッグから年期の入ったノートを取り出した。ノートを開くと、紅葉の絵が描かれていた。いまだに空欄は埋められていなかった。
*
大学まで内部進学した俺は、高校生の頃から、公認会計士試験の勉強を始めていた。大学一年生の夏に受けた論文式試験に合格した俺は、その年の最年少合格者になった。
成績を維持するために勉強に追われる必要がなくなった。公認会計士試験の勉強にも追われなくなった。受験勉強から解放された俺は、何をすれば良いか、分からなくなった。
「遊んで欲しい」
唐突に母が俺に語った。感情を顔に出さずに過ごしていたはずの俺は、母の言葉を聞き、ポーカーフェイスが成り立っていなかったか、心配になった。
「顔に出さなくても、分かるわ。子供の頃から、私たち両親の夢を竜也に押し付けて、竜也は自分の夢を持てなくなった。後悔しているのよ」
現状に満足していた俺は、母の言葉を飲み込めなかった。母は、痛ましい目付きで、俺を見ていた。
「今からでも、社会に出るまで、思う存分、遊んで欲しい」
残りの大学生活の過ごし方を何も思い付かなかった俺は、咄嗟に頷いた。
英語の勉強になるかと思い、英会話サークルに入った。英会話サークルの正体は、飲みサークルだった。先輩たちに酔い潰された。
大学祭実行委員会で事務部門に所属すれば、社会人になってから役立つかと思った。大学祭の期間中、夜の大学校内を隅々まで巡回した。一緒に巡回していた女子大生に告白された。先輩たちの策謀により、二人きりにされたと判明した。
勉強漬けだった生活が一変した。
白木から渡されたノートを押入れから引っ張り出した。絵を見ながら、文章を書こうとしたが、思い付かなかった。クラスメイト全員に異なる物語を贈った白木の姿を思い出し、今更ながら、驚愕した。白木は夢を追い続けているだろう、と勝手に思い込んでいた。
*
白木は目の前に置かれたノートを見ると、こめかみを揉み始めた。
「頭痛がする。後生大事に持っていたの?」
「押入れの中に放り込んでいたんだ。大学生の頃になって、ようやく空欄を埋めようとしたけれど、埋められなかった。俺には想像力が足りないらしい。白木は俺以外のクラスメイトには物語を贈っていただろう? 白木の物語を俺にも贈ってくれよ」
「私は物語を書かなくなったの。今の私は、何も物語を思い浮かばないよ」
「何で、物語を書かなくなったんだ?」
「お金にならないでしょう? 私も現実社会に溶け込めるようになったんだから」
白木は歪な笑顔を浮かべた。
何故か、俺は焦燥感に襲われた。
「昔の俺みたいなことを言うなよ。何でも良いから、俺にも物語を贈ってくれよ」
「だから、今の私は物語を書けなくなったの!」
白木の怒声に、店内の客たちの視線が俺たちに集中した。店内を見渡した白木は、体を縮めた。
俺は深く息を吸った。
「じゃあ、俺と一緒に物語を書いてくれ」
「何それ、告白?」
「何でそうなる?」
「私のこと、好きなんでしょう?」
「ガセネタだ! 簡単に噂を信じるなよ!」
「冗談よ」
白木が淡く笑った。笑みを浮かべた白木の姿を見て、俺の胸に安堵が押し寄せた。
俺は紅葉の絵を指差した。
「ほら、何か思い付け」
「無茶なことを言わないでよ。そうね、銀座の並木通りの木々の葉はまだ緑色のままで、紅葉していない。これで良い?」
「ただの事実だろう。物語になっていないだろう」
地球の裏側に届きそうな溜息を吐いた。
レストランの窓から、銀座の並木通りを眺めた。確かに、木の葉は緑色のままだ。紅葉するまで、まだ時間が掛かりそうだ。燦然と輝く太陽の光を受けて、緑色が際立って見えた。
ふと入社式の光景を思い出した。窓の外の景色から白木に視線を移した。
「白木、何で、ベージュ色のスーツを入社式で着ていたんだ? 指定されていた色は、緑だった。白木の姿は、異端児にしか見えなかった」
「青葉がモチーフになっているから、緑色が指定されていたんでしょう? 私は子供の頃の夢を捨てたの。だから、青葉の時期は通り過ぎたの」
耳を大きくして、白木の言葉を聞いた。
「紅葉狩りに行くくらい、日本人は紅葉が好きよね。確かに、紅葉は彩に溢れて美しい。でも、紅葉の赤色や茶色は、枯れる前の葉の色。私にピッタリだと思ったの」
「今、言ったこと、ノートに書けよ」
白木の眉が吊り上がった。白木が声を荒げた。
「物語じゃないでしょう?」
「白木自身の物語だろう? 白木が空欄を埋めたら、俺が別の絵の空欄を埋めてやるよ」
白木の全身から力が抜けた。白木は目を瞬いた。
「佐伯は空欄を文章で埋められるの?」
「……善処します」
「政治家みたい。ビジネス・バッグ、持ってきているでしょう? ペンを貸してよ。佐伯の下手くそな文章を読んでみたい」
俺がペンを貸すと、白木は夢中になってノートに言葉を書き綴った。目の前の白木の姿が、小学生の頃の白木の姿と重なった。
白木が満面の笑みを見せた。
「書き終えたよ。本当に佐伯は空欄を埋められるのかな?」
白木が俺にノートを返した。ようやく、俺は白木から物語を受け取った。
白木は気付いているだろうか。
白木の笑顔は、小学生の頃に浮かべていた、光のように眩い笑みに変貌していた。(了)
初めて、灯火杯に参加させて頂きました。
「書く人へのエール」「秋」「(広義の)アート」の全ての課題を取り込もうとしたけれど、難しかった……。
ちなみに、「小説家志望」「公認会計士」「監査法人」で影山さくらの実体験ではと疑われる可能性があるかと少し懸念していますが、フィクションです。ノンフィクションでは、ありません。
サムネイルの写真は、去年の秋に撮影した銀座の並木通りです。なかなか紅葉しなかった🍃🍁
『貴女の物語を贈って欲しい』をお読み下さった皆様、誠にありがとうございました!
